支那方面艦隊司令長官伝 総説
歴代の支那方面艦隊司令長官と、その前身になる第三艦隊司令長官について述べていきます。
まずは総説から。
日清戦争
日清戦争で清国に勝利し台湾と遼東半島を取得した日本だったが、三国干渉で遼東半島の返還を余儀なくされ、中国方面で拠点を得ることはできなかった。遼東半島先端の関東州(旅順、大連)はロシアが租借し、戦争末期に日本が占領した威海衛は戦後イギリスが租借し、山東半島南岸の膠州湾をドイツが租借した。日清戦争での敗北をきっかけとして各地を列強が租借することになったが、そのきっかけを作った日本自身はそうした租借地は得られなかった。日清戦争の最大の戦争目的だった朝鮮半島から清国の影響力を排除することには成功したが、その隙間にロシアが入り込み朝鮮をめぐってロシアと争うことになる。とても中国本土までは手が回らず、新領土台湾の防衛も後回しになった。
日露戦争
日露戦争で朝鮮半島のみならず満州南部沿岸からロシアを駆逐した日本はようやく中国本土に恒常的に影響力を行使することができるようになる。その拠点はまずロシアから奪った関東州、そして同盟国イギリスが握っていた上海だった。中国大陸、特に揚子江周辺に得た利権を保護するために軍艦が常駐するようになる。日露戦争後に編成された南清艦隊はその名称とはうらはらに揚子江で主に運用される河用砲艦を主力とした。明治41(1908)年には南清艦隊は第三艦隊と改称した。
第一次世界大戦
第一次大戦冒頭、ドイツの租借地である膠州湾の攻略には本国から第二艦隊が派遣された。攻略が完了して第二艦隊が凱旋し、占領地には臨時青島要港部が置かれた。ちょうどその頃(大正4(1915)年)、第三艦隊の長が司令官から司令長官に格上げされ親補職となった。この時期にははじめて旧式ながら戦艦が配属され、内地の第一、第二艦隊と匹敵する戦力を与えられた。
第一次大戦が終わると軍縮が始まる。大正11(1922)年度の艦隊編制では第二艦隊は枠だけあって配属艦がなかった。翌大正12(1923)年度には第二艦隊が復活したかわりに第三艦隊が同じ憂き目を見る。以後、第三艦隊は艦隊編制上では存在するが配属艦も将兵もないという状態が上海事変まで続き、事実上廃止された。中国方面の警備は第一次大戦中に臨時編成された特務艦隊の系譜を継いだ第一、第二遣外艦隊が担当した。
上海事変
昭和6(1931)年9月に始まった満州事変は、昭和7(1932)年に入ると上海に飛び火して上海事変となった。満州事変には冷淡だった海軍も上海で戦闘が起こると本腰を入れ始め、第三艦隊を再編することになる。兵力は第一遣外艦隊を中心として、第一艦隊や聯合艦隊から増強する形をとった。戦闘は陸戦隊を中心として航空部隊が本格的に参戦するなどの特徴がみられたが水上艦同士の海戦は起こらなかった。戦闘は3月はじめに停戦となったが、第三艦隊は以後継続して編成されるようになり、司令部は上海に常駐することになる。第一、第二遣外艦隊は吸収された。
日中戦争以前の第三艦隊は中国にあって日本海軍の出先機関として軍事のみならず政治的な動きをすることが多かった。当時は南京に首都を置いていた中国政府との折衝にも携わる。日本海軍では中国通は主流ではなかったが、その中国通が多く司令部附などとして大陸で勤務した。
日中戦争
昭和12(1937)年7月にはじまった日中戦争ははじめ華北に限定されていたがまもなく華中でも衝突がはじまり全面戦争に発展した。第三艦隊は上海に位置して中国大陸全体を担当していたが、その重点は揚子江沿岸に置かれていた。陸軍部隊が河北省から山東省に進出して沿岸部で海軍が支援をする必要が生じると、上海の第三艦隊からでは指揮が難しかった。揚子江方面で第三艦隊司令部が手一杯だったということもあり、第四艦隊が新たに編成されて華北方面作戦を担当することになった。第三艦隊は華中以南に専念するとともに、第三、第四艦隊をあわせ指揮する支那方面艦隊司令部が10月20日付で新編された。支那方面艦隊司令部は第三艦隊司令部の兼務である。11月20日に大本営が編成される。
