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隠声7:ソーシャルグッド界隈に蔓延る二次加害(セカンドレイプ)

本投稿は、2021年6月にofficeドーナツトーク代表田中俊英さんとのトークセッション「隠声7」のまとめです。

■とどまることのないソーシャルグッド界隈での性暴力事件

大手老舗フリースクール、業界のインターネットメディアNPO、社会福祉法人の大御所活動家……2020年以降、「社会的善(ソーシャルグッド)」のために活動しているはずの団体——それも無名ではなくかなり著名な権威的存在の——における性暴力事件が相次いでいる。

性暴力が赦されざることであることはもちろん、驚くべきことに、それらの団体や関係者の事後対応が、あまりに組織防衛的、自己保身的で二次加害(セカンドレイプ/セカンドハラスメント)が酷すぎることがさらに炎上を招く……というところまで共通している。

隠声7では、二次加害の実際と、構造について、扱った。

■功績と加害は切っても切り離せない

一番多いのは、加害者や加害団体の功績を持ち出すことだ。加害者がいかに素晴らしい功績があるか述べ始めたり、加害はいけないが、功績は消えない、とか、加害と功績はわけて考えるべきだといった擁護から、悪質なものでは、功績の大きさに比べたら些細な事であるといった矮小化まで存在する。善きことをしたら、悪いことをしてバランスをとるのは仕方ないこと……などという謎の理論を持ち出した人間もいた。

本質的なことだが、功績と加害は切っても切り離せない。

性暴力というのは、見知らぬ人間に突然襲われるような場合を除き、多くの場合が加害者の肉体的・物理的な「力」の優位性以上に、加害者の持つ社会的な「力」の優位性が強く働いている。人間関係や社会的立場からの/への影響力を背景に行われているのだ。つまり、加害者の功績は、性暴力の「道具」として機能しているのだ。

功績が素晴らしくあればあるほど、それは暴力装置として強く機能している。その輝かしい功績は、「性暴力の道具として使われた」という消えない醜悪な汚濁を背負ったのだ。そして、性暴力の直接的な被害だけでなく、その「偉大な善なるもの」から被害を受けたということは、様々な面で被害者をさいなみ続けていることも忘れてはならない。功績を讃える、功績を別物として扱うこと自体が、まぎれもないセカンドレイプである。

また、加害者の団体関係者が「(性暴力は)個人的な問題(なので対応しなかった )」という発言もあったが、同様にこの類の性暴力は個人的な、私的な男女関係における問題ではない。

■「加害者を追い詰めるな」加害者に集まる励まし

加害者が著名であればあるほど、SNSでは励ましが集まる。中には、加害者に対する批判の声や、ひどいものでは被害者の被害の訴えに対して「なぜ加害者の名前を出したのか」「加害者を追い詰めるな」と非難するものまであった。

レイプは魂の殺人という言葉がある。性暴力が複雑性PTSDをもたらしやすい点や、複雑性PTSDの大変さを理解していれば、この表現が大袈裟ではないということは理解できる。加害者を公的に応援する人たちは、被害者は非常に危うい精神状況にあることを全く想定していない。多くの場合、被害者は二次被害を懸念して名乗らないことが多い。苦しんでいる被害者には労りがないのに、加害者には応援が集まる様子に、孤立感を深め、自尊感情はすり減っていく。まして、被害者やその協力者を非難する行為に至っては逆恨みも甚だしい。被害者を殺す気か

加害者と交流があったり、加害者に支援をしてもらった経験がある人たちが、加害者を支えたい気持ちは理解できる。ただしそれは、個人的なメッセージやクローズな場で行ってほしい。二次加害を起こさずに、加害者支援は可能である。なお、加害者の反省や贖罪が十分でないうちに、励ましや赦しがあることは、かえって加害者の更生を阻害することは付記しておく。被害者のセカンドレイパーはたいてい加害者のイネイブラーでもある。

■怒りや、傷つきは絶対悪、赦しは絶対善なのか?——ソーシャルグッド界の歪んだ文化

加害者や加害団体に支援されている(た)人たちが傷つくから、などと、第三者の傷つきを理由に議論や批判を封じようとする声もあった。連帯する人たちの怒りを非難したり、加害者の事情をあげ、加害者を赦すべきだという声もあった。これらは被害者を自責の念に陥らせるワードでもある。

差別やいじめ、虐待、暴力被害による傷つきは不要だ。生じさせないべきだ。しかし、人生には必要な傷つきがある。それを見せず、聞かせず、なかったことのようにするのは優しい虐待に他ならない。

被害者に連帯する人たちが批判や怒りを表明することは、被害者への励ましとエンパワメントの要素になっていることも大切な要素だ。特に性暴力の被害者は孤立しやすく、二次加害に遭遇しやすい。見知らぬ人たちでもSNSで連帯して怒り悲しむことが、被害の「その後」の人生を生きる力になる。もっとも加害者や関係者への過剰な誹謗中傷はあってはならない。しかし連帯者の怒りや悲しみ、適切な批判と、悪意の誹謗中傷を十把からげに語って、抑圧しようとする行為も多くみられた。

批判と誹謗中傷を弁別できず、怒りや傷つき、対立は忌避すべきもので、赦しは常に正しく優れたものである、という思考停止からくる二次加害は、ソーシャルグッド界隈で特に顕著であった。被害者を踏みにじって抑圧したうえに成り立つ、みんな仲良い理想郷など、ディストピアでしかないのに。

知性とモラルが劣化し、歪み偏った「キョウカン」と「ヤサシサ」が被害者を繰り返し繰り返し嬲り続けている。


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