海軍大臣伝 (11)安保清種
歴代の海軍大臣について書いています。今回は安保清種です。
前回の記事は以下になります。
佐官まで
安保清種は明治3(1870)年10月15日に佐賀藩士出身でのちに海軍大佐になる沢野種鉄の三男として生まれた。初名は沢野庚三郎(ウィキペディアには「康三郎」とあるが誤り)。明治15(1882)年予科生徒として海軍兵学校に入校。父沢野中佐はこの年10月16日には兵学校次長として着任した。その後年末までに大佐に昇進している(年末時点での職員一覧による)。しかし沢野大佐は現職のまま明治18(1885)年2月4日に病死している。
明治15(1882)年の入校から明治18(1885)年末までのあいだ(同期生加藤寛治の伝記には明治17(1884)年とある)に林清康海軍少将の養子になり、名前を林清種と改めている。「種」字は実父からとったものである。本稿では改姓後の「安保」で通すことにする。
明治20(1887)年9月12日に本科生徒となり、明治24(1891)年7月17日に海軍兵学校を第18期生として卒業し、海軍少尉候補生を命じられた。同期生61名中11位。首席は加藤寛治だった。コルベット比叡に乗り組み、遠洋航海としてオーストラリアのシドニーやメルボルンを訪れた。
帰国後は水雷術練習艦迅鯨、砲艦干珠、巡洋艦松島、巡洋艦高雄に乗り組んで実習を重ね、明治27(1894)年3月1日に海軍少尉に任官した。4月20日には砲術練習所学生を命じられたが、日清戦争が切迫したことを受けて6月27日に巡洋艦厳島分隊士に移った。聯合艦隊の主隊として出撃し、黄海海戦に参加したが期待されたほどの働きはできなかった。翌年7月29日に砲艦磐城航海士に転じたが、台湾制圧がひと段落した年末12月20日に砲術練習所学生に復帰した。課程を終えて一応ではあるが砲術畑(鉄砲屋とも)の道を歩き始める。
養父の林清康海軍中将(明治23(1890)年9月24日昇進)は日清戦争の前に予備役になっていたが、戦争中に召集されて呉鎮守府司令長官をつとめていた。この功績により明治29(1896)年6月5日に男爵を授けられて華族に列した。清種は男爵家の相続人になった。林男爵家は翌年1月4日に家名を安保と改め、清種も安保姓となる。
巡洋艦松島分隊士、佐世保海兵団附から分隊長心得、巡洋艦和泉分隊長(心得)を経て明治30(1897)年12月1日に復活した海軍中尉に、同月27日に海軍大尉に昇進した。和泉航海長のあと、砲艦筑紫分隊長を経て、建造中の防護巡洋艦明石の砲術長予定者として横須賀で勤務し、就役すると正式に明石砲術長に就任した。
一時、砲術練習所教官をつとめたのち、装甲巡洋艦出雲を受領するためにイギリスに渡った。帰国すると海軍軍令部副官に補されて伊東祐亨海軍軍令部長に仕えた。明治35(1902)年7月8日、戦艦朝日分隊長。明治36(1903)年2月20日、巡洋艦須磨砲術長。9月26日、海軍少佐に昇進して装甲巡洋艦八雲砲術長で日露開戦を迎える。
八雲は第二艦隊第二戦隊に配属されたが、黄海海戦には出羽重遠中将の指揮下で第一艦隊に臨時編入されて参加した。旅順開城後の明治38(1905)年2月13日には聯合艦隊旗艦三笠の砲術長に移った。旗艦の砲撃は麾下諸艦の砲撃の基準になるため、その責任は重大だった。裏を返せば、それだけ安保の砲戦指揮ぶりが高く評価されていたということになる。5月27日から翌日にかけて行われた日本海海戦は安保の指揮よろしく圧勝に終わった。
このとき安保は、日本人に馴染みのないロシア軍艦の名前を水兵でもわかりやすい、縁起の悪い日本語で置き換えた。例えば戦艦ボロジノを「ボロ出ろ」といった具合である。戦闘中安保砲術長は直接戦況を見ることが出来ない乗組員のためにその様子を実況していた。安保が「三笠の弾が『ボロ出ろ』に当たったぞ」と叫ぶと東郷長官が振り返り「砲術長、いまのは当たっておらんぞ」と指摘した。安保は「不確かでしたが、実は激励のために当たったことにしました」と答えて三笠の艦橋で時ならぬ笑いが起きたという。