昭和12(1937)年中に南京が攻略されるが国民党政府は内陸部に移って抗戦を継続する。海軍は小艦艇で揚子江をさかのぼるのとあわせて航空部隊を前進させた。中国軍を軍事的に打倒する目処は立たなくなり、抵抗力を削ぐために海上封鎖が行なわれた。当時、中国軍の支配下に残る華南沿岸を封鎖するとともに、華南の中心地である広州を攻略した。この作戦のために華南を担当する第五艦隊が昭和13(1938)年2月に新編され、支那方面艦隊に編入された。本国の聯合艦隊が2個艦隊編成であるのに対し、支那方面艦隊は3個艦隊編制となる。
日中戦争も3年目に入ると軍事的にも政治的にも完全に行き詰まった。先の見通しが立たないままただ現状維持のためだけに戦力を注ぎ込んで消耗するという悪循環に陥っていた。海軍では主敵とするアメリカに備えるために中国方面の戦力の整理を考え始める。昭和14(1939)年11月、支那方面艦隊隷下の各艦隊が再編されて華中の第一遣支艦隊、華南の第二遣支艦隊、華北の第三遣支艦隊と改称する。最重要な華中が第一に置かれたのは変わらないが、第二が華南、第三が華北と番号が入れ替わっている。華北はすでに安定しており重要度は下がっていた。一方で国民党支援ルートが通る華南の重要度は高まっていた。第二遣支艦隊は翌年から始まる仏印進駐において海軍側の主力をなす。
太平洋戦争
対米戦争開戦の前、海軍が大陸に派遣していた航空部隊の大半がすでに引き上げられていた。開戦直後、それまで中立国として中国国内に駐屯していた連合軍拠点を占領することで長年の懸念のひとつを解消したが、以後中国大陸で積極的な作戦を海軍がおこなうことはなくなった。
昭和17(1942)年に入ってまもなく、第三遣支艦隊が廃止されて青島方面特別根拠地隊に格下げされた。昭和18(1943)年半ばには第一遣支艦隊も揚子江方面特別根拠地隊に改編された。ただ華南方面の第二遣支艦隊だけは終戦まで生き残り、さらに南進の拠点とされた海南島には開戦前に防衛のみならず占領行政も担当する海南警備府が特設部隊として設置されていた。
昭和20(1945)年には作戦について聯合艦隊の指揮を受けることになり、4月末には海軍総隊司令部が聯合艦隊や支那方面艦隊などのすべての海軍部隊を統一指揮する体制となる。連合軍による中国大陸への上陸が真剣に憂慮されたが実現する前にポツダム宣言を受諾して終戦となる。
おわりに
第三艦隊時代の司令長官はいずれも中将で、聯合艦隊司令長官より明らかに格下でした。支那方面艦隊が編成されると古参中将ないし大将が通例となり聯合艦隊司令長官と同期あるいはわずかに下という例が多くなり、その差は縮まっています。短期間の在職で多分に中継ぎといえる吉田善吾は当時の聯合艦隊司令長官である豊田副武より先輩になります。そもそも吉田は5年前に聯合艦隊司令長官を経験済みです。
さて「支那」という呼称は多分に否定的な印象があるため地の文では用いませんが「支那方面艦隊」や「遣支艦隊」などは当時の正式な組織名であり使用せざるを得ません。他意はありませんのでご了承ください。
次回から歴代支那方面艦隊司令長官を取り上げていきます。大正時代に前身である第三艦隊の初代長官となった村上格一はすでに海軍大臣としてとりあげています。
初回はまず有馬良橘から始めようと思います。ではまた次回お会いしましょう。
附録
歴代南清艦隊司令官
歴代第三艦隊司令官
歴代第三艦隊司令長官(大正期)
歴代第三艦隊司令長官(昭和期)
歴代支那方面艦隊司令長官
歴代第四艦隊司令長官
歴代第五艦隊司令長官
歴代第一遣支艦隊司令長官
歴代第二遣支艦隊司令長官
歴代第三遣支艦隊司令長官
歴代海南警備府司令長官
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