聯合艦隊司令長官伝 (29)山本五十六
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は山本五十六です。
総説の記事と、前回の記事は以下になります。
霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭
山本五十六は明治17(1884)年4月4日に新潟県長岡に生まれた。生家の高野家は長岡藩士の家系である。長岡藩は戊辰戦争で新政府軍と戦い、山本の実祖父は戦死し実父も負傷した。山本の名前は生まれたときの父の数え年に由来し遅く生まれた子供だったことがわかる。年が離れた兄が父がわりだった。親族に野村貞少将(明治32(1899)年死去)がおりその影響で海軍将校をめざす。江田島の海軍兵学校に入校したが最上級生(一号生徒)に進級した直後に日露戦争がはじまる。繰り上げ卒業(といっても一月だけだが)されて海軍少尉候補生を命じられたのは旅順攻防が大詰めを迎えていた明治37(1904)年11月14日だった。第32期生192名中11位で、首席は堀悌吉であった。平時であれば遠洋航海に赴くはずだったが主だった艦艇はみな出征していた。開戦直後に捕獲されたロシア商船で海軍が運用していた韓崎丸が候補生の練習にあてられ、山本らは近海で短期間の練習航海をおこなったのちに艦隊に配属された。山本の配属は第一戦隊の装甲巡洋艦日進である。
日進は日本海海戦で主力となる戦艦戦隊の殿艦をつとめた。記録係をつとめていた山本は重傷を負い左手の人差し指と中指を失った。海戦後の明治38(1905)年8月31日に海軍少尉に任官するが療養生活が続き、巡洋艦須磨に配属されたのは翌年のことだった。戦艦鹿島、海防艦見島、駆逐艦陽炎での勤務のあと、海軍砲術学校と海軍水雷学校の普通科学生を続けて命じられる。両校の普通科学生は少尉から中尉にかけての時期にほぼすべての兵科将校が経験するものであった。この間の明治40(1907)年9月28日に海軍中尉に進級する。駆逐艦春雨、巡洋艦阿蘇乗組を経て巡洋艦宗谷分隊長に補せられた。宗谷は日露戦争中に捕獲された巡洋艦を改名したものでもっぱら遠洋航海にあてられていた。明治42(1909)年10月11日に海軍大尉に進級した山本は鈴木貫太郎艦長のもとで指導官として部下の古賀峯一中尉とともに第37期生の候補生たち(井上成美、草鹿任一、小沢治三郎など)と生活をともにした。
帰国後は海軍大学校乙種学生と海軍砲術学校高等科学生を修了して砲術屋の仲間入りをし、続けて砲術学校の教官をつとめた。佐世保予備艦隊参謀、巡洋艦新高砲術長、横須賀鎮守府副官を経て海軍大学校甲種学生を命じられた(第14期生)。在校中の大正4(1915)年12月13日に海軍少佐に進級したがその直後の大正5(1916)年に高野から山本に改姓している。山本家は長岡藩の家老の家系だったが戊辰戦争で山本帯刀が新政府軍にとらえられて斬られ、それ以来断絶状態だった。旧藩主牧野家の意向で山本家が再興されることになったが山本が相続したのは古い紋付きの裃と家系図だけだったという。改姓の届け出は9月20日に出されている。しかしこのあと山本は体調を崩した。海軍大学校を卒業して第二艦隊参謀に補せられたものの一月も経たないうちに腸チフスで入院しさらに虫垂炎も患ったという。待命となり半年後には休職している。ほどなく快復したようで海軍省軍務局に勤務した。艦隊ではなく東京勤務だったのは病み上がりを考慮したのだろう。この間に山本は遅い結婚をしている。相続した山本家の存続を考えたのに加えて病気が堪えたのかもしれない。体調が万全となった山本は第一次大戦直後のアメリカに派遣される。
ヨーロッパ諸国は第一次大戦で疲弊しアメリカの影響力は格段に高まっていた。特に連合軍の勝利をもたらした工業力はアメリカを仮想敵国とする日本にとって脅威だった。山本は各地を視察してまわったが、特に油田に強い印象をうけた。当時艦艇の燃料は石炭から石油に移りつつあったが日本はその流れに遅れていた。滞米中の大正8(1919)年12月1日に海軍中佐に進級して帰国した山本は巡洋艦北上副長のあと海軍大学校教官をつとめる。山本教官は石油と航空機の重要性を強調していたという。海軍次官の井出謙治がヨーロッパ視察をおこなうことになり、山本は随行を命じられてまた日本を離れた。帰途にはまたもアメリカに立ち寄っている。旅先で関東大震災のニュースを聞き、大正12(1923)年12月1日に海軍大佐に進級して帰国した。
霞ヶ浦航空隊の副長兼教頭に補せられたのは山本自身の希望といわれる。二度の外遊で航空機の将来性に着目した山本だが彼の専門は砲術で航空は門外漢だった。当時の日本海軍には航空隊は横須賀、霞ヶ浦、佐世保、大村の4個隊だけで搭乗員教育は霞ヶ浦航空隊が担っていた。その教育の責任者である教頭であった山本は自ら操縦を習うのとともに、大西瀧治郎や三和義勇などの生粋の航空屋を知ることになる。
