『やさぐれるには、まだ早い!』
豊島ミホさんの作品。
エッセイだと知らずに手に取った本だが、とても面白かった。
彼氏の理想の条件を書くのが面白そうだと感じた。
向いている仕事についての考え方は、とても勉強になった。
豊島さんがいかに料理が嫌いかについての文章がとても面白かった。
Kくんとの放課後の話が印象に残っている。
印象に残っている文
ある時は涙でジュースの瓶を満たせるんではないかと思って空き瓶に涙を落とし、またある時は、怒られていないのに、どうして自分はこんなに書けないのかと机の前で泣いた。
何柄だかわからないのだ。薄れ過ぎ。幾年と洗濯機で揉まれ日光にさらされたその退色具合は、「田舎の駄菓子屋の前に置き古された自販機の側面」と同レベル。
悩んだままエレベーターに運ばれ、ひとりの部屋に帰り着いたが、答えは出ない。みんな一体、家族以外の「おかえりなさい」に何と答えているのだろう。
他人の「おかえり」には、家族の「おかえり」にはないものを感じてしまう。それは下宿でなく賃貸に住んでも同じことで、なんだかくすぐったく、特別な感じがするのである。赤の他人だけど私たちは同じ家に暮らしているんだよ、という確認作業だからか。
普通の人間にあるのは「どちらかと言えば向いている仕事」と「どちらかと言うとやりづらい仕事」だけ。すべてがうまくまわっていく「天職」なんて多分ない。少なくとも私は、そう考えないとやっていられないし、それでいいじゃないか、と思う。
私としては「日記をつけたほうがいいよ!」の理由など、ありすぎて全部答えられない。一年後に読み返す時の恥辱プレイ感、三年後に読み返した時の納得感(その時はわからなくても、後で読むと他人の気持ちまでわかったりする)、五年後に感じるループ感(あれ? 今、私、同じ間違いしてない?)……そして十年後に日記帳を開いた時、ページの隅から隅までに感じる愛しさ……ああ! 日記はなんと様々な感情を我々に与えてくれるのであろうか!
私は、ものごころついた時から調理という行為が大嫌いなのだ。「大嫌い」がどれくらいかというと、幼少時、おままごとで母親役になった際、その役を遂行することができず(夕飯をつくらなかった)、クラスメイトから「そんなお母さんはいない」と糾弾されたほどである。
桜や夕日を「きれい」と思う時、それが美しいからという理由だけで「きれい」と思っているのではない。もちろん、単純に美しさに感動している部分もあろうが、それだけではなく、そのきれいな景色に重なっていくさまざまな記憶があるからこそ、苦しいくらいにぐっとくるんだと思う。
はっきり言って、私が見てきたありとあらゆるマネキンの中で一番かわいい。ありとあらゆる……とか言うほどマネキンの顔を見てきたのかよ! と突っ込まれるかもしれないが、私は一般の人よりはマネキンに注意を払っている。昔マネキンに恋したことがあるためだ。