海軍皇族軍人伝(1) 有栖川宮威仁親王
海軍軍人となった皇族をとりあげます。今回は有栖川宮威仁親王です。
総説と個別の伝を立てるまでもなさそうな皇族あるいは皇族が臣籍降下した華族出身の海軍軍人は以下の記事にまとめました。
有栖川宮継嗣
威仁親王は文久2(1862)年1月13日に有栖川宮幟仁親王の5男として誕生した。有栖川宮は江戸初期に創設されたが当初は高松宮と称していた。のち有栖川宮と改めて霊元天皇の子孫が代々継承していた。長兄の熾仁親王は戊辰戦争で東征大総督に任じ、維新後は新政府の総裁をつとめ、西南戦争では征討総督を命じられて直後には日本で二番目の陸軍大将の階級を得て、参謀総長を長くつとめるなど幕末から明治前半にかけて皇族の中では最有力者だった。熾仁親王は天保6(1835)年の生まれで威仁親王とは27歳の年齢差があり、子供がなかったため弟の威仁親王を後継者とした。
10代前半で海軍兵学校に予科生徒として入校する。当時、海軍で勤務する皇族はいなかった。華頂宮博経親王がアメリカに留学したが健康を損ねて帰国していた。西南戦争が終わって有栖川宮を継ぐことが正式に決定し、明治天皇の猶子となって親王を宣下され威仁の名前を賜る。まもなくイギリス留学が決まり海軍兵学校を退校してちょうど極東に配備されていたイギリス海軍の装甲艦アイアン・デューク HMS Iron Duke に乗り組んだ。乗艦実習中の明治13(1880)年2月8日に海軍少尉補を命じられ、いったん帰国した後の12月1日には海軍少尉に任官する。翌年早々に日本を発ち、ヴィクトリア女王に拝謁したのちグリニッジの海軍大学校に入校した。1年の教育でイギリス海軍少尉試験に合格、ちょうどイギリスを訪問していた熾仁親王に同行して各地を巡った。アメリカを経由して帰国し、明治16(1883)年6月29日に改めて海軍大尉に任官した。海軍で唯一の皇族であった威仁親王は海軍部内における天皇の代理のような位置にあり、純粋な海軍軍人としての勤務は難しかった。海軍軍事部や参謀本部海軍部などのちの海軍軍令部につながる組織に籍を置いて、天皇の名代として全国を視察してまわる日々が続く。明治18(1885)年から翌年にかけて9ヶ月ほど装甲艦扶桑の分隊長をつとめたのがこの前後の唯一の艦隊勤務となる。
松島艦長
明治19(1886)年10月23日に海軍少佐に進級する。明治21(1888)年末から1年あまりヨーロッパを視察する。アメリカを経由して英仏はもちろん、ドイツやロシア、スペインやイタリアばかりではなく北欧諸国まで訪問して帰国する。久しぶりの艦隊勤務はコルベット葛城艦長となる。1年にも満たない分隊長の経験だけで艦長というのは皇族でなければ考えられない。さすがに後年ではこういう例はなくなる。明治23(1890)年8月11日には海軍大佐に進級し(当時海軍中佐の階級はない)、まもなく巡洋艦高雄艦長に移る。この時期にトルコ軍艦エルトゥールルの遭難事故があり、威仁親王は生存者を高雄で帰国させたいと希望したが、実際には遠洋航海を兼ねてコルベット金剛、比叡でおこなわれることになり親王の希望は実現できなかった。
巡洋艦千代田艦長を経て横須賀海兵団長に補せられたが、日清戦争の勃発をうけて戦時大本営附を命じられる。当時、戦時大本営は広島に置かれ、熾仁親王が全軍の幕僚長をつとめていた。いったん広島に赴いた威仁親王はさらに戦地視察に派遣され、現地で巡洋艦松島艦長に発令される。しかし翌年早々に熾仁親王が危篤に陥ったという報せをうけて急遽帰国する。舞子の別邸で亡くなった熾仁親王の遺体とともに帰京し、葬儀をすませて松島に帰任したときには威海衛攻略は終わっていた。
皇太子輔導役
台湾海峡の澎湖諸島占領を終えて橋立艦長に移る。台湾本島の平定はまだ進行中だったが、横須賀の海軍砲術練習所長に補せられて帰京する。明治29(1896)年11月5日には海軍少将に進級し常備艦隊司令官に補せられる。当時の長官は坪井航三だったが、イギリス女王の即位60周年記念式典に派遣されるなど、実際に艦隊で勤務することは少なかった。与えられた海軍軍令部出仕兼海軍将官会議議員という補職は決まった職務はないに等しく、各地の視察、天皇の名代、皇太子の出席する行事への同行などにもっぱら従事した。
明治32(1899)年9月26日には海軍中将に進級するが、明治34(1901)年に休職となる。威仁親王は明治32(1899)年に皇太子嘉仁親王(のち大正天皇)の輔導役を明治天皇から全面的に託されていた。休職は皇太子の指導に専念するためであり病気などによるものではなかったから、明治天皇の特旨により現役にとどめるとした。規定では休職を2年間続けると予備役になる。威仁親王は皇太子の旅行には必ず同行し、明治天皇には難しかった日常の指導に熱心にあたった。しかし明治36(1903)年ごろには体調を崩し、明治天皇から輔導役を免除されている。
日露戦争が始まると戦時大本営附を命じられ、明治37(1904)年6月28日には海軍大将に親任される。皇族としてははじめて、全体でも6人目となる。年が明けて旅順が陥落すると軍事参議官に親補されて正式に天皇の諮問に応える立場になる。しかし日本海海戦が起こったときにはドイツ皇太子の結婚式に出席するため外遊中だった。元来丈夫でなかった親王はこのあともっぱら療養に時を費やす。唯一の男子で跡継ぎの栽仁王が海軍兵学校在校中に20歳で急逝したことは特に堪えた。新たな跡継ぎが得られる見込みはなく、江戸時代初期にはじまる有栖川宮の断絶が確実になったのも親王にとっては痛恨事だった。
威仁親王は大正2(1913)年7月に危篤に陥り7日に元帥の称号を賜った。正式な薨去は10日と発表された。享年52、満51歳。元帥海軍大将大勲位功三級。
有栖川宮の男系は絶え、熾仁親王妃と威仁親王妃の女性ふたりだけが残されたがいずれも大正時代のうちに亡くなり有栖川宮は完全に消滅した。威仁親王の女子実枝子女王は公爵徳川慶久に嫁ぎ、その娘である喜久子は大正天皇の三男宣仁親王妃となる。宣仁親王は有栖川宮の旧称である高松宮を名乗り、有栖川宮の祭祀を継承した。
おわりに
威仁親王は事実上最初の皇族海軍軍人ですがはじめてのことでもあり軍務と皇族としての職務のバランスをとるのが難しかったのでしょう。前例に頼れず試行錯誤を余儀なくされました。海軍軍人としての事績に乏しく、もっぱら大正天皇の指導役として知られています。
次回は東伏見宮依仁親王です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は実習で乗艦したイギリス装甲艦アイアン・デューク)