海軍航空本部技術部長
霞ヶ浦航空隊での1年あまりの勤務を終えて山本はアメリカ駐在武官を命じられる。せいぜい7-8年のあいだに三度目となる海外勤務である。前任の長谷川清から引き継いでワシントンで勤務しているあいだに元号が昭和と替わった。当時はワシントン条約のあと、大恐慌の前で比較的国際情勢は安定していた。坂野常善に譲って帰国したのは2年後だった。
帰国すると巡洋艦五十鈴の艦長を短期間つとめる。これは操艦の勘をとりもどすという目的があったらしい。昭和4(1929)年度には航空母艦赤城の艦長に補せられた。山本にとっては願ってもない配置だったろう。赤城は第一航空戦隊(高橋三吉司令官)に所属し、第一航空戦隊は聯合艦隊(谷口尚真司令長官)の直接指揮下におかれた。演習などで飛び立った搭載機が戻ってこないといつまでも甲板で待ち続け、未帰還になると嘆き悲しみ、行方不明だった搭乗員が救助されるという報せが入ると手放しで喜んだ。
1年で赤城をおりるとちょうど開かれたロンドン軍縮会議に全権随員として派遣されることになった。出発直後の昭和4(1929)年11月30日に海軍少将に進級する。かつて山本は条約派とされていたが実際にはロンドンで軍縮に反対だったことが知られている。のちのアメリカ駐在武官山口多聞とともに反対の急先鋒だったが結局条約は調印される。帰国後には海軍航空本部技術部長に補せられる。技術部長は海軍の航空兵器開発の計画立案の責任者で山本はこの職を3年つとめた。松山茂本部長の支持を得て山本は海外の模倣にとどまっていた日本の航空機製造会社に自主設計を促した。特に昭和7(1932)年に試作が指示された戦闘機などについては世界水準を超えた要求が盛り込まれており、実用にはつながらなかったが企業にとって重要な経験になり将来の新型機の踏み台になる。
海軍次官
昭和9(1934)年度の艦隊編制で第一航空戦隊司令官に補せられる。この年の聯合艦隊司令長官は末次信正だった。所属する航空母艦は赤城と龍驤だった。しかし山本は半年ほどで艦隊をおりる。期限切れがまもない軍縮条約を延長するために新たに軍縮会議が提案され、その予備交渉の代表に山本が選ばれた。しかし政府はすでに軍縮条約からの脱退を決めていた。厳しい条件を持たされた山本は望みのない交渉を強いられる。会議は決裂し、本交渉は日本抜きでおこなわれ米英のあいだで条約が締結された。昭和9(1934)年11月15日に海軍中将に進級して翌年早々に帰国する。交渉が徒労に終わったうえ、自分がロンドンにいる間に大角岑生海軍大臣によるいわゆる「大角人事」がおこなわれ山本に近い堀悌吉や坂野常善が現役を逐われた。山本もしばらく役職のない軍令部出仕にとどめられ、一時は本気で引退を考えたという。それを押し留めたのは堀だった。
昭和10(1935)年度末には海軍航空本部長に補せられて気分ももちなおす。96式艦上戦闘機や96式中型攻撃機などかつて技術部長時代に蒔いた種が収穫され始めていた。山本本人も天職のように感じて「航空本部長だったらいつまででもやっていたい」と語っていたという。しかし山本はわずか1年で永野修身海軍大臣により海軍次官に起用され航空本部を離れることになる。祝いをいう訪問客に対して山本はあからさまに不機嫌だったという。しかしこの起用が思わぬ結果を生む。わずか2ヶ月で内閣が交代し永野大臣は退任して米内光政が後任となった。海軍省に足場をもたない米内を大臣に推したのは山本だったといわれる。
米内が大臣に就任して半年ほどで日中戦争が勃発する。はじめ海軍は比較的冷淡な態度だったが戦火が華中におよぶと断固とした対処を主張しはじめる。自らが航空本部長時代に採用した機材が活躍するのを喜ぶ一面もあった。やがて前線は大陸奥地に広がり戦線は膠着する。和平交渉は頓挫し外交的な解決は遠ざかった。国民党政府の抗戦を支えているのが米英による支援だと考えた陸軍は、その支援を絶ち切るためにドイツと手を結ぶことを主張した。米内と山本はドイツと組むことは米英を敵に回すことだと強硬に反対する。反対の元凶は山本だとみなされ、陸軍の影響をうけた右翼による暗殺予告も舞い込んだ。内閣を投げ出した近衛のあとを継いで組閣した平沼騏一郎の内閣でも議論は果てしなく続き、ついにしびれを切らしたドイツはソ連と不可侵条約を結ぶ。前提条件が覆ったドイツとの同盟話は吹っ飛び、内閣は総辞職した。海軍大臣は吉田善吾に代わり、山本は同期生の吉田の下で次官にとどまってもいいと申し出たが結局吉田のあとを継いで聯合艦隊司令長官として東京を離れることになった。米内はどうして山本を大臣にしないのかと問われて「吉田でもうまくやるよ」と答えたあとで「山本を東京に置いておくと殺される恐れがあるのでね」と付け加えた。
