週囲のサポートが重要です。の呪い
ADHDの記事を読んでいると「物事をスムーズにすすめるには、周囲のサポートが重要です。」的な文言をよく見る。
ADHDの人間が、計画を上手に遂行したり周囲のサポートはとても重要だと思う。だけど、その言葉がADHDの当事者を苦しめていないだろうか?とも思う。
ADHDの人間にとってまわりの理解は、少しでも生きやすくなるために重要だし、社会生活を送ることにおいては必要不可欠ともいえる。
だけど、健常者にとってそれはしばしば負担になる。
職場にADHDの人がいたら、ADHDの人が仕事で困らないように、ADHDの人を含めて業務全体がうまく回るように工夫をしてあげたり、協力してあげるのが理想的だと思う。
だけど、ADHDの人がそもそもそこにいなければ、そんな労力を使う必要はない。だったら、ADHDの人を頭数にいれなければ、業務は健常者だけで問題なく遂行されるし、周りの人間は面倒くさい工夫なんかしなくて済むのだ。健常者がADHDの人に合わせなくちゃいけない法律なんてどこにもない。
ADHDという言葉は昔よりも浸透した。理解も得られやすくなったと思う。だけれど、同時に社会集団における健常者の負担を増やしているようにも思う。
ADHDの人と関わるのはとても疲れるし、ADHDの人がいなければやらなくていいはずの「無駄な労力」をかけなくてはいけない。ただでさえ、ディスコミュニケーションによってストレスが溜まっているのに、「ADHDの人」のためだけに健常者が合わせなくてはいけないのは面倒くさいことこの上ないだろう。
ADHDの当事者はそのことを「なんとなく」理解している。だけど、本人の気づきと努力だけでは、成し遂げられないことがたくさんある。まわりの協力が必要不可欠なのだ。だからまわりに「ADHD」への理解をお願いする。医者にもカウンセラーにも「まわりに協力をお願いしてみてくださいね」と言われるから。実際それがないと何もうまくいかないから。そういう自己申告が返って「ADHD」の人間は図々しいとか、厚かましい、とか免罪符にしているという悪いレッテルを自ら貼ってしまう原因になっているんじゃないだろうか。
ADHDをできないことの免罪符にしているということは、つまり【やる気がない】ということである。
健常者からすれば頑張る気がないけど許してくれ。と言われているに等しい。
私も彼に「ADHDだからできないこと」について理解してほしい、協力してほしいと伝えることがある。彼はADHDをわかってたくさん歩み寄ってくれる。だけど、やっぱり100%の理解を得ることはできない。彼からみれば私は意味不明だし、ストレスの種だ。彼だって人間だから協力しきれない、理解しきれないことだってたくさんあると思う。彼ですらそうなのだ。社会が自分に合わせてくれるわけないのだ。
「これはADHDだからできないor苦手です」とはっきり伝えることで、怠け者レッテルを貼られてしまうかもしれない。
違う。ADHDだからできないんだ。やる気がないわけじゃない。とどんなに伝えたところで「やる気があればできるはずだ」というセオリーの上ではADHDの主張は全く通用しない。
そういうとき「どうしてわかってもらえないんだろう」という気持ちになる。頭では(わかってもらえなくて当然だ)と理解しているのに感情がついていかない。
「できないこと」をできるとは言えないし、
どんなに気をつけていても失敗の頻度は減らない。
すべてがもどかしい。
ADHDについて周りの理解を得るのは容易じゃない。容易じゃないのに「まわりの協力が重要だ」と言われる。協力が必須かのように。実際【必須】だけど、理解を得るのは容易じゃない。言えば嫌な顔をされるかもしれない。理解を得られずもっと苦しむかもしれない。言わなければ言わないで仕事のできないやつだと思われる。だけど協力を得なければ。自分はここから抜け出せない。
ずーっとこの考えのループの中にいて、しまいには考えることに疲れて「誰にも言わないほうが楽」という選択肢をとって殻にこもってしまう。
ADHDだからできないと、伝えても地獄伝えなくても地獄。残念ながら私のような平凡なOLにとって社会とはそういう場所なのだ。
苦しいけれど死ぬまでずっとこの性質と付き合っていかなくてはならない。私からADHDを切り離すことはできない。