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海軍水路官

 海軍士官にはかつて水路官、のちに水路科士官と呼ばれた士官がいました。あまり知られていないのは、人数が極端に少なかったからです。

水路部

 軍艦に限らず船が航海するときに欠かせない海図を作成しているのは現在の日本では海上保安庁だが、戦前は海軍が担当していた。海図の作成は測量作業と切り離せず、深度や航路、標識を測量して海図に落とし込むという手順が必要になる。幕末に日本を訪れたペリー艦隊は江戸湾の測量をおこなった。維新後に朝鮮と江華島事件を引き起こした軍艦雲揚も、朝鮮半島やロシア沿海州沿岸の測量をおこなっていたのである。

 明治4(1871)年に海軍水路司を新設するのと同時に兵部省に水路局が置かれたのが海軍での水路関係機構の始まりである。水路司はまもなく廃止され、翌年海軍省が独立すると水路局を引き継いだ。しかし半年もすると海軍省内局の水路局は、外局である水路寮に改変される。
 初期の水路行政を牽引したのはもと伊勢国津藩士だった柳楢悦だった。柳は水路掛から水路権頭を歴任し、明治9(1876)年に海軍省水路局が復活すると局長に就任した。明治13(1880)年には海軍少将に進級し、明治21(1888)年まで勤めた。この間、明治19(1886)年にはふたたび海軍省から独立し、外局である海軍水路部と称した。
 柳の後継者となったのは薩摩出身の肝付兼行である。この交代のタイミングで組織の改編があり、海軍水路部は単に水路部と改称するとともに海軍参謀本部に所属することになる。陸軍にならったものだと考えられる。海図と同じく陸上の地図は陸軍が作成を行なっているが、その作業を所管した陸地測量部は参謀本部に所属していた。これは日本の参謀本部が範としたプロイセン参謀本部と同様である。参謀業務の第一歩目は地図を読むことにはじまり、プロイセン参謀本部では地図の読解を特に重視した。陸地測量部が作成した地図は機密事項を取り除いた上で民間利用のために一般向けに販売されていたが、もとが軍用地図なので土地の利用状況や障害物の有無など、軍隊の移動に影響する事柄に特に詳しく作られていた。水路部が作成した海図も同様に機密にかかわる部分を除いて民間船舶での利用のために一般に販売されていた。当然、外国海軍も合法的に入手できることになる。
 水路部が所属した海軍参謀本部は組織改編に応じて明治22(1889)年に海軍参謀部、明治26(1893)年には海軍軍令部と改称した。明治27(1894)年には築地の海軍用地(のち築地市場があった場所)に移転する。ところが明治30(1897)年にいたってふたたび海軍省の外局にもどる。作戦上の必要性よりも行政との調整の方が重視されたことになるが、陸軍における地図と海軍における海図の位置付けの違いが反映されたのだろう。
 海軍省の外局という水路部の立場はこれで確定して終戦に至る。大正9(1920)年に内部組織が整理されて課制が採られた。大正12(1923)年の関東大震災で築地の水路部庁舎は焼失し、同地に仮庁舎を設けた。新庁舎が完成するのは昭和9(1934)年のことになる。大戦中に部制を採るようになったが、敗戦で海軍が解散するとその業務は運輸省に引き継がれ、さらに運輸省の外局として設立された海上保安庁が担当するようになって現在に至っている。

海軍中将 男爵 肝付兼行 (1853-1922)

水路官

 初期の水路部を指揮した柳楢悦は海軍少将、それを引き継いだ肝付兼行の最終階級は海軍中将で、いずれも将校(兵科将校)として勤務した。水路部職員は柳や肝付のような海軍将校と文官の技術官で構成されていた。
 明治19(1886)年に士官の階級が改正されて最高大佐相当の技術士官が設けられると、一部の文官技術官が武官の技術士官とされるが、文官の技術官のまま残ったものもいた。

 明治29(1896)年に技術士官が造船官・造兵官・水路官に改編されて水路士官が独立すると、水路部で勤務していた技術士官と、文官のまま勤務していた技術官が大尉相当の海軍水路大技士の階級を与えられる。このときに任官したのは7名である。
 明治30(1897)年には海軍大尉の高野瀬廉が少佐相当の海軍水路監の階級を与えられた。さらに明治32(1899)年には海軍中佐の荒畑岩次郎と鈴木環が中佐相当の海軍水路監に任じられた(同じ名称だが制度変更で相当する階級は変わっている)。高野瀬・荒西・鈴木はもと兵科将校だが長く水路部に勤務しており、水路官の階級が整備されたため転官したものである。
 明治34(1901)年に6名、明治38(1905)年には2名が海軍水路少技士候補生に採用され、水路士官をいちから養成するという制度が定着したかのように見えた。

 ところが水路士官の採用はこれを最後にして絶えてしまう。水路業務に携わるもののうち、実際に艦船で測量にあたるのは乗組員で、具体的には海図のユーザーになる航海科員が担当した。ユーザーが製作に携わるのは理にかなってり、水路部長をはじめとする要職の多くは航海を専門とする将校がつとめることになる。水路士官の職場は水路部に限られたが、定年に達した水路士官が文官の技師に採用されて水路部での勤務を続けるなどの例も出て、水路専門の士官をわざわざ設ける意義が薄れていった。終身官で階級が厳密に決まっている武官としての水路士官より、融通がきく文官を採用したほうが得策だと判断されたのか、水路部はやがて航海を専門とする兵科将校と、海図の作成や修正作業にあたる文官の海軍編修で構成されるようになる。

 少数勢力の水路士官は制度としては残ったが、死亡や退職で時を追うにつれて人数を減らし、昭和のはじめごろには現役はいなくなった。その後も制度としての水路科士官が残り続けたのは、士官は終身その階級と士官の身分を保持すると定められていたためである。太平洋戦争中の昭和17(1942)年に技術科士官が新設されると水路科士官は同等の技術科士官とみなすとされて、ここでようやく水路科士官は廃止されたが消え去ったわけではなく、技術科に引き継がれた。この時点でもまだ存命の水路科士官はいたようである。

おわりに

 自分が官報などから調べた範囲では水路士官は新規採用と中途採用をあわせて18名だけで、その時期も明治29年から38年と10年にも満たないあいだだけでした。18人という数は海軍大将の77人に遠く及ばない貴重な存在でそれが逆に興味をそそり、ずっと気にはなっていたのですが少し前に思い立って本格的に調べてみました。本当はもう少し広げられる内容があったのですが、需要がないと思うのでこのくらいにしておきます。

 ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。

(カバー画像は水路寮が作成した横浜港の海図 - 明治7年)

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