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定員表を読んでみよう(番外)軍楽隊
さて「定員表を読んでみよう」、海防艦の予定でしたが先日軍楽隊についてひとつ記事を書きましたので、それに関連して軍楽隊の定員表を読んでみましょう。
軍楽隊の所属
実は、海軍定員令の別表(定員表)に「海軍軍楽隊」あるいはそれに類する項目は存在しない。海軍では軍楽隊は鎮守府あるいは艦隊に附属するものとされておりそれぞれの項目に軍楽隊の定員は含まれている。鎮守府所属の軍楽隊は各鎮守府隷下の海兵団に団附として定員が定められており、艦隊所属の軍楽隊は艦隊司令部において司令部附とされている。
日中戦争勃発直前の昭和12(1937)年4月1日に内令第135号で海兵団を含む学校などの定員表が、同23日(6月1日施行)に内令第169号で艦隊司令部や艦船部隊の定員表が全面的に改定されているのでこの時点のそれぞれの定員表をみてみよう。
艦隊司令部附属軍楽隊
海軍定員令別表第三十三表「聯合艦隊、艦隊、戦隊司令部定員表」では軍楽科員について以下のように定めている。
司令部附
軍楽科特務士官 1
軍楽兵曹長 1
軍楽兵曹 17
軍楽兵 15
特に関連する記述がないため「備考」は割愛する。特務士官が指揮官、准士官の兵曹長が直接の隊長格、下士官兵をあわせて34名となり、これが1個軍楽隊の基本編制と考えていいだろう。なお定員表では軍楽科特務士官の分隊長としての配置は指定されていない。「艦内編制令」には以下の規定があり戦闘中は暗号、弾薬運搬、応急作業、治療などにあてられた。
第78条
司令部附及隊附下士官、兵中戦闘に際し司令部の業務又は隊務に従事せざる者は左の標準に依り乗艦の配置に編入す
(中略)
主計科又は軍楽員 暗号部員、弾薬供給員、応急員、治療所員補助等に充つ
鎮守府所属軍楽隊
海軍において艦隊と同格の内戦部隊は鎮守府になるので軍楽隊も鎮守府司令長官の所属となるはずだが、鎮守府では軍楽隊を海兵団に配属していた。むしろ艦隊のほうが適当な配属先がなく司令部附とするしかなかったのだろう。海兵団は軍港に置かれて軍港地の警備などの本来任務に従事するほか、新兵や一部特修兵の教育、さらに一時的に配属先がない人員を収容するなどの機能をあわせもち、いわば鎮守府単位の人材バンクだった。軍楽隊もこの海兵団に配属されていたのである。
海軍定員令別表第二十五表「海兵団定員表」を以下に示す。各定員は左から横須賀、呉、佐世保の各海兵団である(舞鶴海兵団はこの時期編成されていない)。
団附兼教官 軍楽科特務士官 4 1 1
団附
軍楽兵曹長 4 1 1
軍楽兵曹 51 17 17
軍楽兵 24 15 15
同じ理由で「備考」は割愛する。
呉海兵団と佐世保海兵団に配属されている軍楽科員は艦隊司令部附と同一で、呉と佐世保には軍楽隊が1隊ずつ所属していることがわかる。横須賀海兵団所属の軍楽科員は明らかに数が多い。ひとつは横須賀軍港に配属された軍楽隊とは別に1個隊を東京に派遣していることによる。これだけでほかの鎮守府と比べて2倍の員数が必要になるが、もうひとつ理由があって、軍楽術特修兵のための課程つまり軍楽兵の術科教育は横須賀海兵団の練習部で担当していたことによる。海兵団練習部は新兵の教育のほか一部術科教育も担当しており各海兵団に置かれたが、軍楽術教育は横須賀海兵団に集約されていた。軍楽兵は数が少なく横須賀でまとめて教育するのが得策と考えられたのだろう。盧溝橋事件以前の日本海軍では軍楽隊は全部で10個もないはずでつまり現役軍楽科員は特務士官から兵まで全部集めてもせいぜい300名程度にしかならない。また東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に練習生を派遣する制度があり、その点でも横須賀に位置することは便利だった。
