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2019年


待ち望んでいた元旦休みは足早に通り過ぎ、郷里から東京へ戻る電車で、眠た目を擦ってこのブログを書いている。

文章を書くのは苦手だ。小学生の頃の"日記を毎日書く"という宿題を思い出してしまう。小学生だって、本当に今日一日何も無かったという日もある。けれども"宿題"というやつは、一日だって例外を許してくれない。
郷里はいつもひんやりと澄んだ空気で、高いビルはないので空は年がら年中広い。子ども部屋の窓から身を半分乗り出すと、夜空は漆黒で無数の光の粒が見えた。粒は大小あり、赤色に見えれば青白く見えるものもある。
いつからかその粒と粒を繋いで、子熊座や白鳥座が分かるようになった。
窓を開けて星座を見つけると、まずノート一面にその点を描画し、線で繋げた。その後、急いで書斎にある星座図鑑を見に走った。子ども部屋を出て寒い廊下を渡り、階段を滑るように降りた一つ目のドアを開けると、そこが書斎だ。
星座図鑑には星座に纏わる神話が載っている。「蠍は傲慢なオリオンを神々が懲らしめる為に放たれ、オリオンを苦しめたので褒美として星座になることが出来た………オリオン座は蠍座が見えない冬の間だけしか出てこない。」という、こういうような話だ。
それから、その星座の中で1番輝く星が何等星かを暗記し、また階段を駆け上がって日記に記した。

前年はサプライズが多かった。
良い意味でも悪い意味でもある。

まず我が弟の君が二浪であった。新年を日本で過ごすのは3回目で、もうすぐセンターだね…という悲壮感と絶望感で家を覆いつくしていた。両親は偉かったと思う。元旦は海外で過ごしたいという気持ちを抑え、弟が納得できるまで受験勉強資金を提供し、送り迎えをし、弁当を作り、「人生でこんなに基礎の勉強ができたんだから、あなたは他の人たちより精神的に成長してるのよ」と菩薩のように鼓舞した。

わたしといえば、炎上していた大型のプロジェクトが終わり、完全にやりきった清々しい気持ちで帰省した。
元旦休みでは、趣味や価値観が合うと思うし、何度もデートに誘われて遊んだりお話ししているのだけれども、いま一体何を考えているのかさっぱりよく分からない男の子に告白されて驚きつつも承諾するというイベントを経た。とても嬉しかったのに、「え?なんで?」と聞いてしまった。聞いたはずの答えは全然覚えてない。
母は相変わらず、私にNEW彼氏が出来たと知ると、それまでお付き合いしていた青年達の情報は脳内で綺麗に削除し、「はじめてのかれしね。よかったわね。」と言った。
次に会えるのが元旦休み明けの週末だったので、元旦休みが終わるのを心待ちに過ごした。

ほぼ毎週末会った。お互いの家を行き来し料理を振る舞い、季節に合わせて公園や美術館へいき映画を見た。家では一方はプログラミングの勉強をし、もう一方は統計学の本を読み、分からないと言って甘えた。仕事が上手くいかず泣いた日はなぜか察知して、電話が来た。もっとこうなりたいと話す彼に絶対できる!と鼓舞した。これがギブ アンド テイクの関係かと初めて知った。与えられ続けていたら、与えられたタイミングしか喜びを感じない。でも、与えることが自分にもできれば、何を与えるか考えるところから楽しい。

しばらく経ってプロポーズされた。五月の連休に彼氏とベトナム中部にあるビーチリゾートのダナンと、マカオに行った直後のことだ。以前から駐在の話しが出ており、もしそれが現実になったらどうしようね、寂しいね、という話しをしていた。結論は出なかったし、遠距離恋愛の心積もりさえしていた。

相手の考えている事が手に取るように分かれば楽だが、実際は全くの逆で、説明されても真の意味で納得はできない。一体いつから私と結婚したいと思ってくれていたかは永遠の謎だ。周りの慣習に習ったのかもしれないし、付き合った当初から見越していたのかもしれない。聞いてみたいが、聞くのも野暮だなと思い聞けていない。

結婚するかどうかを聞かれた時に、一秒で"する"と答えた。もっと考えて答えを出した方がいいのではないかと、よくよく後から考えた日もあったが、"する"からなかなか駒が動かない。それならその答えが正なのだと思っている。

