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ドイツ領太平洋植民地

 かつて日本が統治していたこともある南洋諸島はいろんな国の統治を経てきました。

ドイツ帝国の植民地政策

 ドイツは英仏に比べて植民地獲得では遅れをとったといわれる。ドイツとイタリアは統一国家の形成が遅れたため、とよく説明されるが実はビスマルク Otto von Bismarck (1815-1898) が植民地獲得に否定的だったことも大きい。

オットー・フォン・ビスマルク


 ビスマルクは植民地の確保を主張する活動家にむかって「なるほど、あなたが示すアフリカの地図は結構だ。しかし、私の頭の中にある地図は別のもの、ヨーロッパの地図だ。ここにロシア、そちらにフランス。ドイツはそのあいだに挟まれているのだよ」と返したという。ビスマルクが何より恐れていたのは植民地をめぐって列強と無用な確執を起こすことで、またドイツが植民地を統治するために経費を支出するのは無駄でしかないと考えていた。
 しかし産業界や経済界では植民地を求める声が強まった。1884年にドイツ植民協会 Gesellschaft für Deutsche Kolonisation が設立され、ビスマルクも列強との利害の衝突が起こらない範囲での植民地の確保を容認する。この1884年はドイツの植民地政策にとって画期的な年になる。アフリカでは南西アフリカ、カメルーン、トーゴラント、東アフリカ植民地がこの年から翌年までに相次いで成立した。

アフリカ分割 (1913年の状況)
青緑がドイツ、赤がイギリス、青がフランス、
緑がイタリア、紫がポルトガル、
黄がベルギー、赤紫がスペイン

植民地時代の太平洋

 大航海時代、太平洋はローマ教皇の裁定でスペインの勢力範囲とされた。特に太平洋の西端にあたるフィリピンと、東端のメキシコのあいだはマニラ・ガレオンと呼ばれる定期船で結ばれ、アジアの物産がメキシコを経てスペイン本国にもたらされる重要な交易路となった。スペインは太平洋諸島を直接支配する意図は乏しかったが、中継地点として唯一確保したのがマリアナ列島最南端に位置し周辺で最大のグアム島だった。
 19世紀に入りメキシコが独立してスペインの支配を脱するとマニラ・ガレオンは終焉を迎え、イギリスやフランス、アメリカなどが進出をはじめるようになった。この地域でドイツ人の活動がみられるようになるのは19世紀なかばで、太平洋地域での主要な交易品であるコプラ(椰子やしの実を乾燥させたもの。搾って油をとる)の栽培と流通を目的とする企業がサモア諸島で農園を経営した。1870年代に入るとニューギニア北部のビスマルク諸島でもドイツ人による椰子農園の経営が始まった。
 1880年代はじめ、オーストラリア北東部クイーンズランド政府がニューギニアの確保を企てる。インドネシアを支配していたオランダがニューギニアまで支配を伸ばそうとしていたのに対抗し、東経141度線でニューギニア島を東西に分割して西側をオランダ、東側を英国領としようとする計画だったが、本国政府に拒否された。当時ニューギニア内陸はほとんど調査されておらず領有する意義が認められなかったのだ。

ドイツ領ニューギニア

 1884年にドイツ本国の政策が変更され植民地の確保がはじまると、ビスマルク諸島と隣接するニューギニア北東部がドイツ領と宣言された。現地のドイツ人が主導したと伝わる。オーストラリアもやや遅れて南東部をイギリス領パプアとし、ニューギニア島はオランダ、ドイツ、イギリスで三分割されることになった。

ニューギニア島の三分割


 ドイツ領ニューギニアはビスマルク諸島や、そのさらに北のアドミラルティ諸島を含んでいた。さらに北上しようとするドイツは、伝統的に自国の勢力範囲と考えていたスペインと摩擦を生じた。交渉の結果、赤道を境に北部をスペイン領、南部をドイツ領と妥協が成立した。カロリン諸島などの太平洋諸島が正式にスペイン領と宣言されたのはこのときのことである。1888年にはナウルがドイツ領とされた。
 サモア諸島では現地の首長同士が争う内戦が発生し、ドイツとアメリカが介入していた。内戦終結後にサモアはドイツとアメリカが分割統治することになり、ドイツ領サモアが成立した。

