「どこが好きなの?ハラスメント」2024/11/8の日記
最近の動きとして、○○ハラスメント的なものが量産されている気がする。マルハラというものをご存知だろうか。実は私も今こうしてあなた方にハラスメントを仕掛けているかもしれません。まさしくこの。←
まるである。正確にいうと文末につけているこの句点が、メールやツイートの文末につけられていると、なんだか威圧感を感じる、というものである。そう、文章に書き起こすと非常に面白い。マルハラを受けたと感じる人間は、この。に戦々恐々としているのだ。丸いものなんて可愛いものばっかだけどね。この。だって人間がこれを句点と定めただけであって、記号的な要素を抜き去ればただの小さな○なのに。
おっぱいとか女性の柔らかな体の流線型、曲線美だってきっと丸みを帯びているから魅力的なんだと思っている。男に曲線美を見出すことは難しい。きっとないものねだり的な視線、羨望の眼差しも、女性に対して魅力を感じることを構成する要素の1つだとかねがね思う。インフルエンサーだったり、男が「女性は細いほうがいい」というあの動き、俺が困っちゃうから心底やめてほしい、もはや腹がたつ。女性諸君には好きなものを食べてそのまますくすくと育っていってほしいよ。
話は戻るが、とはいえ「○に恐れの感情を抱いてるなんて!」なんていうナンセンスな揚げ足取りをするわけではない。メールのやり取りの例を一つ挙げてみたとしても、確かに文末に句点の。がついていると、まあなんとなく「かっちりしている文を打つなあ、この人は」と思う。句点の。単品に恐れを抱いている人間なんておそらくいないだろう。メールの末尾に付く人間の集合的無意識から錯覚を引き起こす、ある種、記号的な意味がこの。に付属することや、そのメールが来たときの。がついている事への心当たり、もしくは単にメールの文脈からくるこの”マルハラ”被害であろう。「センスあるねえ」と思う。このなんとなく個々人が抱いていた「かっちりしているなあ」という集合的無意識、上澄みとも言える部分を、昨今の”〇〇ハラスメント”ブームに落とし込んだんだからすごい。きっと自分よりも、その集合的無意識に対するアンテナがバリ3なのだろう。非常に羨ましい。ただ、この行為自体には功罪が付きまとう。最近量産される〇〇ハラスメントという言葉を全般聞いていてどうしても感じてしまうのが、陳腐さ、である。陳腐だなあと。メディアでも一定層からの共感を得られるからか、はたまた視聴率、再生回数を取れるからかわからないが、こうやって生成されたハラスメントを妙に囃し立てる。これによってハラスメントへのリテラシーやハラスメントをしている側への内省を促せるかもしれない可能性が生まれたことは、ここにおける”功”であると思っている。だが、何でもかんでも言葉にすると、それが蔓延して一気にチープになるなとも思う。
自称ADHDの人間がネットにちらほら散見される。これだってADHDという特性自体への認知は深まった点で”功”と言えるが、自称する人間が増えたせいで、本当にADHDと診断されて真剣に悩んでいる人が蔑ろにされかねないかとも思う。ADHDの要素としてよく言われているのが、天才肌の人が多いと。アインシュタインもADHDだったよと。あとは一つの物事に対する集中力がものすごいとか。そういった要素だけ抜き出してADHDを名乗ることによって、自分がまるで天才肌であることを暗に示すような下心を感じざるを得ないのは、小生の意地悪な見方であろうか。#ADHD的なものに陳腐化されている気がする。自分を脚色(タグ付け)する一つの道具というような感じだ。おそらくだが、本当にADHDと診断されて悩んでいる人は自称することなんてないし、ADHDの自覚すらまだしていない可能性の方があるくない?自称している人の低く見積もっても、70%はてんぷらなんじゃあねえのかなと思ってしまう。というようなことを私に思わせている時点で”罪”だと思う。私が辿り着く答えなんだから、おそらくおんなじことを感じてしまっている人は少なくはないはずだ。言葉にして記号化してしまうこと、抽象化すると、よりみんなが気軽に使えてしまう道具に変換してしまうことは、陳腐化を招いている気がしてならない。