海軍の終わらせかた
昭和20(1945)年8月、日本はポツダム宣言を受け入れるという決断をしました。その結果、日本海軍は消滅を運命付けられたわけですが、170万もの将兵を抱えていた日本海軍は一朝一夕に雲散霧消したわけではありません。
海軍を終わらせよ
終戦前、軍部がポツダム宣言の受諾に抵抗した理由のひとつに、日本軍の武装解除があった。宣言は単なる武装解除のみならず軍隊の解体まで含んでいた。主権国家が独立を保つためには軍隊による自衛力が必要不可欠と信じてやまない軍部には受け入れがたかったのである。しかし結局は受諾を余儀なくされ、軍は自らを解体するという作業に着手することになる。
将兵を復員させてそれぞれの家庭に返すという作業そのものは過去の戦争のあとでも行われてきたし、平時においても服役が終われば除隊するという形で日常的に行われてきた。その数が膨大でしかも遠隔地におよぶという点はもちろん問題だが、どちらかといえば量の問題で本質的にはするべき処理に違いはない。むしろ過去の戦争では海軍はもっぱら艦船をもってする海上作戦に専念しており外地に残された陸上部隊は少数の根拠地に限られていたのに対し、太平洋戦ではジャワからソロモン諸島、南洋群島などの広い範囲にまとまった兵力を展開していたという違いが大きかっただろう。こうした部隊の復員に関するノウハウはどちらかといえば陸軍の方が豊富に持っていたに違いない。
最大の問題は、こうした兵員の復員とともに海軍の組織自体をも解体するというこれまで誰もしたことがない作業だった。部隊の廃止はまだしも、海軍省など70年あまりかけて築きあげてきた中核組織を速やかに廃止することが求められた。
敗戦のあと
敗戦直後、軍は戦闘を停止するのと同時にまず秩序の維持をはかった。降伏に反発する一部の部隊や軍人が統制に反する動きを見せており、まずこれを押さえ込む必要があった。武装解除を円滑に進めるためには既存の組織を活用して指揮系統を確立することが不可欠で、一時的とはいいながらやがて解体されていくことが確定している組織を維持するという逆向きの作業を余儀なくされる。厚木航空隊などの不服従事案が収束されて指揮系統を保ったまま武装解除が進められるのにだいたい8月いっぱいかかり、この間に軍解体に向けた動きはほとんど見られない。25日には海上護衛総司令部が廃止され、26日に終戦連絡事務局が設置された程度だった。この間、人事異動なども引き続き行われていたのは組織維持の一貫とも見ることができる。
9月に入り、降伏文書に正式に調印したころから復員が本格化する。9月4日、海軍の現役下士官兵を満期扱いとする勅令が制定された。下士官兵を任期途中で除隊させることを可能にするもので、8月15日にさかのぼって適用された。管見のかぎりこれが具体的に復員に向けた法令制定のはじめである。この少し前の8月31日には戦没して本籍だけ残されていた大型軍艦がまとめて除籍された(戦艦大和、武蔵、扶桑、山城、航空母艦大鳳、信濃、翔鶴、瑞鶴)。
9月14日には大本営の復員要領が制定されて解散に向けた動きが始まった。11日には商船学校生徒から海軍への採用、商船学校などへの海軍武官配属を定めた勅令が廃止され、まず海軍への新規流入を止めるという形で法令の廃止が始められる。その一方で、9月10日には宮内省に禁衛府が新設される。これまで皇居の警備にあたっていた陸軍の近衛師団が復員するため代わって皇居警備にあたる組織として設置されたが実際には近衛師団が看板を変えただけで禁衛府長官は近衛師団長が横滑りで就任し、例えば騎馬隊は近衛騎兵連隊そのものにほかならず、軍隊の温存をはかったものではないかといわれる。翌年4月1日に皇宮警察が編成されると禁衛府は廃止された。
部隊の復員
海軍では8月から9月にかけて、初級士官や下士官を一律に進級させた上で順次予備役に編入して復員させた。海軍解体前の駆け込み進級でポツダム進級、ポツダム少尉などと呼ばれた。当時の辞令をみると続々と予備役に編入される一方で必要な部隊や組織については粛々と新規補職がなされており、中央の統制に従って復員が進められたことが見てとれる。
9月20日に公布施行された緊急勅令により、GHQ司令官の指示は法律によらず政府の命令で処理できるとされた。いわゆるポツダム勅令で、これにより日本の戦後処理は(良し悪しはともかく)大いに促進されることになる。国防保安法、軍機保護法、要塞地帯法などの法律がこの勅令によって廃止された。このころには内地を中心に復員が進み、海軍総司令部と聯合艦隊司令部は10月10日に解散した。終戦時の海軍将兵は170万名ほどとされているが、大半は本土決戦のために急速動員されて本土に配属されていたもので、復員は比較的スムーズに進んだ。10月15日には部隊運用を担当する中央機構である軍令部が廃止され、その役割を海軍省が引き継いだ。