ドイツ太平洋植民地

米西戦争

 1898年にアメリカとスペインの間で戦争がはじまり、フィリピンとグアムがアメリカ軍に占領された。グアムを攻撃しようとしたアメリカ艦隊が砲撃をはじめたところ、グアム島のスペイン官憲が小船でやってきて乗船し、礼砲に対して答礼できないことを陳謝したという。グアム島では開戦が知られていなかったのだ。
 スペインはフィリピンとグアムをアメリカに割譲した。カロリン諸島など、広い範囲に散在する島嶼だけがスペインの手に残された。統治拠点であったフィリピンとグアムを失なったスペインは残された島々をもて余しアメリカに買い取りを申し出たが拒否された。当時フィリピンでは反米ゲリラが武装闘争を繰り広げておりこれ以上の負担を避けたかったのだろう。
 結局、太平洋諸島は南に隣接するドイツに売却されることになった。2500万ペセタで太平洋諸島を手に入れたドイツはニューギニア植民地に編入した。この1899年にはイギリス領ソロモン諸島との国境線が確定しブーゲンヴィル島までがドイツ領となった。

ドイツ領ニューギニア

第一次大戦とドイツ植民地の終焉

 植民地とは別に、日清戦争後に中国山東省の膠州湾を租借したドイツは東洋戦隊の拠点を置いた。北はマリアナ諸島、西はパラオ、東はサモア、南はニューギニアにまで広がったドイツの領土を防衛する責任を負わされたのがそれほど強力とはいい難い東洋戦隊だった。
 1914年に第一次大戦が始まったとき、ドイツ東洋戦隊主力はたまたま膠州湾を離れてカロリン諸島のポナペにいた。イギリスと日本は敵国ですでに協力して膠州湾の封鎖にあたっており陥落は時間の問題でしかなかった。オランダ、中国、アメリカは中立国だったが、ドイツ領ニューギニアは南のオーストラリアと隣接しており、要するに周囲をすべて敵国に囲まれた状態だった。東洋戦隊は植民地の防衛を断念し南米経由で本国をめざすがフォークランド海戦で壊滅する。

 ドイツ領サモアは開戦早々にニュージーランド軍に占領され、ドイツ東洋戦隊は奪還を断念して回避した。膠州湾は二ヶ月あまりの攻囲の末、日本の手に落ちた。赤道以南のドイツ領ニューギニアはオーストラリア軍の侵攻をうけ1914年末までにはほぼ全域が占領された。赤道以北の太平洋諸島は日本海軍の陸戦隊が10月末までに占領し、臨時南洋群島防備隊が守備を担当した。
 アフリカのドイツ植民地はいずれも英仏植民地と隣接しており早い時期に制圧された。東アフリカではゲリラ戦により終戦まで抗戦を続けたが大勢には影響しなかった。

 第一次大戦後の講和条約でドイツは全ての海外領土を放棄した。ドイツ領サモアはニュージーランドによる委任統治(のち信託統治)を経て1962年に西サモアとして独立する(現サモア)。ドイツ領ニューギニアの赤道以南はオーストラリアの委任統治領となり、1975年に旧英領パプアとあわせてパプアニューギニアとして独立した。
 1899年にスペインから購入した南洋群島は日本が委任統治することになり、統治機構として南洋庁が設立された。

おわりに

 実は最初は米西戦争について調べていたのですが、その際にのち日本の委任統治領になる南洋群島がスペインからドイツに売却されたことを知りました。最近ではあまり聞きませんが、このころは例えばアラスカがロシアからアメリカに売却されるなどお金で領土がやりとりされることがときどきあったようです。住民の意思ガン無視なのはどうかと思いますが。

 画像はウィキペディアから引用しました。

 ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。

(カバー画像はニューギニアの領有を宣言してドイツ国旗を掲揚する海軍部隊)

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