見出し画像

最近感じる不思議な「夢」のこと。


ADHD_noteです。

今からちょうど一ヶ月くらい前でしょうか。
すごく昔に見た夢(睡眠中に見るもの)が、起きているときにザッピングのように瞬間的に表れるということが起こりました。

なんなのかなー?という感覚ですが・・・。汗

私は昔から(幼稚園、あるいは小学生低学年くらい)からよく夢を見ていました。(大人になってからは短眠になっているからか最近はほとんど見ませんが。)


こどもの頃によく見ていた「夢」は

いつも同じ場所、同じ町、同じ風景の中に自分がいるものです。

いつも「自分」の視点。

「自分」は幼い感覚だったり、かなり歳を取っていたり。
(おそらく60代くらいでしょうか。)

ほとんどの夢は十代の頃に見たことが多かった気がしていますが、歳を取っているときの夢は、もう親族が誰もいないというような、老人が過去を懐かしんでいるような感情を持ちながら、その風景の中に居たことがあります。
コンテナがある倉庫街を走るバスの中から、ネオンが煌めく街並みを眺めていたりしたことがあります。


(アメリカンテイストもあり、香港のような印象もあり・・・)

といった感じで、本当に不思議な感覚なんです・・・。

私は診断後、いろいろな発達障害に関わる本を読んでいますが、その中で、市川拓司さんの「ぼくが発達障害だからできたこと」という本に、私の感覚と似たようなことが書かれていました。

小説は夢の代替行為
 あるいは「想像」、「妄想」があります。
 これがまた不思議なリアリティーを持っている。ぼくは十代の頃、ずっと妄想の中で「ある場所」に行ってました。
 ときは夕暮れ。ツーリングの途中に立ち寄った坂の多い新興住宅地。そこでぼくは犬の散歩をさせているひとりの少女と行き会います(ベタな設定。十五歳の少年の想像なんてこんなもんです。のちに、自分の小説にも幾度かこの場面を形を変えて登場させました)。
 なんということはない束の間の交じらいなんだけど、甘く切ない郷愁にも似た思いが胸を締め付けます。
 ぼくはきっと、この想像上の少女に恋してたんだと思う。何度も何度も、繰り返しぼくはこの短いシーンを再現し続けました。エンドレスで奏でられる美しい音楽のように。
 そしたら、何が起こるのか?
 なんとあの出来事が、ぼくの中で現実となんらかわらない思い出となったんですね。
 いまでもときおり、ふっと懐かしく思い返し、彼女はどうしているんだろう? と思う。
で、ああ、と気付くわけです。そうだ、あれは想像の中の出来事だったんだ、って。
 実は、たいていの現実の思い出よりも、こっちのほうがよほど懐かしく感じられる。脳の記憶に関する機能になにか理由があるのかもしれません。

 夢もそうです。夢を現実のように思い返す。

 みんな「これって夢で見たことだっけ?」みたいに言いますもんね。
 ぼくもよく古い夢を思い返します。傷むほどの郷愁。いまとなっては、それが夢だったのかどうかも、さだかではなく・・・・・・。
 過ぎてしまえば、現実も、夢も、妄想も、みんないっしょ。

市川拓司「ぼくが発達障害だからできたこと」p174~176より


市川拓司さんは『いま、会いにゆきます』をはじめとした超有名作家さんで、その方と比べるのは本当に畏れ多いのですが、ここに書かれていた文章を読んだ時に、たしかに私自身も全くと言っていいほど同じ感覚だ・・・と思いましたので、本当に驚きました。


バスの中だったり、スーパーだったり、倉庫街だったり、
港町のコンテナがたくさんある場所だったり、
提灯がある旅館の入り口だったり、
赤い絨毯が敷きつめられたホテルの廊下だったり、


それは、もしかしたら小さい頃にどこかで見た風景が元になっているのかもしれませんが、私としては、「そこ」はたしかに「夢の中だけで行った場所」で、現実には行ったことのない場所で。


でも、どれもなぜかすごく落ち着く場所なんです。


私は小説を読むのが(たぶん書くのも)苦手なんですが、

脚本とか、映像作家になったら結構活躍できるかもなぁ・・・と思ったりもしてます。 笑

ちなみに画像は、昔見た夢の中の街並み的イメージ。

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

いただいたサポートはADHDの発信、啓蒙・啓発活動や、クリエイターとして自らを高めるために活用させていただきます!