聯合艦隊司令長官伝 (14)上村彦之丞
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は上村彦之丞です。
総説の記事と、前回の記事は以下になります。
秋津洲艦長
上村彦之丞は嘉永2(1849)年5月1日に鹿児島で生まれた。父は薩摩藩校の漢学師範だった。戊辰戦争に従軍して鳥羽伏見の戦いに参加し、東北を転戦する。戦後改めて上京し海軍兵学寮に入寮する。生徒だった明治9(1876)年に砲艦雲揚に実習のために乗り組むがまもなく10月31日に和歌山県沖で座礁して破壊されてしまう。幸い上村は救助され、砲艦雷電で西南戦争中の横須賀の警備にあたる。戦争中の明治10(1877)年6月8日に海軍少尉補に命じられる。のちに海軍兵学校第4期生とされた。砲艦孟春を経てコルベット日進に乗り組む。明治12(1879)年9月19日に海軍少尉に任官し、明治14(1881)年12月17日に海軍中尉に進級する。コルベット清輝に移って明治17(1884)年4月8日に海軍大尉に進級する。
この後も艦船での勤務が続く。千代田形は江戸幕府が建造した旧式艦で練習艦として用いられていた。航海長として事実上の教官役をつとめる。砲艦天城分隊長のあと、コルベット大和副長に補せられる。艦長は東郷平八郎だった。横須賀鎮守府参謀をつとめていた明治23(1890)年9月17日に海軍少佐に進級した。砲艦摩耶艦長、さらに姉妹艦鳥海艦長を歴任する。巡洋艦秋津洲艦長で日清戦争を迎える。秋津洲は坪井航三司令官が指揮する第一遊撃隊に所属して戦争冒頭の豊島沖海戦に参加し、黄海海戦では清国艦隊に大きな損害を与え、以後清国艦隊は出動しなくなった。戦争の最中の明治27(1894)年12月7日に海軍大佐(当時海軍中佐の階級はない)に進級する。威海衛も陥落して、台湾本島の平定もはじまっていた頃になって常備艦隊参謀長に移る。当時の司令長官は有地品之允である。戦後も参謀長として常備艦隊にとどまり、井上良馨、相浦紀道、坪井航三、柴山矢八の歴代長官に仕えた。
はじめて海軍省で勤務することになったのは大臣官房人事課長である。のちの人事局長に相当する。1年あまりつとめて、イギリスで建造されている戦艦朝日の艦長予定者である回航委員長としてイギリスに渡った。ところが明治32(1899)年9月26日に上村は海軍少将に進級する。たとえ戦艦でも艦長は大佐の配置である。上村は在英国のまま造船造兵監督官に移り、回航委員長を三須宗太郎に引き継いで翌年帰国する。ちぐはぐな気もするが、そもそも回航委員長に上村をあてることを決めたのは人事課長の上村自身である。うっかりしていたのか、イギリスにいってみたかったのか。
第二艦隊司令長官
少将になって帰国すると海軍省のナンバースリーである軍務局長に補せられる。ロシアとの緊張が年々高まっていた当時、軍備拡張に邁進していた日本海軍で政策決定の主務者の責任は重かった。一時、海軍軍令部次長も兼ねたがこれは欠員の穴埋めだろう。日高壮之丞長官の下で常備艦隊司令官に補せられる。明治36(1903)年2月から8月にかけて、三景艦松島、橋立、厳島に分乗した海軍兵学校第30期候補生(百武三郎など)を率いて東南アジアからオーストラリアをめぐる遠洋航海を行なった。司令官が遠洋航海を直接率いるのははじめてで、日露戦後の練習艦隊の原型になった。
