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日本サッカーのアシタノタメニ・その1 〜 喜べー!って言う前に

(追記⋯11/4)
当初、この記事を投稿した時は「日本サッカー改革のために」というタイトルだったのですが、あまりにもベタだよな⋯と思い、改めて、タイトルを「日本サッカーのアシタノタメニ」と変更しました。

日本サッカーを改革していくために。日本サッカーのアシタノタメニ。

これから何回か、このテーマで書いていこうと思います。現場のことも、組織を含めた環境のことも、取り巻く人々のことも。

今日はその初回。子ども達の、感情発露の話。

僕は自分が指導している選手達に対して、最近の練習ではロンドやミニゲームなどでの「罰ゲーム」を全て廃止してます。「腕立て◯回〜」「ジャンプ◯回!」とか。

もっと早くからこうすれば良かったと後悔すらしてるところ。何でそこに気づけなかったんだと。よく考えたら 負けることが最大の罰ゲーム だし、それ自体がすごく悔しいはずだから、罰ゲームなんてあえてやる必要もない。

罰ゲームをしたくないから頑張るとか、ご褒美がもらえるから頑張る⋯という外発的動機が日々の習慣になってしまっているのだとしたら、自分の意思で勝ち負けにこだわれる純粋な内発的動機は、いつまでたっても醸成されない。

だって、試合に負けたって罰ゲームしないじゃないですか。純粋に勝ちたいから頑張るわけだし。だったら日々の練習から、どんな練習メニューだろうが常に純粋に勝ち負けにこだわれる環境でいたほうがいいに決まってますよね。


試合に負けて罰走してるチームもあるな⋯(汗)
それは指導者の質や度量が疑われることなので、すぐにやめましょう。。

とにかく

勝ち負けに純粋に感情を乗せ、その感情を心置きなく表せられる環境でトレーニングする。これって些細なことだけど、これまで、そして今も⋯日本人に一番足りないところなんじゃないかと思うんです。

試合中、ゴールしても喜ばない子ども達に対して、ベンチの大人が
「お前らもっと喜べー」
「喜んでいいんだぞー」
って言う光景をよく見かけるけど、あれ本当に最悪じゃないですか。

その光景を見て、おいおい、といつも思ってた。
ゴールをしても子ども達が素直に喜びを表現できないような雰囲気をつくってきたのは、あなた方でしょう、と。無理やり喜ばせたって、そんなの本当の喜びじゃない。

まずは、大人が一緒に本気で喜ぶことから始めないと。
そして大人自身が本気でサッカーを楽しむ姿を、もっともっと子ども達に見せたほうがいい。「◯◯のゴールに大きな拍手!」とか儀式のように歌わせてる前に、もっとやることいっぱいあるよ。

そして「このゴールを決めれば勝てる」「あと一歩足を出せばシュートを防げる」というリアリティーのあるシーンを、普段の練習でもっともっと、たくさん体験させてあげるようにしないと。

小学生のうちから、普段の練習で子ども達が自然に(これ大事)めっちゃ喜んで、めっちゃ悔しがる環境が当たり前になるだけで、日本サッカーは相当に強くなる。これは僕個人の考えですが、あながち間違いではないと思う。

極論だけど、体の向きとか、視野がどうのとか、戦術がどうのとかよりも大事な話。ずっとずーっと、大事な話。
勝ちたいって純粋に思わない選手がいくら何かを教えられたって、暖簾に腕押し、釈迦に説法で終わってしまう。勝つため、負けないために必要な技術や戦術なのだから、それを動かすエンジンがバッテリー切れを起こしているのならば意味がない。必要なものだからこそ、身につけるべきものなわけで。必要と思っていない選手にそれを教えてもしょうがない。

大袈裟でもなく、そんな今までの結晶として、これまで日本サッカーは本当の勝負どころで世界に負け続けてきたとさえ僕は思ってます。あのベルギー戦とか、特に。

もちろん昔に比べたら想像もつかないようなレベルアップを遂げてきたけれど、日本サッカーがこの先さらに一段高いところに進むには、トップトップのレベルアップだけでなく、草の根から、子ども時代から、サッカーというスポーツに普段からどう接してどう向き合ってどう楽しんでいくかというところが、もっと劇的に変わっていかないといけない。

もう、ほぼ哲学とか文化の話にもなってくるけど。

もちろん日本サッカーが強くなるのが目的でも目標でもないんだけど、サッカーをする子ども達が、プレー中に喜怒哀楽を素直に自然に出しながら楽しむ環境になっていった結果として、いずれ、日本サッカーも当たり前のように強くなっていくものだと思うのです。

サッカーは競技だけど、その前に 遊び でもある。そして 喜び でもある。
前にもどこかに書いたけれど、サッカーは喜ぶためにやってるんだぜ!という大前提を、育成に携わる大人達はもう一度、確かめるべきじゃないでしょうか。



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