自分、というものは心と身体と意識の三つで構成されていて、糸巻きと糸とその二つの回転運動だと感じる時がある。身体自体は糸巻きで、そこにぐるぐると細いとも太いとも言えない糸、意識が巻きついている。糸は一見不規則に巻きついているように見えるが、何らかの法則によって、確実に巻き糸に着地している。
巻き糸も糸の動きが分かるようで、糸が巻き付きやすいように己を回転させている。
じゃあ、心は何なのかというと、ここでいう法則であり、回転運動そのものだ。例えどんな状況下でもそのその運動は止まることはない。そういうようなイメージが、ずっと自分の中にある。
自分の身体自体も意識も心も、実は次どう動くか分かっていて、説明するにあたってそこに理由や根拠を肉付けしているに過ぎないことを知っている。だから理由を聞くのは野暮なのだ。

ほぼ同時期に父親が癌になった。
大腸癌だった。検査してから癌が分かるまでの期間がやけに長く感じた。母親は何度も、「ただのポリープかもしれない、きっと陰性よ。」と自分に言い聞かせるようにわたしに伝えていたが、実際は陽性で癌はかなり進行していた。父親はみるみる体重が落ち痩せ細った。それを見ては泣いた。
手術は六月に行われた。父は事前に入院していた。手術当日の朝は曇天だった。梅雨なのに雨が降らなかっただけでもラッキーだなと思った。
五時間にわたる長い手術だった。待合室では当初六組みほどいた家族も次第に少なくなり、最後は母とわたしが隅のベンチでお互いを支え合いながら雑魚寝した。
手術が終わった。確認の為見て欲しいと、切除した臓器を見た。臓器を見たのは初めてだった。あざ黒く、湯気が出てもおかしくない程、それは先まで確かに体内にあって動いてたはずの臓器だった。ここにあってはいけないものだとすぐに感じた。悍ましく、外気に触れることを許されない。
ポリープはここだと主治医が指差した。指差された部分は小範囲だった。ここに家族の涙と不安と嘆きが詰まっている。暫く目を離すことが出来なかった。母が嫌な顔をしたので、主治医はそれを閉まった。
父は思ったより早く目覚めた。目覚めて母にすぐこう言った。「家族旅行をしている夢を見たんだ。みんなで温泉に入っててね、」と。それを聞いて、カーテンに隠れて弟が声を殺して泣いた。お腹を開けてみて分かったが、幸運な事に癌は他の臓器に転移してなかった。家族でよかったねと言い合って、暗い大学病院を出ると雨が降っていた。梅雨の雨にしては冷たく、顔に当たると痛かった。弟と私は傘を持っていなかったので濡れながら歩いた。母親はなぜ持たなかったのかと我々姉弟に小言を言いながら、慌てて自分の傘をさした。傘をさして前に歩く母親が、静かに噛みしめるように涙を流していることを私たちは知っていた。つられて弟も泣いた。声を出して泣いていた。それを見るのが辛くて足早に駐車場に向かった。何も出来なかった。愛する人を失くす怖さや悔しさを抱えた母親も、多郎した故に父親にストレスを与えたと思っている弟も、全て優しく包みこんであげたかった。こんなに自分が無力だと思ったことはなかった。涙は出なかった。許して欲しかった。家族というものの外殻にはじめて触れた気がした。あまりにも脆く、こんなにも温かで、驚く程儚い。

婚約者の渡航日が近づいたので両親に紹介した。わたしの婚約者の渡航に伴い退職する件で、和気藹々ととはいかなかったものの、取り敢えずは認められて晴れて公式の婚約者となった。
夏休みには、彼の駐在先であるアメリカとカナダに遊びに行った。時差に苦しめられたものの、カナダでは誕生日をお祝いしてもらい、ナイアガラの滝とトロント観光をして、アメリカ国内では一緒に住むアパートを見に行き、家具や車を見に行っては来たる新婚生活を意識した。

父親の抗癌剤治療が始まる前に、家族旅行をたくさんした。母は三連休があるたびに旅行を計画して、たくさん写真を撮っては父親の顔色がよくなったと喜んでいた。淡路島にも行って家族貸切露天風呂に入ったし、和歌山のアドベンチャーワールドへ行ってパンダの赤ちゃんもみた。

年末は婚約者を実家に招待して餃子パーティーをした。父親は新しく買ったスマートフォンを触るのが楽しく、私と彼の写真を撮った。大方ブレていた…。世間話しや子育ては本当に大変だったという話しを永遠と聞かされ、それでも楽しそうに過ごしていた婚約者に感謝している。

毎日一生懸命に生きた。父親の一件があってから、仕事のことで泣く事はなくなった。

今年は家族が増える。自分の夫だ。
掌から大切なものが溢れ落ちてしまうと心配した一年だった。今年は全ての粒を大切に愛でて、丁寧に線を結んでいきたい。全てを守っていきたいし、存在してくれることに感謝したい。こんなにも好きなんだということを沢山伝えたい。それがわたしのこの一年、たった一つの目標。

#2019年の抱負
#2018年の振り返り




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