海軍大臣伝 (18)野村直邦
歴代の海軍大臣について書いています。今回は野村直邦です。
前回の記事は以下になります。
佐官まで
野村直邦は明治18(1885)年5月15日、鹿児島県日置郡に生まれた。初名は仁蔵。鹿児島一中を経て日露戦争の最中の明治37(1904)年11月に海軍兵学校入校、明治40(1907)年11月20日に卒業して海軍少尉候補生を命じられる。第35期生172名中の卒業成績は43位だった。首席は近藤信竹。巡洋艦厳島に乗り組み、東南アジア方面への遠洋航海に出た。シンガポールを経てイギリス領セイロン(現スリランカ)に達し、オランダ領東インドからマニラに寄港し台湾海峡澎湖諸島馬公港に入った。その後、中国沿岸、朝鮮半島、北海道などを経由して横須賀に帰着する予定だったのだが、馬公碇泊中の4月30日早朝に厳島、橋立とともに練習艦隊を編成していた松島が爆発事故を起こして沈没した。艦長矢代由徳大佐以下221名が殉職した。野村の同期生も松島に乗り組んでいた57名のうち33名が命を落とした。犠牲者の中には公爵大山巌元帥の嫡男である大山高候補生も含まれていた。予定は変更されて5月13日に佐世保に帰国した。
戦艦鹿島乗組に移って明治41(1907)年12月25日に海軍少尉に任官した。駆逐艦弥生乗組、おなじく神風乗組を経て海軍砲術学校と海軍水雷学校の普通科学生を修了する。これは初級士官のほぼ全員が通るお決まりのコースだった。戦艦安芸に乗り組んでいた明治43(1910)年12月1日に海軍中尉に進級する。通報艦龍田、巡洋艦千代田、通報艦満州、巡洋艦阿蘇と乗艦を変わる。海軍大学校乙種学生と海軍水雷学校高等科学生を修了して水雷屋として一本立ちする。大正2(1913)年12月1日に海軍大尉に進級した。
三等駆逐艦子日乗組、新造の二等駆逐艦柏乗組を経験して、三等駆逐艦ではあるが白雲駆逐艦長として1艦を指揮することになった。このころ、名前を仁蔵から直邦に改める。大正7(1918)年度は第一艦隊の戦艦戦隊の参謀をつとめる。年度の大半は旧式戦艦が配属された第二戦隊参謀だったが、短期間だが最新鋭の扶桑級超弩級戦艦をもつ第一戦隊の参謀をつとめた。その後、海軍大学校甲種学生(第18期生)を命じられ、在校中の大正8(1919)年12月1日に海軍少佐に進級した。
学生修了後は当時唯一の潜水戦隊である第一潜水戦隊参謀に補せられる。戦隊は海中型潜水艦で編成されていた。その後、海軍軍令部参謀を経てドイツに2年間駐在した。当時のドイツは第一次大戦の敗戦から5年前後でワイマール共和国の時代だった。帰国を命じられてまもない大正13(1924)年12月1日に海軍中佐に進級した。帰国後は海中型潜水艦で編成された第十六潜水隊司令に補せられる。もともと潜水艦部隊には水雷屋または航海屋があてられることが多く、水雷屋の野村も潜水艦色を強めていく。潜水学校での教育を受けていないが、こうした例は珍しくない。その後は海軍艦政本部部員に移る。潜水艦担当だった可能性はあるが辞令からはわからない。ジュネーブ軍縮会議の全権随員としてヨーロッパに渡るがこの会議は決裂に終わった。昭和3(1928)年12月10には海軍大佐に進級し潜水母艦長鯨艦長に補せられた。当時長鯨は第二潜水戦隊の旗艦である。潜水母艦の艦長は自艦だけでなく潜水艦の支援にあたることとされていた。
長鯨艦長を半年つとめてドイツ大使館附武官として再度ドイツに渡る。当時のドイツは世界恐慌の不況の最中で、ナチスの政権獲得直前だった。ドイツ駐在中にロンドン軍縮会議の全権随員をつとめている。帰国後は巡洋艦羽黒艦長、航空母艦加賀艦長を経て海軍潜水学校長に補せられる。昭和9(1934)年11月15日に海軍少将に進級する。
三国同盟軍事委員
少将に進級した野村は第二潜水戦隊司令官のあと、昭和11(1936)年度の聯合艦隊参謀長をつとめた。長官は高橋三吉である。情報担当の軍令部第三部長を経て中国大使館附武官に補せられる。すでに日中戦争が始まっており、大使館といっても傀儡政権とのあいだで開設されたものだった。昭和13(1938)年11月15日に海軍中将に進級した。昭和14(1939)年11月15日に華北を担当する第三遣支艦隊司令長官に親補された。しかし華北はすでに戦局の焦点から外れていた。日独伊三国同盟が締結されると海軍省出仕兼軍令部出仕、つまり定まった職務のない辞令を与えられ、三国同盟軍事委員としてヨーロッパに派遣されることになった。シベリア鉄道経由(当時独ソは友好国)でドイツに赴き、ドイツやイタリアとの共同作戦の日本側窓口となった。もっとも地理的に遠く離れた日本と独伊では協力できる余地は大きくなかった。できるとしたら潜水艦作戦くらいであり、野村が派遣されたのにはそうした点も考慮されたのだろう。