山本が聯合艦隊の指揮をとることになった昭和14(1939)年度、相方となる第二艦隊の司令長官は豊田副武だったが、翌昭和15(1940)年度は明治末の巡洋艦宗谷以来の仲である古賀峯一に代わった。山本にとって古賀は後輩でありながら古くからの友人で気心はよく知れていた。昭和15(1940)年は神武天皇即位2600年にあたるとされ、記念行事がいくつも予定されていた。秋には記念観艦式が催され、山本は指揮官として昭和天皇を出迎える。昭和15(1940)年11月15日に海軍大将に親任されたが昭和16(1941)年度も聯合艦隊司令長官にとどまった。
昭和15(1940)年までの聯合艦隊は第一艦隊と第二艦隊で編成されており平時の編制とほぼかわらない。ところが昭和16(1941)年に入ると新たな艦隊が次々に編成されて聯合艦隊に編入された。年末までに聯合艦隊は9個艦隊を隷下にもつまでに膨れ上がる。昭和15(1940)年の9月に北部仏印、昭和16(1941)年7月に南部仏印に日本軍が進駐して日米関係は急速に悪化していた。在職期間が2年を超え、山本本人はそろそろ交代を考えはじめていたが情勢はそれを許さず山本は手紙で「平時ならあとがつかえると言われるところだが、とうとう艦隊で一番の古株になってしまった」と書き送っている。このころ山本は聯合艦隊を米内に譲って自分が直接真珠湾攻撃にあたる構想をもっていたがすでに予備役となっていた米内の起用は非現実的だった。結局山本は不本意ながら聯合艦隊司令長官にとどまったまま太平洋戦争の開戦を迎えた。
真珠湾空襲は予期以上の成功をおさめ、東南アジア資源地帯を占領する第一段作戦もほぼ予定通り完了したが、山本が決戦を求めたミッドウェー作戦は惨敗に終わり、ガダルカナルにアメリカ軍が反攻を仕掛けると半年の消耗戦に巻き込まれ虎の子の航空戦力をすりつぶしてしまう。山本は母艦航空隊をラバウルに派遣して航空撃滅戦を企図した「い号作戦」を発動し自ら現地指揮にあたる。そして山本は最前線のバラレ、ショートランド、ブインを視察するべく一式陸攻に乗り込んだ。
山本五十六は昭和18(1943)年4月18日にブーゲンビル島上空で乗機を撃墜されて戦死。満59歳。元帥海軍大将正三位大勲位功一級。特に国葬を賜った。
おわりに
山本五十六はおそらくもっとも有名な海軍軍人だと思います。本もたくさん出ているし、ネット上にも色々情報があるのであえて海軍次官や聯合艦隊司令長官の時期の記述は簡単にして、それまでに重点を置きました。
ウィキペディアの記述も分量が多いのでとても全部は見れていません。また山本に関する関心は高く近年になってもいろんな研究が出ているので安易に評価を下すことは難しいです。すぐにおかしいと思った何点かだけ指摘しておきます。
まず海軍砲術学校普通科学生が16月とか書かれていますがこれは4ヶ月が正しいです。これは多分砲術学校学生の発令日が誤植かなにかで一年ずれたのでしょう。単独で履歴を見ているとわからないかもしれませんが、多数の履歴を見ていればおかしいとすぐわかります。本文でも書いた通り砲術学校と水雷学校の普通科学生は少尉から中尉の時期に全員が経験します。しかし同期生全員が一度に受けられないので、前半に砲術学校に通う組と水雷学校に通う組に半分に分け、後半は入れ替えるという形をとっていました。つまり課程の長さが極端に違うと困るのです。例えば「将官履歴」を見ていても見慣れていれば「間違いだな」とすぐにわかりますが見慣れていなければそのまま信じてしまうのでしょう。
海軍大学校乙種学生についても文中ではその直後の海軍砲術学校高等科学生に触れていないのが不思議です。このころの海大乙種学生は術科学校高等科学生の前提課程で、大事なのは術科マークを得るために受ける高等科学生なのですが。
山本家相続の時期についてウィキペディアの記述は矛盾があります。大正4年に話があったとありますが、そのあとに「同年9月20日届け出」とあり出典をみると大正5年のことなのです。果たして大正4年なのか、それとも5年なのでしょうか。阿川弘之の「山本五十六」には大正4年とありますが同時に少佐のころともあり、少佐が正しいとすると大正4年は考えにくいです(12月13日に少佐進級)。年号は間違えても階級を間違えるのは難しいでしょうし、海軍大学校甲種学生の間というのも確かでしょうから大正5年のほうが信憑性が高いでしょう。実際の変更から届け出が1年以上遅れるというのもあり得ないとは言いませんが考えにくいです。
冒頭に「国葬を賜った最初の人物」とありますが「最後の人物」の単純な誤りでしょう。安倍元総理の国葬の時に話題になっていましたね。
次回は古賀峯一です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は山本が艦長をつとめた航空母艦赤城)