軍令部総長伝 総説
歴代の軍令部総長・海軍軍令部長をとりあげていきます。
まず総説になりますが軍令部の組織については以前に記事を書いているのでそちらをご覧ください。
軍令組織のはじまり
日本陸軍がその範をとったプロイセン参謀本部は普墺戦争でまずその威力を発揮したが、有名になったのは普仏戦争だった。桂太郎はその直後にドイツに留学しており、帰国後に長州の先輩にあたる山縣有朋の支持を得て日本陸軍にドイツ式の参謀本部の導入をはかった。もと陸軍省の一部局としてはじまった軍令機関は陸軍随一の実力者である山縣をいただいて独立し、さらに皇族の熾仁親王を長に迎えるまでになった。こうして日本陸軍にも参謀本部が生まれる。
海軍が陸軍にならって軍令機関をもうけるには時間がかかった。当時、海軍の組織は陸軍に比べてずっと小さく、また軍艦を最小の戦術単位とする海軍では命令の実行は陸軍に比べてずっと単純だった。それでもはじめて世界レベルの軍艦が導入されはじめた明治17(1884)年、平時から作戦を計画する部門は必要ということで海軍省の外局として海軍軍事部が設置された。しかし海軍にも軍令組織ができてみると陸軍から統合が持ち出される。いざ戦争が起きた場合には陸海軍で作戦の統一をはかる必要があり、そのためには組織も統一しておかなければいけないというのである。海軍側は警戒したがその表向きの理由には反論は難しい。陸軍側に参謀本部の運営について一日の長があることもあり、参謀本部の中に陸軍部と海軍部をもうけて海軍軍事部を参謀本部海軍部に改編することとした。海軍軍事部長は参謀本部次長として海軍部を率い、陸軍部の参謀本部次長と並立して参謀本部長に隷属することになる。参謀本部次長は海軍大臣から切り離された。
しかしこれはもともと陸軍の組織である参謀本部に海軍の組織が従属したかのようにうけとられ、海軍側に不満が残った。明治21(1888)年にその不満を解消するべく参軍官制が定められる。参謀本部陸軍部と海軍部をそれぞれ陸軍参謀本部、海軍参謀本部と格上げし、両者を統率する参軍には「皇族将官」をあてるとし陸軍に限らなかった。しかしこれは現状を追認するにすぎず、海軍側の不満を払拭するに至らなかった。当時、海軍軍人である皇族の最年長は文久2(1862)年生まれの威仁親王で「皇族将官」を海軍から出す見込みは当分なかった。事実上陸軍の優位を固定化するものとして、わずか1年にも満たずに参軍官制は廃止された。
海軍参謀本部は海軍参謀部と改称して海軍省の外局に戻った。参軍だった熾仁親王は参謀総長に就任し「全軍の幕僚長」と定められた。参謀本部長を参謀総長と改めたのは陸軍のみならず海軍の軍令も担当するという意思のあらわれだったとされる。しかし海軍側に陸軍の指揮をうける仕組みはなかった。名称は変わったが海軍軍事部時代の組織に戻ったとも言える。
ちょうどこのころ、大日本帝国憲法が公布施行された。軍について天皇の統帥権と編成権を定めている。具体的な輔弼責任者までは定めていないが、前者は参謀本部などの軍令組織が、後者は内閣などの政府が担当するものと解釈された。これをもって憲法では統帥権の独立を規定したとされるが、実際にはすでに参謀本部が政府から独立していた現状を追認したものである。
海軍軍令部の設置
陸軍の巻き直しは止まなかった。今度は戦時に限って軍令組織の統一をもちかける。清国との衝突の可能性は高まっており、戦時に備えるという大義名分はむげにできなかった。おそらく平時の「事実上の平等」と引き換えに戦時の統一組織の設置に合意した。戦時には戦時大本営が設置され、参謀総長が全軍の幕僚長となり、参謀次長が陸軍担当の次席幕僚、海軍の軍令組織の長が海軍担当の次席幕僚とされることになった。これにあわせて海軍参謀部が海軍省の外局から独立して天皇直隷とされることになる。戦時に大本営が設置されれば海軍参謀部長は参謀総長に隷属するともに、海軍大臣にも隷属することになり、二重隷属状態になってしまう。海軍参謀部は海軍省から独立し、海軍軍令部と改称した。初代海軍軍令部長には海軍参謀部長から佐賀出身の中牟田倉之助が横滑りした。なおこのタイミングで海軍軍令部長は親補職とされている。
余談だが海軍の軍令組織は改編されるたびに海軍軍事部、参謀本部海軍部、海軍参謀本部、海軍参謀部、海軍軍令部と改称してきており、名称の選択に苦慮した節がある。結果的に「軍令部」が海軍軍令組織の名称として定着したがあくまで結果論だろう。
日清日露戦争から改編・敗戦
日清戦争がまぢかに迫り、宣戦布告前だが戦時大本営が設置されると海軍軍令部長の中牟田倉之助は参謀総長の熾仁親王の指揮下に入った。まもなく中牟田は薩摩出身の樺山資紀にかわる。日清戦争では朝鮮半島や遼東半島への陸軍上陸、威海衛の攻略などの陸海共同作戦が実施されたが、戦時大本営がどのくらい効果があったかは判断が難しい。海軍側では特にメリットは感じられなかったようで、戦後になっても陸軍の下風に置かれていることへの不満は続いた。日露戦争直前に当時の山本権兵衛海軍大臣が開戦を人質にするような形で陸海対等をもぎとり、戦時大本営では参謀総長と海軍軍令部長がそれぞれ陸軍部、海軍部の長として並立して天皇に隷属するとし、参謀総長の「全軍の幕僚長」という規定は削除された。これには海軍そのものの存在感が増していたことも影響しているだろう。さらに日本海海戦での大勝が海軍の地位を磐石にする。