横須賀海兵団について詳しくみてみると、特務士官と准士官(兵曹長)は4人ずつ、下士官はちょうど3倍だが兵は2倍に少し足りない。東京派遣隊(通称海軍東京軍楽隊)にはベテランの下士官を増やし、その分兵を少なくしたのかもしれない。下士官の一部と准士官以上の半分は軍楽隊には加わらず教育専従だったのだろう。東京隊は編制が大きかったということも考えられる。
海兵団の組織や任務を規定した「海兵団令」には以下の規定がある。
第17条の2
軍楽科分隊長は団長の命を承け軍楽分隊を指揮統御し諸部署一部の長と為り軍紀風紀を維持し隊員の教育及人事を掌理し分担の諸物件を整備す
この記述は軍医や主計とまったく同一で軍楽科特有のものではない。ただし定員表には軍楽分隊長の配属は規定されていない。軍楽科には士官がないためだが、実際には軍楽科特務士官(横須賀ではそのうち最先任者)が分隊長を兼ねたのだろう。
海兵団所属の軍楽科特務士官は教官を兼務しており海兵団練習部での任務もあったことがわかる。呉・佐世保海兵団には教育中の軍楽兵はいないはずなので教官としての仕事はなかったのではないかという疑問があるが、一般兵の教育の補助をしていたのだろうか。
戦時の軍楽隊
盧溝橋事件が発生した当時、日本海軍には鎮守府が3個(横須賀・呉・佐世保)、艦隊司令部が4個(聯合艦隊・第二艦隊・第三艦隊・練習艦隊)編成されていた(第一艦隊司令部は聯合艦隊司令部の兼務)。これに東京隊を加えた8個軍楽隊が配属されていたはずだが、練習艦隊には必ず軍楽隊が配属されていたという話があるので逆に言えば外地の艦隊などには軍楽隊を置かなかったこともあるらしい。
日中戦争に対処するため大陸方面に艦隊が増設されその上級司令部として支那方面艦隊が編成されるが新設艦隊には必ずしも軍楽隊は置かれなかったようだ。日米戦争が近づくと舞鶴鎮守府が置かれ(復活)、さらに多数の艦隊が編成されて軍楽隊の所要数も倍増では済まなくなったはずだが、現実にはそのために軍楽隊を大量増員するようなことはできるはずもなく、艦隊司令部所属軍楽隊が置かれたのは一部の艦隊(聯合艦隊など)に限られ、鎮守府所属軍楽隊も一部は置かれなくなった。練習艦隊は廃止された。太平洋戦争においても聯合艦隊司令部所属軍楽隊は末期まで維持され続けたが、本土決戦が迫るとさすがに活動を停止したらしい。海軍全体が戦時体制に邁進するなか、軍楽隊だけは平常時の規模をほぼ維持したまま、その人員で対応できる範囲内の演奏任務を果たしてきたのだろう。
おわりに
海軍軍楽隊を構成する軍楽科員には特務士官・准士官・下士官兵のみがあって士官がいないという特色がありました。看護科も同様ですが士官の軍医がいてその指揮を受けたのに対し、軍楽科にはそうした士官もいなかったのです。そのため勅令などの法令には詳細な規定がありません。艦船や部隊に配属されることもない(身分は艦隊司令部附あるいは海兵団附で艦船部隊から見れば出向のようなもの)ため艦内編制令などにも軍楽隊そのものの規定はありません。こうした内容は海軍軍楽隊操式という海軍省達で規定されていたらしいのですが、当時の達の記録をみても「別冊は所要の向きに配布」とされていて内容は記載されていませんでした。別冊とあるくらいなのでそれなりの分量はあったはずですが、ごく限られた人員だけが知っておけばいい内容だったのでしょう。
要するになにが言いたいかというと、公的な記録があまりに少なくて多分に推測に頼るしかなかったことの言い訳でした。戦時中の話も何かで読んだかすかな記憶に頼っています。
次回の記事は検討中です。海軍関係では予定通り海防艦の定員表をとりあげるつもりですが、英国貴族が先になるかもしれません。
ではもし機会がありましたら、また次回お会いしましょう。
(カバー画像は海上自衛隊横須賀音楽隊 - 横須賀地方総監部の X 投稿より)