聯合艦隊司令長官伝 (4)有地品之允
歴代の聯合艦隊司令長官について書いていますが、前身の常備艦隊や聯合艦隊常設化以前の第一艦隊司令長官もとりあげます。今回は有地品之允です。
総説の記事と、前回の記事は以下になります。
佐官まで
有地品之允は天保14(1843)年3月15日、長州藩の大身藩士の家系に生まれる。戊辰戦争では中隊指揮官として福山、大阪、江戸などを転戦し白河会津などの東北地方にまで進軍した。戦後は新政府陸軍に出仕して陸軍少佐に任官、御親兵(近衛兵)の大隊長をつとめた。若年の明治天皇のそば近く侍従として働いたが、海軍に移ることとなり明治6(1873)年10月4日に海軍少佐に任官した。のちの鎮守府にあたる提督府で勤務し、明治7(1874)年4月23日に海軍中佐に進級した。
西南戦争の後は東海水兵本営長をつとめた。水兵の教育を担当しのちに横須賀海兵団になる。コルベット日進艦長に転じ、明治15(1882)年6月6日には海軍大佐に進級して装甲コルベット比叡艦長に補せられた。ついでコルベット筑波艦長に移る。筑波は海軍兵学校第11期生の卒業生を乗せて明治17(1884)年2月に品川を出航してハワイに向け遠洋航海に出る。前年の龍驤(艦長伊東祐亨大佐)による遠洋航海では多数の脚気患者を出したが今回は海軍省医務局長高木兼寛軍医大監の指示で献立を改善した結果、患者をほとんど出さずに11月に品川に到着した。帰国後には海軍軍事部次長に補せられる。明治19(1886)年2月に海軍軍事部は参謀本部海軍部に改編され、第一局長を命じられた。6月15日には海軍少将に進級した。
常備艦隊司令長官
将官となった有地は横須賀軍港司令官に補せられる。軍港司令官は鎮守府司令長官のもとで兵員部隊、所属艦船などを指揮して軍港の守備にあたるとされた。海軍兵学校長だった明治21(1888)年には学校を東京築地から広島湾江田島に移転させるという大きな事業を遂行した。のちの軍令部に相当する海軍参謀部長を2年間つとめたあと、常備艦隊司令長官に補せられた。この時点で常備艦隊に所属していたのは浪速、高千穂、扶桑、高雄、葛城、大和である。1年半つとめて明治25(1892)年12月12日に海軍中将に進級した。
呉鎮守府司令長官に補せられて、日清戦争を迎えた。有地は呉から伊東祐亨が清国の艦隊を撃破するのを見守っていたが、伊東が海軍軍令部長に転じて東京に戻ると、かわって常備艦隊司令長官を引き継ぐことになった。清国艦隊はすでになく、下関講和条約が締結されていたが、日本が新たに獲得した台湾で戦闘は続いていた。台湾では日本による統治を嫌って、進駐しようとする日本軍への抵抗が起きていた。現地の名士が台湾民主国の樹立を宣言して独立をめざした。もちろん日本はこうした動きを反乱とみて「台湾平定」に乗り出す。常備艦隊は台湾総督に任命された樺山資紀の指揮下に入った。
6月には台湾北部に陸軍部隊が上陸する。現地軍の抵抗は激しかったが、常備艦隊による支援もあり着実に前進する。むしろ風土病による犠牲が大きかった。近衛師団長として上陸した北白川宮能久親王も戦病死した。半年近くかかってようやく前線は台湾島南部の打狗、現在の高雄に近づいていた。常備艦隊は周辺海域を封鎖し、陸戦隊を上陸させることをめざしていた。この作戦を直接指揮していたのは常備艦隊司令官の東郷平八郎少将である。近くの安平港にはイギリスなどの外国商船が停泊していた。台湾民主国の軍事指導者劉永福は追い詰められ、中立国であるイギリス商船テールス Thales で大陸に逃亡しようとしていた。
情報を得た東郷はまず大和にテールスを臨検させたが劉を発見することはできなかった。貨物はタバコや芋などで中立違反は認められなかった。東郷の部隊は陸戦隊を上陸させて港を占領しようとする。その隙にテールスは出港した。東郷は警備に残していた通報艦八重山に監視を命じた。八重山は厦門に向かったテールスを追う。台湾海峡の公海上でテールスに追い付いた八重山の平山藤次郎艦長は停止を命じ改めて臨検をおこなった。数時間に渡って船内を捜索したがついに劉をみつけることができず、テールスは解放された。劉は苦力に変装していたという。
自国商船を公海上で臨検されたイギリスは日本に抗議した。抗議をうけた外務省はイギリスに謝罪し、海軍に責任者の処罰を要求した。八重山艦長の平山大佐は待命となり予備役に編入された。東郷司令官は海軍将官会議議員に左遷された。有地長官は11月16日付で待命となり、12月19日に予備役に編入された。常備艦隊司令長官には西海艦隊の井上良馨が就任し、西海艦隊は廃止された。東郷のあとの司令官には鮫島員規が補せられた。常備艦隊は台湾総督の指揮を外れる。翌年3月いっぱいで大本営が廃止された。
有地が責任を負わされたのには、長州出身だったことが影響しているだろう。有地は薩摩が主流をなしていた海軍の中で積極的に擁護しようとする者がいなかったのかもしれない。薩摩出身の東郷はやがて復権する。その償いであるかのように明治29(1896)年6月5日に男爵を授けられ華族に列せられた。明治30(1897)年には貴族院議員に選出される。明治39(1906)年3月15日に後備役に編入され、明治44(1911)年3月15日に退役となる。大正6(1917)年4月27日に枢密顧問官に任じられた。
有地品之允は大正8(1919)年1月17日死去した。満75歳。海軍中将従ニ位勲一等男爵。
おわりに
有地品之允は薩摩が勢威を振るった海軍で珍しく長州出身ながら伊東や井上に匹敵する出世を果たしましたが、思わぬことで足をすくわれてしまいました。大将になれるチャンスもあったはずですが結局長州出身の海軍大将は出なかった、と思います。
次回は坪井航三です。ではまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は通報艦八重山)