中国大陸から東南アジア全域、ニューギニアやソロモン諸島、南洋群島などの外地に広く点在する陸海軍将兵の復員は容易ではなかった。内地に比べて食料事情や衛生状態が劣った地域も多く、急ぐ必要があった。海軍では残存艦船の多くを特別輸送艦に指定して復員輸送にあてたが、大型艦は少なく、一方で戦時中の酷使で運航に耐えない艦船は少なくなかった。航空母艦鳳翔や葛城、練習巡洋艦鹿島などが一度に多数の兵員を輸送でき有効だったとされるが、量的には駆逐艦以下の小型艦が主力だった。旧海軍艦船による復員輸送は翌年には峠を越え、特別輸送艦の指定は順次解除され、あるものは解体され、あるいは賠償として連合国に引き渡された。国内に残ったのは運輸省などに引き渡されたごく一部で、中には海上保安庁を経て海上自衛隊に渡った艦船もある。なお特別輸送艦に指定される際にはそれ以前に海軍艦船籍から除かれた。
海軍省の廃止と第二復員省の設置
11月に入ると、12月1日付で陸軍省と海軍省を廃止してかわってそれぞれ第一復員省、第二復員省を置く準備が進められていた。復員によって不要になる勅令や軍令の廃止を陸海軍大臣に委任する規定がそれぞれ13日と16日に定められた。この規定は翌年3月末までの時限規定である。
11月29日には航路測量と海図作成を任務とする水路部が運輸省に移された。水路部はさらに海上保安庁に移って今日もなお業務を続けている。海軍省最後の日である11月30日にはまず元帥府が廃止された。生涯現役とされていた元帥はその根拠を失って単なる陸海軍大将となり、伏見宮元帥は退役になる。また皇族身位令から、成年の皇族男子に陸海軍での勤務を義務付けた規定が削除された。
11月30日いっぱいで部隊や官庁の根拠となる法令のほとんどが廃止された。艦隊や鎮守府といった部隊、軍令部(すでに廃止済みだが根拠となる軍令部令は残っていた)や海軍艦政本部などの官庁、海軍兵学校などの学校が廃止された。こうした廃止の多くは上述の委任に従って海軍省令などで処理されている。組織関係の法令のうちこの時点で廃止されなかったものは鎮守府に置かれた海軍経理部や海軍工廠などの規定と、艦船について定めた艦船令だった。まだ復員輸送が継続中で、輸送にあたる艦船とその支援にあたる軍港の組織を残したのだろう。一方で、身上取扱い関係の法令でこの時点で廃止されたものは多くなく、廃止されたものも多くは戦時特例に関する規定だった。軍人の身分はまだしばらくのあいだは保たれることになったが、これもやはり復員をスムーズに進めるためだろう。無事に復員させるまでは国の責任として支配下に置いておく必要があった。
12月1日、海軍省は廃止されて第二復員省が発足した。第二復員大臣は首相の兼任だったが、職員は海軍軍人が勤めた。内地にあった海軍軍人はほぼすべてが海軍省廃止までに予備役に編入されたが、第二復員省に勤める場合は予備役に編入された上で召集という扱いになり、第二復員官という文官の身分を得た。本省には総務局、人事局、経理局、法務局が置かれ、大臣官房には史実調査部や連絡部が置かれた。官房にはさらに艦本整理部、航本整理部、施本整理部が置かれているのが興味深い。海軍省外局の残務整理は簡単には終わらなかったということだろう。横須賀、呉、佐世保、舞鶴といった軍港に加えて青森県大湊と大阪に地方復員局が置かれた。実際の復員業務を担当したほか、下士官兵の兵籍は鎮守府にあったのでこうした人事処理も引き継いだ。
本省の総務局には掃海課、各地方復員局には掃海部が置かれて機雷掃海を行っていた。特別輸送艦と同じく、掃海艦や掃海船に指定された艦船が作業にあたった。日本海軍がこうした目的のために建造した掃海艇は米軍が敷設した感応機雷の除去には不向きで、おもに哨戒特務艇や駆潜特務艇があてられた。掃海業務は運輸省、海上保安庁に順次引き継がれたが海上自衛隊の前身にあたる海上警備隊が発足するとその担当になって現在にいたる。
艦船の除籍
年が改まり、昭和20年度も終わりに近づいた3月末、海軍大臣に委任されていた勅令や軍令の廃止の期限切れが迫ると、その権限を引き継いでいた第二復員大臣はこうした規定の廃止を駆け込みで実施した。このときに廃止されたのは海軍人事部令など、海軍省廃止の時点で積み残した組織関係の法令である。復員作業が峠を越えたことと、地方復員局の組織が機能するようになったことでこうした法令が不要とされたのだろう。