そして、そうやって人間が簡単に扱える道具になってしまったからには、その言葉の本来の意味だったり誕生背景が不透明なまま一人歩きして、人々の思考停止的思考を引き出すことを免れない。言葉だけが一人歩きしてしまっていて、人間がそのリードに繋がれているような、本来道具として用いていた言葉に思考の主導権を握られているような気がしてたまらないのだ。世に跳梁跋扈している”蛙化現象”だって、今では本来の意味とは全く別の用法で陳腐化されている。そしてそれと同じものを”〇〇ハラスメント”ブームには感じてしまう。要はパッケージングの成功ってことやね。
今調べたけど、言語化ハラスメントという言葉はまだあんまり流通していないのかな。なんか身の回りで聞いた気はするけれど。ただ最近、「言語化しろ」的な外圧が高いのは間違いないと思う。言語化をする様子を見ることで、その人の論理性を推し量る目線は非常に短絡的だ。論理というものは人によって過程が異なる。自分が全く合理的ではないと思うことも、その人にとっては合理性があるように、人が思う論理に画一性や最適解はない。たまたま言語という道具が世間で流通していて、たまたま言語化するのが上手かっただけであるのにも関わらず、人に言語化を求めるのは胡座を二重も三重もかいている態度ではないか。絵を通じて他者とコミュニケーションをとる社会に一度変貌した時に一気にマイノリティーになるぞと。そんな社会が到来した暁には、「ビジュアル化しましょう」的なノリのハウツー系自己啓発本が増えそうだなあ。
この言語化をせよという外圧が、メディアでハラスメントとして囃し立てられ始めたら非常に面白い。そういったまだ言語化されていない外圧の負荷を見事に言語化してブームに落とし込んでいることになるからだ。言語化ハラスメントを抑制するために、”それによる外圧の負荷という抽象概念”を言語化している。ミイラ取りがミイラになる的な。早く台頭してこい!
私もここで一つ提唱したいなと思ったのが「私のどこが好き?ハラスメント」だ。こんな記事を読んでくれている人たちに向けて、うちうちのヒソヒソ話として聞いてもらいたいのだが、今日はこんな事例があった。まあアベックなら一度はするような小っ恥ずかしい話ではあるのだが、まさしく「私のどこが好き?」というようなコミュニケーションの交換である。ただこれに対して毎回思うのが、どこが好きというより、もう存在自体が尊くて”どこが”の領域に収まり切らないのだ。すごい惚気話みたいで早く終わらせてしまいたいのだが、実際そうではないでしょうか///
好きという気持ちを表現しようとした時に、相場は好きか大好きか愛してるの3種類だろうのと似たような問題で、好きという状態に含まれている伝わり切らないさまざまな感情を、一緒くたに伝える表現技法が無いことの不自由さに加え、さらに”どこが”という話でも無いのに具体性を求められる。具体性が伴っていなければ、「ちゃんと考えていないのね」みたいな、こっちの気持ちが軽いみたいな受け取られ方をされかねないのが落とし穴すぎるだろ!これもうハラスメントでいいよね!!??という話だ。先述した事例のように、全て具体化(言語化)することほど陳腐さを感じさせることあらず、の考え方なので、いつも当たり障りのないことを言ってしまっている気がする。この態度もなんだか誠実じゃないし煮え切らない。ちょっと大袈裟な話にしてしまいました。ハラスメントを受けている自覚はなく、ただこんな会話が生まれるのも幸せな話だよね。私はそう思います。ただこのまま終わらせると本当にただの惚気話になってしまうのでまとめると、何よりもまず、世の中に流通している言葉に、個人的な考えの過程も踏まずにただ乗りするなよと。それを踏まえた上で、安っぽくするなよと。何でもかんでもパッケージングして商用化するなよと言いたい。個人的に秘めたる思いは、言葉にせずとも密やかに胸にしまっておきたい。それが好意だろうと憎悪だろうと、大事に秘めておきたいなと、思いました。ということで一旦「私のどこが好き?ハラスメント」の起源主張でもツイートしてこよう。文末に句点を打って。