日露戦後、明治38(1905)年に末から明治41(1908)年初めまで英国に駐在する。イギリス滞在中の明治39(1906)年9月28日に海軍中佐に昇進した。帰国後は海軍大学校の教官に補された。
明治42(1909)年10月27日、養父である安保清康中将が亡くなった。11月22日に家督相続が認められ、安保が男爵を継いだ。
明治43(1910)年12月1日、巡洋艦秋津洲艦長に補せられる。明治44(1911)年1月16日に第二艦隊参謀、12月1日海軍大佐に昇進すると参謀長に昇格する。司令長官は吉松茂太郎中将だった。
大正2(1913)年3月、イギリス駐在武官として3度目の渡英をした。第一次世界大戦がはじまった大正4(1915)年夏に帰国。一時海軍軍令部出仕となるが12月13日戦艦安芸艦長に補せられる。
軍令部次長・海軍次官
大正5(1916)年12月1日に海軍少将に昇進して海軍軍令部第一班長を命ぜられる。第一班は軍令部のなかでも作戦計画を担当する最重要部署だった。少将としての4年間を第一班長として過ごした安保は、大正9(1920)年12月1日に海軍中将に昇進するとそのまま海軍軍令部次長に昇格した。
安保が第一班長または次長として軍令部に勤務していた期間はちょうど八八艦隊計画が進められていた時期で、安保はこの計画を前提とした作戦計画の立案に力を注いだことは間違いない。しかし大正11(1921)年秋にワシントン軍縮条約が締結されて八八艦隊計画は未完成のまま破棄されることになる。情勢の激変をうけて軍令部でもイチから作戦計画を練り直す必要が生まれ、それにともなって人事異動が行なわれ安保は軍令部次長を更迭された。
次長の交代は本人の責任ではないのだが、いったん居場所がなくなったのも確かであり、安保はジュネーブの国際連盟に派遣されることになった。辞令の記載は「国際聯盟陸、海、空軍問題常設諮問委員会に於ける帝国海軍代表者」である。軍縮を討議する委員会の日本海軍代表というところだ。陸軍も代表を出しており、空軍代表は陸海軍代表が適宜兼務した。はじめのうちは安保のように将官があてられていたが時代が下ると階級がだんだん低くなり、関心が薄まったことを示している。
1年で帰国し大正12(1923)年5月25日、海軍艦政本部長に補せられる。八八艦隊で想定されていた大量建造がキャンセルされて各地の海軍工廠では人員整理が行われており、艦政本部でも人員計画の見直しに追われていた。仕事が減った民間造船所が事業を継続できるような政策を考える必要もあった。
大正13(1924)年6月11日、岡田啓介次官の退任をうけて海軍次官に繰り上がる。海軍大臣は財部彪だった。軍令部次長と海軍次官をともに経験するのは珍しい。しかし1年も経たない大正14(1925)年4月15日、大角岑生に次官を譲って呉鎮守府司令長官に親補された。大正15(1926)年12月10日、軍事参議官。昭和2(1927)年4月1日、海軍大将に昇進。4月20日、岡田啓介が海軍大臣に親任されたあとをうけて横須賀鎮守府司令長官に親補。昭和3(1928)年5月16日に再び軍事参議官。ロンドン軍縮会議では全権顧問として渡英した。
海軍大臣
ロンドン軍縮条約は統帥権干犯だという攻撃を受けて一大政治問題となった。焦点となった批准を終えて海軍大臣の財部彪は辞任する。安保は海軍省本省での経験は豊富とは言えないが、一応海軍次官の経験もありなにより軍縮会議全権顧問として交渉の経緯を把握していた。昭和5(1930)年10月3日、海軍大臣に親任される。