艦船令については処理が間に合わなかったのか、それとも委任による廃止にそぐわないと考えられたのか、年度明けの4月2日に軍令で廃止された。軍令という法令形式はすでに4月1日に廃止されているのだが、どう整合性をとっているのだろうか。艦船令廃止でさらに注目されるのは「廃止の後でも外地にある艦船については除籍まで効力を有する」と付則で定められていることで、例えば中国大陸や東南アジアに残存する艦船については引き続き帝国艦船としての地位を保ち続けた。外地にあった海軍艦船は日本の降伏にともなって現地に進駐してきた連合軍にそのまま接収されたものが多く、すでに事実上日本の管理を離れていた。特に中国大陸ではきたるべき共産党軍との対決に備えて国民党軍が兵力増強を目論んでおり、日本軍が揚子江沿岸に配備していた砲艦はどうしても手に入れたかったはずで、そのほとんどがすでに中国軍の手に渡っていた。現状が確認できないのでそのままの状態になっていたのだが、結局翌年5月3日までにすべて除籍処理を終えた。
軍人身分の終わり
発足からわずか半年で第一・第二の両復員省は廃止され、首相直属の復員庁が6月15日付で設置されることになった。総裁は閣僚だが首相の兼任ではなくなった。第二復員省は復員庁第二復員局に縮小され、総務部、人事部、経理部などが置かれた。6ヶ所の地方復員局は変わらないが、長官は局長に格下げされた。
同じ6月15日付で身上関係の法令が廃止された。海軍将校分限令、海軍武官服役令などである。海軍将校分限令では「終生その官を保つ」とされており、現役を退いても予備役海軍大将、退役海軍大佐などと呼ばれて階級は失わなかったのだが、この廃止によって海軍軍人としての身分を失ない「もと海軍大将」などという肩書きに変わることになった。これまで「もと海軍大将」などと呼ばれるのは有罪が確定して免官になるか、不祥事を起こして免官を願い出るくらいしかなく、いずれにせよ不名誉なことだったのだがこの廃止によりすべての海軍士官が武官の地位を失うことになる。余談だが海軍大将で免官になったものはいないが、海軍中将にはジーメンス事件に関連して依願免官になったものが複数あった。
この廃止には、艦船令の廃止のときと同様のただし書きが付則で定められていた。外地にいる海軍軍人については、その規定は復員までなお有効というのである。つまり、まだ外地にいて単に復員できていないもののほか、抑留されているもの、戦犯容疑で拘束されているもの、あるいは有罪判決を受けて服役しているものなどは引き続き海軍軍人の地位を保ち続けるということになる。逆に言えばこうした付則をつけることで復員の完了をまたずに法令を廃止できたとも言える。
日本国憲法の施行と復員庁廃止
敗戦から1年8ヶ月あまり、昭和22年5月3日に日本国憲法が施行された。外地に残された旧海軍艦船はこの日までにすべて除籍され艦船令は名実ともに効力を失ったが、東南アジアなどにはなお復員できない海軍軍人が残存しており、新憲法の下での海軍軍人という奇妙な立場だった。
新憲法のもとで左派政権が発足し、復員庁は10月15日付で廃止された。陸軍省を引き継いだ第一復員局は厚生省に移され、やがて援護局となって復員よりも援護に重点を移していく。海軍省を引き継いだ第二復員局は年内いっぱいで廃止されることになり、それまでのあいだは首相に直属するとされたが実際は残務整理期間ということだろう。
おわりに
海軍の組織の沿革を調べようとするとまず参照するのは海軍制度沿革ですが、昭和12、13年頃で記述が終わってしまいます。その後は官報などをちまちま調べるしかないのですが、それも小話20年に入るとひとつの問題にぶち当たります。官報では毎月の記事をまとめた目録が翌月半ばに掲載されるのですが、それが昭和20年に入ると滞るようになり、1年以上遅れたり順番が入れ替わったりと目録を探すこと自体が大変になるのです。あげく、調べたら結果昭和20年4月分は見当たらず、検索してもヒットせず、どうも掲載されずじまいになってしまったようなのです。
仕方ないので、この時期の海軍関係の法令を官報から抜き出して自分でリストにまとめるといえ地味な作業をしばらくしていたのですが、ある程度出来上がってきたものを眺めてみると意外と興味深い動きが見えてきました。
考えてみれば、敗戦の結果として陸海軍が解体されたというのは知識として知ってはいますが、それが勝手になされたわけはなく、誰かが労力をかけてこの大事業を遂行したはずであるのに、これまで無関心だったのではないかとちょっと反省したものです。
ちょうどnoteのネタに困っていたこともあり、まとめてみることにしました。戦中と戦後の端境期ともいうべきこの時期への関心が少しでも高まれば幸いです。
ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は特別輸送艦として復員輸送に従事中の航空母艦葛城)