明治36(1903)年9月5日に海軍中将に進級して海軍艦政本部長に補されるが、まもなく戦時体制を前提とした人事異動がおこなわれ、東郷平八郎が常備艦隊司令長官に補せられると上村は常備艦隊司令官に復帰する。本格的に戦時体制に移行し、常備艦隊が第一艦隊と第二艦隊に改編され、両艦隊で聯合艦隊が編成されると、第二艦隊司令長官に親補された。第二艦隊は6隻の装甲巡洋艦を基幹として編成され、主力艦を基幹とする第一艦隊とともに主戦場である黄海で旅順のロシア艦隊に対峙していたが、沿海州ウラジオストクを基地とするロシアの巡洋艦部隊が通商破壊に乗り出すと聯合艦隊としても対応を迫られた。ウラジオストクのロシア部隊(浦塩艦隊と呼ばれた)は装甲巡洋艦を主に編成されており、戦艦では速力で及ばず、防護巡洋艦では火力や装甲で太刀打ちできない。対応できるのは装甲巡洋艦の他になく、上村が直接浦塩艦隊を追うことになる。
しかし元来、通商破壊戦は攻撃側が圧倒的に有利である。攻撃する側は任意に攻撃地点を選択できるが防御側は的を絞れない。浦塩艦隊は朝鮮海峡で陸軍の輸送船を撃沈破したかと思うと、津軽海峡を通過して太平洋に出、東京湾沖に出没したりした。上村は必死に浦塩艦隊を追ったが、北方海域に特有の濃霧にもはばまれてなかなか捕捉できなかった。新聞では「濃霧というがさかさに読めば無能だ」などという記事が掲載され、ロシアのスパイ呼ばわりをして留守宅に投石する者もあらわれた。この状況を動かしたのはロシア帝国の首都サンクトペテルブルクだった。封じ込められた形になった旅順のロシア太平洋艦隊主力に、皇帝の脱出命令が届いた。旅順艦隊の臨時司令長官ヴィトゲフトは、浦塩艦隊に脱出の支援を命じた。浦塩艦隊は命令を受けて出撃し、旅順艦隊がやってくるはずの朝鮮海峡をめざした。上村艦隊はようやく浦塩艦隊の進路を予測できるようになり、蔚山沖で捕捉に成功した。両艦隊の戦力はほぼ互角だったが、ロシア艦隊の装甲巡洋艦1隻を撃沈し、残りに大打撃を与えて少なくとも戦争中は再起不能となった。砲声の中、参謀が黒板に「残弾なし」と書いて示すと上村はその黒板を奪い取って甲板に叩きつけたという。どれくらい鬱憤がたまっていたか、うかがわれる。世論は一夜にして手のひらを返し、上村がロシア水兵の救助を命じたことを「武士道の発露」ともてはやして「上村将軍」なる歌まで作られた。ふつう海軍の将官を将軍とは呼ばないので作詞者が無知だったのだろう。上村はこの呼び方を好まなかったといわれるがそもそも違和感が拭えなかったのではないか。
日本海海戦では主力の第一艦隊が丁字戦法をとったのに対し、ロシア艦隊が日本側の後方に抜けようとしたその前方をおさえたのが上村の第二艦隊だった。ロシア艦隊主力の逃亡を許さず撃沈または捕獲に追い込んだのは上村の功績と言える。凱旋して横須賀鎮守府司令長官に移り、明治40(1907)年9月21日に男爵を授けられて華族に列せられた。明治42(1909)年12月1日に第一艦隊司令長官に親補された。当時の第一艦隊は日露戦争当時の戦艦とロシアからの捕獲戦艦で編成されていたが、翌年には新造艦を含むようになり捕獲艦の割合は減る。明治43(1910)年12月1日に海軍大将に親任された。
2年の艦隊勤務を終えて軍事参議官に転じた。満65歳の誕生日である大正3(1914)年5月1日に後備役に編入されて現役を離れた。ほんの2ヶ月前に海軍大将の現役定限年齢が68歳から65歳に引き下げられたところだった。
上村彦之丞は大正5(1916)年8月8日死去。満67歳。海軍大将従二位勲一等功一級男爵。
おわりに
上村彦之丞は日露戦争にある程度興味がある人なら当然知っている名前だと思います。しかし若いときの資料があまりみつからなくて苦労しました。明治初期は特に資料が少なく、あっても達筆すぎて読めなかったりします。こういうのを AI がどうにかしてくれるといいのですが。
次回は出羽重遠です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は日本海海戦で上村が旗艦とした巡洋艦出雲)
附録(履歴)
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