『もしも私がそこにいるならば』

市川拓司さんの作品。
以下の作品が収録されている。

「もしもわたしがそこにいるならば」
ダイビング中に母が溺れて亡くなってしまい、残された父と娘。
娘の前に母のかつての恋人だった内藤が現れ、母の恋について知る。

自分の過去の恋愛を子どもに知られてしまうというのは、かなり恥ずかしいことだと思う。反対に親の過去の恋愛を知るのも、変な気持ちになりそうだ。

「鳥は死を名づけない」
入院してたまたま隣になった時枝と私。

時枝が亡くなってしまうのが残念だったが、彼と過ごした日々は私にとってかけがえのないものだと思う。

「九月の海で泳ぐには」
中学校教師の周作と刈谷
教え子の吉村。

フリークライミングはやったことないが、相当頭を使う競技だと思う。数多くの選択肢の中から、自分が登る道を選んで実行するところが本当にすごいと思う。

印象に残っている文

物に還元されつつある肉体、麻痺した無力状態で細々と生き長らえている生命、職業的な手で辛うじて保持されている無防備な人格……

「煙草を二十五年吸いつづけていると、肺癌のもとになる細胞ができるそうだ」

エスプレッソ・マシーンで淹れたコーヒーは、小麦粉を溶かして絵の具で色をつけたような味がした。

パパと話していると、この人のなかにはもう一人別な人間がいて、彼をどうしても引き出すことができないという、もどかしい気持ちになる。

「結局のところ、わたしたちの人生というのは、実現したことではなく、実現しなかったもののためにあるのかもしれない」

人間とは何か。この問いにたいする単純にして明快な答えは、喰うけれど喰われないもの、ではないだろうか。

「非の打ち所がないジャンク・フード」

読むことと書くことは別だ。文章が上達するためには悪文を書かなくてはならない。

「たぶん人間は一人きりで死ぬようにはできていないんだね。鳥たちみたいに、いつのまにか動かなくなって、木の根元で冷たくなってる方が気楽だけど、彼らが何気なくやっているようなことが、ぼくたちにはできない。そこが問題なんだ」

しかし入試問題というのは、解答者の推理能力を問うものではない。書いてあることから判断して、何が言えるかを問うているのである。

目の前に予断を許さない現実を突きつけられれば、頭の中で考えている理想など、一瞬にしてどこかへ吹っ飛んでしまう。教育評論家でもやっているならともかく、現場ではそうそう人格者面ばかりもしていられない。

「人体は部品であると考えたがる社会にわれわれは生きているんだなと、しみじみ思ったね」

フリークライミングのパートナーというのは、普通に想像されるよりも深い意味を持つものだ。ロープ一本でお互いを確保し合う関係は、たんなる必要上の協力関係を超えている。


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