ドイツに滞在すること2年あまり、昭和18(1943)年3月に帰国命令を受ける。スターリングラードの戦闘が終わったころでソ連への入国など思いもよらず、帰国するには海路しかなかった。ちょうどドイツから日本に贈与されることになった潜水艦 U511 に便乗して5月10日に当時ドイツが占領していたフランスのロリアンを出航した。アフリカ大陸を大回りしてインド洋を経て呉に到着したのは3ヶ月後の8月7日だった。
海軍大臣
休養ということか、軍事参議官を短短期間つとめたのち呉鎮守府司令長官に親補された。昭和19(1944)年3月1日に海軍大将に親任される。
7月、サイパンが陥落すると東條英機首相は追い詰められる。協力を求められた重臣は、条件としてかねてから評判の悪かった海軍大臣嶋田繁太郎の更迭を要求する。政変を回避したい嶋田は辞任を受け入れた。沢本頼雄次官の昇格は考えられず、横須賀長官の吉田善吾の再登板も難しいとあって、後任に選ばれたのは海軍省での勤務経験がない野村だった。17日の早朝に親任式を終えて正式に海軍大臣に就任した野村は、次官の沢本を自分のあとの呉鎮守府司令長官に移し、軍務局長の岡敬純に次官を兼任させた。しかしその日のうちに事態は急変する。重臣たちがつけた他の条件、重臣の入閣が暗礁に乗り上げた。東條は、定数が決まっている閣僚の中から岸信介に辞任を求めたが、あらかじめ重臣と密約を結んでいた岸は単独辞任を拒否した。進退きわまった東條は総辞職を決心し、野村は親任式から24時間経たないうちに辞表を提出することになる。
野村自身は次の内閣に留任するつもりで、副官に「荷物はまとめなくてもいい」と言っていたが、やはり東京の状況を正確に把握していなかったと言わざるを得ない。小磯国昭を重臣の米内光政が閣内から支えるため、現役に復帰して海軍大臣に就任することになる。野村より6期上、かつて海軍大臣を2年半つとめ、一度は首相の印綬を帯びた重臣の米内には太刀打ちできない。22日、小磯内閣の成立とともに野村は退任する。在任足かけ6日という最短記録を樹立した。退任の挨拶で野村は憤懣を隠さなかったという。
野村はいったん軍事参議官に親補され、8月2日に軍令部総長に居座っていた嶋田が及川古志郎に交代させられると、かわって海上護衛司令長官に親補される。昭和19(1944)年後半は海上護衛総司令部部隊でも戦力の増強や組織の改編がかなり力を入れて進められたが戦局の悪化はさらに厳しく、フィリピンの陥落で南方資源地域と本土との連絡は断たれた。
昭和20(1945)年4月に海軍総司令部が設立されて海上護衛総司令部が事実上聯合艦隊の指揮下に入ることになる。5月1日には豊田副武海軍総司令長官が海上護衛司令長官も兼ね、野村は軍事参議官に移るとともに大本営海運総監をも兼ねた。終戦後の10月10日に待命を仰せ付けられ、10月15日に予備役に編入された。
野村直邦は昭和48(1973)年12月12日死去。満88歳。海軍大将従三位勲一等。
おわりに
野村直邦の海軍大臣としての事績はないに等しく、そもそも取り上げる必要はないんじゃないかとも思いましたが、のべ6日であっても海軍大臣経験者であることは間違いないので取り上げました。本人がどうのというより、こうした結果を生んだ状況をみてもらえればと思います。それでも巡り合わせとは言え最終回が野村になってしまったのは尻切れトンボでなんだかなあという感じはぬぐえません。
さて恒例ウィキペディアの間違い探し。仁蔵から直邦に改名したのは少尉任官時とありますが少なくとも官報の辞令では大尉時代の大正5(1916)年12月までは仁蔵となっています。翌大正6(1917)年12月には直邦に変わっているのでこの間に改名したのでしょう。
次はぼんやりと考えているネタがあるのですが未確定です。期待せずにお待ちください。
ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は野村がドイツから帰国する際に便乗したU511潜水艦。日本海軍に編入されて呂号第500潜水艦と命名された後の姿)
附録(履歴)
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