『ぼくは落ち着きがない』

長嶋有さんの作品。長嶋さんの作品は初めて読む。

桜ヶ丘高校の図書部に所属する望美は、朝一番に部室へ行く。図書部には頼子や幸治など個性豊かな仲間がいて、今日もゆるやかに活動をしている。


金田一少年の事件簿に出てくる脇役に似ているからという理由で、尾ノ上というあだ名になったというくだりが面白いと思った。

読書を素潜りに例える描写に、とても共感した。

ナス先輩の考えた寝人間の話には、笑ってしまった。


印象に残っている文

桜ヶ丘高校の生徒会長は頭こそ良さそうだが、冴えない風貌の、ひ弱そうな男子だ。全校集会などで登壇してなにか喋ると、いつもどこかでクスクスと小さな笑い声が起こっている。尊敬されていない気配を当人も感じとるのか、虚勢を張るようにとがった声音になるが、威厳も格好良さもそこにはない。よくて注がれるのは同情的な視線だけだ。

言葉は、それを聞いた場所にいくと思い出すことがある(当然といえば当然なのに、望美は不思議になる)。

頼子はいつだって部長には従う。嗚咽をもらしながらゆっくり立ち上がり、泣きを水平に保持したまま、登美子を伴って出ていった。

我々は生きている。生きているというのはもちろんそれは、常に連続して生きているのに決まっているわけだけど、なにげなく演じたり、芝居がかったりする。そのとき少しだけ、ただ生きているのと違うことをしている。違う場所にいくわけでもないのだが、いつもの生ではない瞬間になる。なんのために我々はそうするんだろう。

読者はときどき素潜りのようだ。本を読むとき、いつも首を下に向けているから、その上下運動が潜る、浮上するという行為を連想させるのだろう。だけどもっと大げさな、それこそ水面下と空気のある地上というくらいに隔たったところから戻ってきたような錯覚がある。安心と残念と、純粋な驚きとを感じる。

人のオススメ本を借りるのは、本当は少し苦手だ。つまらなかったとき、当たり障りないことをいって返す。でもそういう態度を上手にとる度に、この世界のなにかを欺いている気がする。

九〇年代のSMAPの歌詞はどれも、なんとまあ世知辛いこと。「セクハラ上司を笑顔でかわし」たり、「仕事だからとりあえずがんばりましょう」なんていっている。

自分の好きな本や漫画を褒められると男の子は皆、とても喜ぶ。好きなゲームやCDを褒めるよりも、もしかしたら喜びは大きいかもしれない。


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