日本海軍の組織(2)軍令部
日本海軍の組織について説明しています。今回は軍令部について。
前回の記事は以下になります。
軍令部
軍令部は海軍の作戦用兵について天皇を輔弼する機関である。明治憲法第11条に「天皇は陸海軍を統帥す」とあり、これを根拠とするが統帥権の独立については陸軍が憲法に先行して既成事実化しており、海軍で統帥機構が海軍省から独立するのはだいぶ遅れた。陸軍に比べて権限もかぎられ海軍大臣の裁量が大きかった。
海軍における統帥組織は明治17(1884)年に海軍省の外局である軍事部として始まった。その後、統帥の一元化をめざす陸軍との綱引きがありたびたび改編があったが明治22(1889)年に海軍参謀部が設立されていったん落ちつく。明治26(1893)年に海軍軍令部と改称して昭和にいたる。
海軍軍令部長は親補職で大中将があてられ、天皇に直隷して統帥に関して輔弼に任じその責を負う。作戦については海軍軍令部で起案し天皇の裁下を得たうえで部隊に伝達(奉勅伝宣)し、その範囲でさらに詳細な指示をおこなった。
昭和8(1933)年、海軍軍令部を軍令部と改称して権限を強化した。このときに海軍大臣から軍令部に移されたのは所要兵力量の策定、平時における海外派遣艦艇への指示などだった。昭和5(1930)年のロンドン軍縮条約で軍令部側が要求した「必要最小限」が認められなかったことに不満をもち、伏見宮や東郷元帥などの長老を担ぎ出して圧力をかけ、実現にもちこんだといわれる。伏見宮は昭和7(1932)年に海軍軍令部長に補職されており「わたしが部長のあいだでなければ実現できまい」と言って後押ししたという。
なおこのとき陸軍が「海軍」の文字を残すよう要求したのに対して「軍令部といえば海軍に決まっている。どうしても残させたいのであれば参謀本部も陸軍参謀本部に改称しろ」と反論して押しきったという話が伝わっている。
改編により海軍軍令部長は軍令部総長と改称された。改称前後を通じて大将、特に聯合艦隊司令長官経験者があてられることが多かった。海軍大臣と軍令部長の両方を歴任した例は少ない。
海軍軍令部次長は部長を補佐し中少将があてられた。改編により軍令部次長と改称した。
軍令部副官は庶務を担当した。大佐の先任副官を含めて2名が定員だが臨時増置で3名とされることがあった。
官制では内部の組織は詳細に規定されておらず、内部規定に委ねられた。改編までは複数の班に編成し、班の下に課を置いた。改編時に班を部に改める。海軍軍令部時代には単に海軍軍令部参謀として発令され班長や課長といった役職は部内の命課という扱いだったが、改編後は部長や課長として辞令が出されるようになった。
班長・部長には少将が、課長には大佐が主にあてられた。部員は部直属あるいは各課に配属された。
第一部
第一部は俗に作戦部、部長を作戦部長と呼ばれもっとも重視された。第一課では国防方針、用兵綱領、作戦計画、戦時編制、所要兵力量策定などを担当し作戦課と呼ばれた。第二課では海外警備行動、平時編制、教育訓練、教範などを担当した。
第二部
第二部の第三課(課の番号は軍令部全体を通じて付番された)では軍備充実計画、艦船航空機兵器の選定、整備、研究などに関する事項を担当した。第四課では出帥準備、国家動員、運輸補給計画などを担当した。
第三部
第三部はいわゆる情報部で、第五課は南北アメリカを、第六課は中国を、第七課はソ連を、第八課は英国を含むヨーロッパを担当した。
第四部
第四部の第九課では通信を担当した。第十課では暗号を、第十一課では外信を担当した。
戦時中には課が増設されたり分担が変更された。新設の第十二課が第一部に所属するなど番号が入れ替わることもあった。
大本営
