『盤上のアルファ』

塩田武士さんの作品。

記者の秋葉はある日、首都新聞文化部の将棋担当になる。一方、棋士を目指す真田は、アマチュア名人を経て三段リーグ編入に挑もうとしていた。


県警担当の記者の1日の流れが書かれており、自分には到底無理だと感じた。

いきなり将棋の記事を書くとなったら、とても大変だと思う。

真田の生い立ちを知って、心が痛くなった。

秋葉と真田の喧嘩の場面が面白かった。

林の人生にも興味が湧いて、林を主人公にした物語を読みたいと感じた。



印象に残っている文

秋葉がたまの休日に甲子園へ出掛けるのは、クリスチャンが教会へ通うのと等しい。互いに共通するのは信仰の一言である。

間の悪い呼び出しに、秋葉は苛立ちを覚え、それを特別隠そうとはしなかった。互いに仏頂面で沈黙を続けていた。「時間の無駄遣い」というテーマで絵を描くなら、この場面を写生すればいいだろう。

「ええこと教えたろ。囲碁と将棋の決定的な違いはな、負けた後の感情や」「負けは負けでしょ」囲碁のことはさらに分からない秋葉だったが、思いも寄らぬ言葉に少し興味をひかれた。「確かにそうや。でもな、ゲーム性がまるで違うんや。将棋は王さんの首を取られたら負け。つまり、ゼロか百か。一方の囲碁は、陣地を奪い合うから、六十対四十で負けても、四十取れた分の満足感は残る」「そんなもんですか」「そやから、政財界の人はよく碁を打つやろ? あれは勝ち負けで角が立たんからや。あれが将棋やったら、まとまる商談もまとまらんで」

メーンの「神戸牛のステーキ」が出されるころには、アルコールが「社会人の仮面」を溶かし始めていた。

洗顔と洗髪に曖昧な境界線しかないのは、丸坊主の特権である。

ストレス発散のために酒を飲みすぎて、結果的に肝臓をつぶすというコントのような展開は、物語でも何でもなく、現実として存在する。そのコントの台本通りに生きているのが、秋葉隼介だった。

女が別れを告げるときは、沈黙の臓器と言われる膵臓に癌が発見されるようなもので、大抵はどうにもならない。

「知らん家に来て、パソコンで勝手にエロ動画を見る心境を教えてくれ」「エロスは場所や道具を選びません。さっきは違法サイトにつながりかけたんですけど、事なきを得ました。もう大丈夫です」

社会人は何らかのドラマを期待して過ごしているのではない。無難にノルマをこなしていくだけで精いっぱいなのである。

三十を超えれば、知らなくていいことの価値が分かるようになる。あえて見ない、というのは生きる技術だ。

作曲家が楽譜を残すなら、棋士は棋譜を残す。負けを悟った場合でも美しく負けるため、棋譜を整えるのがプロの仕事である。将棋ではそれを形づくりという。

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