安保海軍大臣の最初の仕事はロンドン条約を前提とした軍備充実計画だった。昭和6(1931)年度から11(1936)年度まで6年継続の補充計画だった。のち同様の計画が立てられるとさかのぼって第一次補充計画、俗に①計画と呼ばれることになる。この予算は紆余曲折はあったものの議会の承認を得て成立する。
ロンドン条約の余波は続いた。昭和5(1930)年11月14日、浜口首相が右翼の青年に狙撃されて重傷を負った。犯人は「統帥権干犯がけしからんからやった」と供述したが、取り調べの刑事が「統帥権干犯とはどういうことか」と尋ねるとうまく説明できず、理解していなかった。浜口首相は入院し、幣原喜重郎が臨時代理をつとめたが、無理をして議会に出席した浜口はかえって容態を悪化させ総辞職を余儀なくされ、昭和6(1931)年4月14日に第二次若槻礼次郎内閣が成立した。安保海軍大臣は留任した。浜口は8月26日に亡くなった。
その直後の9月18日に柳条湖事件が起こって満州事変が始まった。満州駐在の関東軍の戦力は内地から交代で派遣されている2個師団である。満州全体を制圧するには兵力が足りない。関東軍は朝鮮軍に増援を求めた。しかし朝鮮軍が駐屯する朝鮮は日本国内、満州は国外である。兵力の国外派出は天皇の承認が必要になる。また兵力を動かすには予算が必要で、予算の支出は内閣の権限である。内閣では予算支出を認めず、事変を拡大させるべきではないという意見が強かったが、朝鮮軍が独断で越境したという報せが届くと若槻首相の腰が砕けた。事実として出兵してしまった者に対して予算を支出しなければ困るのは兵士であるとして「出たものはしかたない」と予算の支出を認めた。
若槻首相は軍部を抑えるために野党である政友会をとりこんだ連立内閣を模索した。しかしこの動きがかえって閣内に対立をもたらす。若槻内閣は閣内不一致で総辞職し、12月13日政友会単独の犬養内閣が成立した。安保は海軍大臣を退任し、大角岑生が後任となった。
この時期、ロンドン條約後の人事刷新でいったん後退を強いられた末次らの勢力が1年あまりを経て巻き返しに動いていた。そのターゲットになっていたのは加藤寛治のあとに海軍軍令部長に親補された谷口尚真であった。しかし政変により安保が退任することになったため、安保大臣の時代には具体的にはならなかった。
またもや軍事参議官に移った安保は、昭和8(1933)年6月1日に待命となり、昭和9(1934)年1月15日に予備役に編入されて現役を離れた。昭和10(1935)年10月15日に後備役に編入され、昭和15(1940)年10月15日に退役になった。
昭和9(1934)年7月28日貴族院男爵議員に選出される。近衛内閣では閣僚に準じる内閣参議に任じられた。戦後、公職追放処分をうける。昭和23(1948)年6月8日、癌により死去。満77歳。海軍大将正三位勲一等功四級男爵。
おわりに
安保も海軍大臣としては影が薄い存在です。在任中には満州事変という大事件があったのですが。第一次補充計画を立案したのは安保大臣の時期であることは覚えておいてもいいでしょう。
さてウィキペディアの安保の項目にはいろいろと疑問に思われる記述がありました。はっきり間違いとわかるものはそう書いていますが、真偽不明なものはとりあげませんでした。特に安保大臣時代の海軍省と軍令部の人事のくだりはほとんどが財部大臣の時代の発令で時期があいません。この段落全体の信憑性が疑われます。ただ谷口については直後に実際に更迭があったので動き自体はあったのでしょう。ただし安保に構想があったかどうかはわかりません。この段落には出典もないので確認のしようもありません。
次回は大角岑生になります。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は艦長をつとめた戦艦安芸)
附録(履歴)
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