明治の半ば頃、まだ規模の小さかった海軍に比べて陸軍では統帥をつかさどる参謀本部の組織化で先んじていた。普墺戦争(1866年)、普仏戦争(1870年)で効果を示したプロイセン参謀本部の影響もあっただろう。明治19(1886)年、陸海軍の作戦を統一指揮することをめざした陸軍の働きかけにより、海軍の軍令組織であった軍事部は陸軍の参謀本部に編入されて参謀本部海軍部とされ、陸軍出身の参謀総長の下で陸軍担当の参謀本部次長と海軍担当の参謀本部次長が並列することになる。事実上陸軍に隷属することになった海軍は反発する。明治21(1888)年には「全軍の幕僚長」として参軍がもうけられて皇族の将官をあてるとされ、その下に陸軍参謀本部と海軍参謀本部を置く体制になって名称の面では格上げとなったが、現実には当時皇族の将官は陸軍にしかおらず、看板をかけかえただけで内実は変わりなかった。参軍制度は1年ももたずに廃止され、陸軍参謀本部は参謀本部ともとの名称に戻り、海軍参謀本部は海軍大臣隷下の海軍参謀部となった。
明治26(1893)年、朝鮮半島の緊張がたかまると再度作戦一元化の議論が起こり、海軍軍令部が海軍大臣から独立して平時は参謀本部と同格になった。あわせて戦時には戦時大本営をもうけて参謀総長を全軍の幕僚長とし、参謀次長と海軍軍令部長が次席幕僚をつとめるとされ、戦時の作戦一元化がはかられたが戦時のみとはいえ陸軍の下風に立たされる点は不満として残った。この体制で日清戦争が戦われ、戦時大本営が設置された。
明治36(1903)年末、日露戦争の直前に一刻も早い開戦を望む陸軍に対して海軍大臣は陸海対等を要求し、戦時大本営条例が改定されて参謀総長と海軍軍令部長がそれぞれ所管の作戦について幕僚の長となるとされ、戦時においても陸海対等が実現し、この体制で日露戦争は戦われた。このときの海軍大臣、山本権兵衛のやり口は「開戦を人質にして陸海対等を得た」と一部から批判されたが、結果としてこの体制が基本的には敗戦まで続く。陸軍と海軍の統帥部長が並立して天皇を輔弼するという体制は平時と特段変わらず、戦時にわざわざ大本営をもうける意義は大きく減退したが存続し続けた。ただし大本営においては組織が強化されたり陸海軍大臣が参列する(日清戦争では伊藤首相に列席が命じられた)など、まったく無意味とも言えなかった。
第一次世界大戦では大本営の設置は見送られ、参謀本部と海軍軍令部が作戦を担当した。青島作戦などの陸海協同作戦も実施され、限定的な規模ではあったが特に不都合はなかった。日中戦争が昭和12(1937)年に始まり、長期化の様相を見せはじめると大本営の設置が検討されるようになるが「戦時に」設置するという規定が問題になった(実際には日清・日露戦争ではいずれも宣戦布告前に戦時大本営が設置されている)。中国に宣戦布告してはという意見もあったが中立国との貿易に支障が出るという理由で見送られ、大本営を「戦時または事変時に」設置すると改めた上で戦時大本営を大本営と改称して11月20日に設置された。
大本営が設置されると軍令部総長は海軍部幕僚長を兼ね、大本営海軍部の事務を統轄する。軍令部部員の多くが大本営参謀を兼任し、組織も多くはそのままの形で引き継がれたが、まったくのコピーというわけではなく、例えば海軍大臣に付属する軍事普及部が大本営海軍報道部に横滑りした。
陸海統合は主に陸軍側から根強く主張されたが、事実上の陸軍による吸収だと警戒する海軍の抵抗で実現しなかった。協同作戦の多くは中央協定、現地協定という形で実施され、指揮系統への編入は本土防空や本土防衛などで一部おこなわれた程度にとどまった。
おわりに
次回は鎮守府について。
ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は昭和18(1943)年の大本営御前会議)
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