日露戦争の直前に局制が班制に変わるなどの内部組織の変更はあったが役割の大きな変更はなかった。もともと海軍軍令部の詳細な組織は省令で決められており柔軟に変更されてきた。参謀・高級指揮官の教育を担当する海軍大学校とは密接な関係にあったが、陸軍大学校が参謀本部の隷下だったのに対し海軍大学校は海軍大臣に隷属した。第一次世界大戦では大本営は設置されず、海軍軍令部で立案された計画は天皇の裁下を得て艦隊司令長官に伝達された(平時は海軍大臣を経由する)。
ワシントン、ロンドンの二度の軍縮会議では、海軍軍令部が戦時に運用するべき兵力の計画に参与できない不満が強まる。ちょうど陸軍が参謀総長に皇族を据えたことに乗じ、海軍でも伏見宮博恭王を海軍軍令部長に押し込むことに成功する。この皇族の権威を背景に、所要兵力計画の策定に関与するとともに、平時の兵力使用について海軍省から海軍軍令部に権限を移すことに成功した。海軍軍令部は単に軍令部と改称し、海軍軍令部長の職名も軍令部総長に変わった。
太平洋戦争がはじまったときの軍令部総長は永野修身だったが、聯合艦隊司令長官山本五十六の個性に圧されてその計画を漫然と受け入れることが多かった。真珠湾攻撃では成功したが、ミッドウェー作戦ではそれが裏目に出る。ガダルカナルの攻防でも、多少の抵抗はしたが、結局は前線の聯合艦隊が求める兵力を提供し続けた。昭和19(1944)年2月には嶋田繁太郎海軍大臣が軍令部総長を兼ねるという前代未聞の人事が断行される。東條英機首相兼陸軍大臣が参謀総長を兼ねるのにならったものだった。このころ、物質の配分において政府と統帥部の対立が激しくなり担当者同士が庁内で乱闘を演じるというありさまで、東條は自分が両方の上に立つことで調整しようとしたらしい。しかし根本の原因は物資が不足していることにあり、解決には程遠かった。東條内閣の退陣とともに嶋田も交代するが戦局は好転せず、本土近くまで米軍に押し込まれ、作戦らしい作戦ができるような戦力は底を尽き、とにかく用意できた兵力を特攻につぎ込むほかにできることはなかった。幸いにも本土決戦が生起する前にポツダム宣言を受諾し、昭和20(1945)年10月15日に軍令部は廃止された。
軍令部総長たち
海軍軍令部長・軍令部総長は初代の中牟田倉之助から最後の豊田副武まで15人になる。平均をとっても海軍大臣よりも在職期間は長くなるが、初期や昭和期の短期在職者を除くとさらに長くなる。最長は伊東祐亨の10年7月、ついで伏見宮の合計9年2月、島村速雄の6年5月と続く。最短は最後の軍令部総長である豊田副武の4月半である。
初代の中牟田倉之助を除いて全員最終的に海軍大将に進級している。明治から大正にかけて多くは海軍中将で発令されているが在職中に海軍大将に進級するのを例とした。例外は交代と同時に海軍大将に進級した樺山資紀と、海軍大将で補職された東郷平八郎である。大正3(1914)年に親補された島村速雄が海軍中将での補職の最後となった。このあとの海軍軍令部長・軍令部総長は例外なく海軍大将となる。海軍大臣と比較してみると、海軍中将で海軍大臣となった最後の人物は昭和14(1939)年8月の吉田善吾で、海軍大臣よりも格上だったことがわかる。ただし大臣と総長を両方経験することはまれで、初期の仁礼景範、樺山資紀を除けば太平洋戦争期の永野修身、嶋田繁太郎、及川古志郎だけだった。必然的に海軍軍令部長・軍令部総長は海軍大臣よりも先任となることが多いが、太平洋戦争末期の米内光政海軍大臣の時期には軍令部総長が後任となった。もともと人事権を握っている海軍大臣は後任であっても海軍軍令部長・軍令部総長に劣らない権力を部内に発揮していたが、その海軍大臣が先任であったことは終戦に導くにあたって有効に働いただろう。
海軍軍令部長・軍令部総長は多く聯合艦隊(または第一艦隊)司令長官の経験者だった。例外は中牟田、樺山、島村、伏見宮、嶋田、及川になる。
おわりに
というわけで次回から歴代の部長・総長をとりあげていくのですが、実のところこれまでの海軍大臣、聯合艦隊司令長官、皇族軍人とだいたい重複しており、前身の海軍参謀部長まで含めても3人にしかなりません。問題になったのは島村速雄と伏見宮で、軍令部長をつとめて元帥にまでなっておきながら海軍大臣からも聯合艦隊司令長官からもこぼれ落ちてしまいました。どうしようか悩んだ挙げ句、まず皇族軍人として伏見宮を拾った上で軍令部で島村を拾おうとしたのでした。元帥という切り口もありましたが、そうすると軍令部の総説記事が作れなくなってしまいます。これでもいろいろ悩んでいるのです。
次回から順次歴代の統帥部長をとりあげていきます。海軍軍事部長から含めると仁礼景範から始まりますがすでに海軍大臣としてとりあげています。
次回は初代海軍参謀部長の伊藤雋吉です。これも無名ですね。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は参謀職である軍令部総長が着用した飾緒。永野修身の肖像写真の部分)
付録
歴代海軍軍事部長
歴代参謀本部海軍部次長
歴代海軍参謀本部長
歴代海軍参謀部長
歴代海軍軍令部長
歴代軍令部総長
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