聯合艦隊司令長官伝 (25)山本英輔
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は山本英輔です。
総説の記事と、前回の記事は以下になります。
三笠艦長
山本英輔は明治9(1876)年5月15日に鹿児島で生まれた。父はもと薩摩藩士で山本権兵衛の兄にあたり、つまり英輔は権兵衛の甥になる。その父(権兵衛の兄)は翌年の西南戦争で政府軍の陸軍大尉として戦死し、山本は父を知らず育った。早く上京して慶應義塾などに通ったが叔父を見習ったのか海軍将校をめざして江田島の海軍兵学校に入校した。入校の翌年には日清戦争が始まったが4年の課程をまっとうして明治30(1897)年10月8日に第24期生18名のうち次席で卒業し海軍少尉候補生を命じられた。首席は筑土次郎である。遠洋航海に使用されていたコルベット比叡への乗り組みを命じられたが結局山本ら24期生は遠洋航海に行くことはなく、一月ほどでそれぞれ配属先に散っていった。実は山本の次の第25期生から生徒課程が3年に短縮されており、同じ年の末には早くも卒業して比叡の姉妹艦金剛に候補生として乗り組んでいる。24期生はわずか18名、25期生も32名で合計しても充分収容できたはずだが、そうした選択はされなかったようだ。
巡洋艦松島、戦艦鎮遠を経て配属されたのは戦艦八島だった。明治31(1898)年4月1日に海軍少尉に任官し、戦艦初瀬を受領するためにイギリスに派遣された。派遣中の明治32(1899)年9月29日に海軍中尉に進級する。帰国後は水雷母艦豊橋の水雷長をつとめたのち巡洋艦千歳分隊長、巡洋艦高砂分隊長を経て明治35(1906)年10月6日に海軍大尉に進級し、高砂水雷長に転じる。まもなく横須賀で兵器製造に関わったが日露戦争が始まると上村彦之丞の第二艦隊参謀に補せられて蔚山沖海戦や日本海海戦を戦った。
日露戦争が終わると海軍大学校甲種学生(第5期生)を命じられ、在校中の明治40(1907)年9月28日に海軍少佐に進級した。学生課程の修了後は軍令部や教育本部、海軍大学校教官などの東京での勤務が続き、艦隊に出て与えられた職は練習艦隊参謀だった。八代六郎司令官のもとで巡洋艦浅間、笠置に分乗した第38期の候補生とともに、自分が候補生のときには行けなかった遠洋航海で北米西岸、ハワイを往復した。帰国後はドイツ駐在を命じられる。第一次世界大戦前のドイツはイギリスと激しい建艦競争を繰り広げており最新の技術情報を収集する役割が期待された。明治44(1911)年12月1日に海軍中佐に進級し、本人は知るよしもないが第一次大戦の開戦半年前に帰国した。
第一次世界大戦がはじまるとドイツが租借する中国青島の攻略を命じられた第二艦隊の参謀に補された。長官は加藤定吉である。直前までドイツに駐在していた山本が起用されたのだろう。攻略がなって年度末には第一艦隊参謀に移り、1年つとめて大正4(1915)年12月13日に海軍大佐に進級するのと同時に軍令部出仕となる。軍令部長の命令をうけて勤務するが決まった職務というものはない。このときはまず第一次大戦真っ最中のヨーロッパに派遣されて戦況を視察した。ジュトランド海戦に関する聞き取りなどをしたのだろうか。帰国後もしばらく出仕にとどまっていたが、その後将官昇進に必要とされていた艦長勤務を戦艦三笠で1年つとめた。山本は大尉の1年目で高砂水雷長をつとめたあとは陸上勤務か艦隊でも参謀勤務が続いて艦艇勤務がほとんどないのが経歴の特徴と言える。艦長勤務を終えると軍令部出仕に戻りまたもヨーロッパ出張を命じられる。第一次世界大戦が終わったところで戦訓やドイツの技術情報などを収集したのだろう。出張中の大正9(1920)年12月1日に海軍少将に進級する。
海軍航空本部長
帰国後は水雷兵器を担当する海軍艦政本部第二部長に補せられ、さらに海軍大学校の教頭と校長を歴任したあと、大正13(1924)年12月1日に海軍中将に進級して軽巡洋艦で編成された第五戦隊司令官に補せられた。翌年度は練習艦隊司令官としてスエズ運河経由で地中海方面を訪れた。率いた候補生たちは海兵54期、海機35期、海経14期生である。
海軍航空本部が新設されると山本は初代の本部長にあてられた。山本は第一次大戦前の明治時代から「飛行器」に着目してその採用を主張しており、適任だった。もっとも、はじめ海軍では陸軍と共同で飛行機の研究を始めたがやがて袂をわかち、その後はむしろ陸軍に遅れをとっていた。航空本部の独立も陸軍が先んじていた。山本としては「ようやく」という気分だったろう。昭和4(1929)年度には横須賀鎮守府司令長官に親補され、翌年度の定期人事異動で加藤寛治を継いで聯合艦隊司令長官に親補された。山本が長官のあいだにロンドン条約問題が起こるが聯合艦隊の長官はあくまでも用意された戦力の使用者で、必要な戦力について意見具申はできても責任を持つ立場にはなかった。昭和6(1931)年4月1日に海軍大将に親任された。5期上の谷口尚真や百武三郎が大将に進級したのは3年前で、このあいだに2年分早送りされたことになる。
2年間聯合艦隊司令長官をつとめているあいだに満州事変が起きたが山本にはほとんど何もできなかった。事変が上海に飛び火して海軍が対応に乗り出したときには山本はすでに東京で軍事参議官の職にあった。横須賀鎮守府司令長官の野村吉三郎が新たに編成された第三艦隊の司令長官として出征することになり、山本が代わって横須賀長官に親補された。半年あまりつとめてふたたび軍事参議官に転じたがニ二六事件の後、陸軍が「粛軍」として現役の大将のうち過半数を予備役にしたためバランスをとって海軍でも現役大将を予備役に編入することになり、その中に山本が含まれることになった。
昭和11(1936)年3月30日に予備役に編入されて現役を離れた。昭和16(1941)年5月15日に65歳の現役定限年齢に達したがその前の昭和16(1941)年4月1日に海軍武官服役令が改正され後備役が廃止されて予備役に統合されたので役務は変わらない。終戦後の昭和21(1946)年5月15日に70歳に達して退役になったが同年6月15日に海軍将校分限令や海軍武官服役令などが廃止されて海軍大将の身分を失った。
山本英輔は昭和37(1962)年7月27日死去。満86歳。海軍大将正三位勲一等功四級。
おわりに
山本英輔は山本権兵衛の甥でつまり薩摩出身ということですが特に権兵衛の引きを受けたわけでもなく、大正に入るとむしろ鹿児島出身者は避けられる傾向にあって出世は純粋に本人の実力だったでしょう。
次回は小林躋造です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は山本が水雷長をつとめた水雷母艦豊橋)
附録(履歴)
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