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喜び生きることで、夢みる神さまに仕える。

私たちは忘れん坊の神々なのだと思う。

神様が夜眠る時に、「今日は夢の中でこれがしたい」と思って寝る。

でも眠りに落ちた途端に、神様は夢の中でやりたかったことを忘れ、夢の世界の中にどっぷり浸かってしまう。

その夢のストーリーを生きるキャラクターが自分なんだと思い込み、夢の世界を現実だと認識し、一喜一憂したり、何かを頑張ったりする。

しかし神様が起きたら全て記憶という埃となり、夢の中に存在していた「私」も世界も、目が覚める瞬間に消え失せる。

だから解脱の目的は、自分が本当は誰かを思い出すこと、即ち「夢は夢で、私はドリーマー」だと思い出すことであり、

その先に「ドリーマーとして夢を楽しむ。物質次元で体を持って体験したかったことを素直に体験する」ことが、ヨガ(自我と真我、限られた自己と限りない意識の融合)を生きる、ということなのではないかと思う。

夢の中の主人公を、「私」ではなく、魂が見たい夢を見るための道具として客観的に見れれば、自我の思い込みや欲望に邪魔されることなく、純粋に魂の経験のために捧げることができる。

そうして人生自体が起きたいように起きていくことに完全に身を委ねると、不可能も可能となるような奇跡が起きたり、自然と物事が進んでいき、命が私を生きている感覚になるのだ。

Divine Lila(神々の遊戯)でしかない現象世界での全ての出来事は、そもそも遊戯なんだった、「私」が生きてるのではなく、神が「私」を通して生きているんだ、ということを思い出すことによって、私たちははるかに心軽く生きれるのではないだろうか。

だが、遊戯の中で何を体験したかったのかを思い出せないまま、生きることをおざなりにして知識面だけで真理の追求にハマるのは危ない。

瞑想やサーダナを通して宇宙意識とつながり、自分の中に「多彩な体験に至上の喜びを感じるブラフマンの境地」を体験しないで、自我の視点から頭だけを使って存在の仕組みを理解した気になっても、その諸行無常の虚しさに押しつぶされて生きる意味を無くしかけてしまうかもしれない。

だから真理の追求をする人ほど、それと同時に、この世が神々の遊戯を反映しただけの幻想だと知ってもやりがいを感じる何か、マーヤーを生きる上での生きがい・こなすべき仕事(ダルマ)を持つことがとても大切だと感じる。

その生きがいは、魂がわざわざ体を持って生まれてきた理由であり、内側から喜びが湧いてくる感覚で知ることが出来る。

それがガーデニングだろうが、蟻の研究だろうが、旅だろうが、悟るための修行だろうが、料理だろうが、ものづくりだろうが、家族のために何かすることだろうが、生きがいや生き様は人それぞれで、

その喜びを感じるためにブラフマンは夢を見ているから、誰がなんと言おうが、人から時間の無駄だと思われようが、何かのためにならなかろうが、自分の生きがいを生きること以上に大切なものは、ないんじゃないかと思う。

小さな自分の限られた思い込みの世界の中での「こうであるべき、こうでなきゃ生きていけない」から全くかけ離れたところにある、

自分がやってて魂が震えるような喜びを感じるものに、全身全霊で取り組む。

それはきっと私たち一人一人に与えられたダルマであり、
その行為の結果に期待や執着をせずに*1、日々自分の喜びを生きることは、内なる自己や神への献身であり*2、

それは何よりも純粋な、いのちの祈りとなるのではないだろうか。


●ひとことメモ●

*1 ダルマを日々生きる中で、うっかり夢中になって自分の本質を忘れてしまうと、また現象世界に執着をし始め、「私」「私の」「私が行為者」というヴェールに覆い被されてしまい、「限りない創造性であるだけの命」から縮こまってしまう。

だから「喜びをもって心と体で生きること」と同時に「自己の本質は真我アートマンであり、その源は宇宙意識ブラフマンであるということを忘れないこと」が大切であり、またそれこそが現象次元と魂次元のバランスを保つこと、すなわちアートマンとブラフマンの融合であり、ヨガとなる。

ドリーマーであることを忘れずに夢を楽しむ=ブラフマンであることを忘れずに、アートマンを生きる。

*2 内なる自己:真我、アートマン、個人の魂
  神:宇宙意識、存在の根源、ブラフマン、宇宙の魂

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