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ムスリムの庭師が教えてくれた、「地に足をつけて生きる」。

ヒンドゥー教には「セヴァ」という概念がある。


サンスクリット語で「無我無欲の奉仕、他人への献身」という意味で、アシュラムやグル、そして人々のために、見返りを求めることなく、純粋な献身の気持ちで、ただ心尽くして何か自分の出来ることをするのだ。


独り身で自由な分、好きなだけ自分のために時間を費やせる私の1日は、「自分の好奇心を満たすための勉強」、「友達と過ごす時間」、「生計を立てるための仕事」など、自分のための時間で埋まっていた。


だいぶ恵まれた生活なのに、「一人で生きて、一人で死んでいく。生きてる意味あるのかな?」と感じてきてしまい、色々考えた結果、「今世、何も成し遂げられなかったとしても、誰かのためになった時間は、無駄ではなかった」と死んだ時に思えるのではないか、とゆう結論に辿り着いた。


結局、人間は何かしら人のためになっていないと、存在意義を感じられない生き物なのかもしれない。


そんな流れで、アシュラムの庭師スルタンに、「セヴァとして手伝わせてほしい。何をしたらいい?」と聞いてみたら、「アムリテシュワラバイラヴァ寺院の周りの草むしりをしてみたらどうかな」とのこと。


そんな簡単に、一番楽しい剪定や種まきを出来るわけではない。ほのかに期待していた木登りや剪定は諦めて、地道に草むしりを始めたのだった。


それにしても無心になったり、学びがあったり、一人で自然と過ごす時間は奥深い。

難しい哲学の授業の合間にグルジ(師)がよく言う言葉が頭をよぎる。

「やることすべてに一点集中して取組みなさい」

「心を込めてやれば、すべての行為が祈りになる」

「マインドと呼吸は繋がっているから、考え事をコントロール出来ない時は、呼吸を観察しなさい」


いくら本を読んでも、これらの実践を行なっていかなければ、何も体験できないし、頭でっかちになるだけ。頭を宇宙につっこんで哲学するのと、地に足をつけて命を生きることのバランスが大切だよなぁ。*1


なんてことを思いながら、一生懸命、庭の緑と向き合っていたら、色々な気づきが心に入ってくるのだった。


まず、それぞれの雑草は抜きやすい方法が違うし、使うツールも変えていかなきゃいけない。そう、雑草は雑草でも、種類によって根の生え方が違うのだ。


人間関係で言えて、同じ話を聞いても、言葉の受け取り方や、頭の中でイメージしてるものは人によって全然違うもの。

だからお互い、見えない部分(価値観、経験、好みなど)が違うことを忘れずに、いきなり判断するのではなく、まずはじっくり観察して、理解しようとすることが大切なんだ、と感じたのだった。


また、雑念を仕事やエンターテイメントで忘れようとすることは、雑草をカマで茎から切るのと同じだということもわかった。

結局は雑念が浮かび上がる原因となる「思考の癖」自体を、上手に自分のマインドセットから根こそぎ取り去らないと、またいつか同じ様な雑念が、違う形でやってくるだけなのだ。


そして一番大きかった学びは、「実践の大切さ」だった。

1で方法を学んだ後、2−9の実践の中に本当の学びがあり、10の体得にしっかり辿り着くには、ひたすら実践・練習を頑張るしかないのだ。

それをスキップすると、方法を知っただけなのに、頭の中だけで体得に辿り着いたと思い込み、経験が伴わない薄っぺらの知識になってしまう。

こんなあたりまえのことが見えず、何を学んでもそうやって楽して生きようとしてきたから、「これだけはできる」と言えるものがないのだ、と深く反省し、「頭を知識で一杯にすることだけでなく、自分の体を使って練習と実践を積み重ねることの大切さに気づく」という大きな人生の転機を、草むしりにより迎えたのだった。


そうして1ヶ月が経ち、「草むしり以外も何か学びたい」と思い始めた頃、スルタンは私の心を読んだかのように、「次は草を植えよう」と言って、植え方を教えてくれた。


そうして草を植え始めたが、土が硬くて草むしりよりしんどい。

「願って夢が叶ったら、それを生きるのは自分の仕事」なんて声が頭の中に響き渡る。

それでも少しずつ地面が埋まっていくのが嬉しくて、地道に植え続けたのだが、「植えたら水をやる」ことが一切頭になかったことに後々気付くことに。「水やりは誰かがしてくれるだろう」と、自分で植えたものの「手入れ」について全く気にしなかったのだ。


そして「創造」と「破壊」は楽しいけど、「維持」することが一番難しく、またとても大切なんだ、と再度気付かされるのだった。


そんなこんなで草むしり、草植え、水やりをやっていくのが日々どんどん楽しくなってきて、しまいには友達と世間話してるより、草むしりをしていたいと思う様になっていった。


自然の中で一人で黙々と草と遊んでるような、自由な気持ちが好きだったのもあるが、「とにかく誰かのためになってるから、無駄じゃない」という、大いなる安心感を抱ける時間になってきたのだ。


頭では理解できない喜びがそこにあり、ずっと自己中に生きてきた自分の心の中に、「献身」という気持ちが、草を植えた数だけ芽生え始めたのだった。

🪷

スルタンは何も語らない。

朝やって来て、優しく穏やかな笑顔で挨拶をし、フーカを吸って、チャイを飲んで、淡々と自分のやるべきことに集中して、最後に乾燥させた雑草を燃やして、何も考えてなさそうな顔で、ゆったりと歩いて家に帰る。

頭でっかちな話をすることも、自分や人の話をすることもなく、ただただ地に足をつけ、静かに素朴な日々の生活を送っている。


(((スルタンが20歳若かったら、惚れてたかもしれない)))

なんて雑念は、雑草と共に引き抜いて。。。


今日も、丁寧に生きる!

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●ひとことメモ●

1.「ヨガを日常で生きる」をモットーにするカシミールシャイビズムでは、ギャーナ(宇宙の真理・根源・本当のわたしに関する知識)とバクティ(献身・神への信愛・愛を込めて生きること)は、どちらも必要不可欠で、バランスを取りながら育んでいくべきと教えられる。

ひとつの要素だけで「私は宇宙の根源シヴァだったってこと、忘れてた!」という自己再認識(すなわち悟り)に辿り着くことは出来ないのだ。

献身により、根源の存在からの愛を自分の内側に体験することによって、揺るぎない信心が育つ。
なので、知識だけをかき集めても、大いなるものを想うことがなければ、信じてないものを体験することは出来ないし、献身的に生きても、知識や自制心や良心が養われていないと、感情的・盲信的になりやすく、悟りに至るに必要な心の平静さを保つことが難しいのだと思う。

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