『さざなみのよる』
木皿泉さんの作品。
小国ナスミは43歳の若さで亡くなった。
彼女の死は、湖に落ちた雫の波紋のように家族や友人、知人へ広がっていく。
病院で働く人が「文字に見えてくる。」という日出男の見方がとても興味深いと感じた。
日出男の携帯電話に残されていたナスミの動画は、見たら絶対泣いてしまうだろうと思った。
最後に出てきた「夢を見ることができる機械」が羨ましいと思った。
印象に残っている文
死ぬのってお産みたいだな、とナスミは思う。子供を産んだことはないけれど、陣痛みたいだと思う。生きたいという気持ちと、もういいやという気持ちが交互にやってくる。
最初は、まだ生きているのにと憤慨したが、そのうち、それもまたこの世で自分に与えられた最後の役なのだと思うようになった。
やってもやっても、それが当たり前と思われる主婦の仕事を続けていると、ときどき何もかもおわってしまえばいいのにと思うときがある。
ナスミがいなければ、そんな呼び名は、もう意味をなさないのだと日出男は気づく。そうか、自分のことを見て「キ」という字を思い浮かべる人は、もういないのだ。そうだとすると、自分は一体、何なんだろうと思う。
「そうじゃなくて、本当に大切なものを失ったときって、泣けないんじゃないかな」
へんな話ですが、そのとき、なぜか野球場に湯飲みがずらっと並んでいる風景が見えました。それは、私がこれまでに誰かと会ってお茶を飲んできた数であり、これから飲むであろう数だったのだと思います。
「それで、わたしはゆるされるんですか?」「バカだなぁ、ゆるされるためにやるんじゃないよ。お金にかえられないものを失ったんなら、お金にかえられないもので返すしかないじゃん。だから、やるんだよ」
「今はね、私がもどれる場所でありたいの。誰かが、私にもどりたいって思ってくれるような、そんな人になりたいの」
ナスミは、そう言うとニッと笑って、伝票をポーカーのカードを引くみたいに自分の方へ引き寄せた。
「愛ちゃん、最初はね、物真似でも何でもいいんだよ。最終的に自分がなりたいものになれれば、それでいいんだよ」