「インデペンデンス・デイ」 2024/11/7の日記
異星人が地球に来襲。絶滅の危機にさらされた人類の戦いが始まる。ディズニープラスの2ヶ月無料キャンペーンで、彼女と映画"インサイド・ヘッド"を観ようという話がでてここ数週間、お互い忙殺されていたので、今日こそはと焦って観なきゃ!と、ただ予定はいつだって未定であり、今日も忙しそうだった彼女には申し訳ないが、今日は打って変わって"インデペンデンス・デイ"です。
車の整備士として働いているシルバーバック、もとい中学の頃の同級生と、具のない味噌汁のような法学部のお友達の計3人で、夜の公園を所有しているようなあの感じに浸っていた。その時に話題になったのが、もう兎にも角にも仕事がきついと。週6で勤務しているらしく、聞くに年末も仕事はかさむらしいことがこの時点で既に確約されている、という話になった。何を話したか詳らかには覚えてはいないが、公園にあったシーソーを使って、今の経済格差を体で実感する試みをしたことを、今回この映画を見ることで、ふと思い出された。体重47キロの自分には、お互いシーソーの端っこに座った時に、推定重量70キロのシルバーバックには到底重さで敵わないので、シーソーはあちら側に傾いてしまう。シーソーそのものが経済であり、その傾きが経済格差で、より傾いている方が高所得者だと定義した場合、均衡を保つためには、自分自身が経済能力をつける(ここでいうところの、体重をつける)もしくは、シルバーバックが譲歩する(ここでいうところの、シーソーに座る位置を端から手前にする)である。均衡と一口に言ってもこれまた難儀で、もし小生が体重をつけすぎて、なお端っこに座ることを頑なに譲らなかった場合や、シルバーバックが譲歩しすぎて、こちら側に傾きすぎてしまう場合。シルバーバックがそもそもよりより体重をつけた場合などで、現状を維持することは、シーソーにまたがっている二人ですら厳しい話であると。そもそも、お金をたくさん有することができた暁には、シーソーの端っこに胡座をかいて座ってしまうのが、まあ人間なら誰しもそうなるんじゃないかって。あんまり自発的に譲歩を促す姿勢も、何も努力をしていない人間のおこがましさでもある、要するに求めすぎだ。さらに言えばシーソー1つでは風刺し切れない諸問題が実社会にはたくさん点在していることであろう。そこで皆さん忘れかけていた、具のない味噌汁の存在である。
”インデペンデンス・デイ"よかったなあ。某カードゲームに出てきた、”サテライトインベーダー”を彷彿とさせる宇宙船が、ホワイトハウスを一撃で木っ端微塵!である。瞬く間に焦土と化していた。1996年代の映画ですって、意外と最近なんだなあと思いつつ、当時のCG技術に驚く。また、オカルト好きなら聞き馴染みがあるであろう「エリア51」の存在も、フェイクではなく映画では大統領も知らなかった機密事項として存在し、ちゃんと物語に絡んできたのがウキウキポイントだ。年代的に第二次世界大戦が終戦した後の話で、アメリカの核爆弾への熟慮が鑑みれた、別で今年上映していた映画"オッペンハイマー"でも核爆弾が出てきたが、馬鹿正直な時系列で考えるのであれば、この映画の方が後ということになる。もちろん繋がりがあるとは言わないが、核爆弾への認識が両者で多少変化があり面白い。最後の最後まで戦争のリスクを配慮して、核の使用の決断を渋っていた。あの場面での大統領の演技は、ほんの一瞬のシーンではあるが、心の中の逡巡がよく表現されていて新鮮に驚く。序盤にさりげなくスポットライトが当てられている人間たちが、それぞれ同じ時間軸でも、別の場所で同じ目標に対し、それぞれ別のアプローチをかけていて、最終的には合流する。もうわかりやすい胸熱な展開維持で、"こういうのでいいんだよ"と言わされた。中盤に出てくるPeace(和平)と、終盤に出てくるPeace(ハンドサイン)でかけて締めてくるあの演出は憎いぞ!ともかくハッピーエンドで良かったなあと思いつつ、その背景には凄惨な光景と多数の犠牲のもとで迎える”真・独立記念日”が「でも手放しで喜んじゃいけないよなあ」と思わせてきた。規模がでかいことをやっているから当たり前か。大統領がいわゆる”お飾り”ではなく、ちゃんと物語の最後で貢献するところも個人的に推しポイントです。結婚式のシーンも良かった。あんな結婚式もなかなかないでしょう、シリアスな雰囲気で挙式する、余裕あふれた行動なのか、験担ぎなのか、どちらにせよ良い!ちゅきですね。SFはいいよなあ、”メッセージ”とか”インターステラー”とか好きだし、宇宙とかエイリアンが好きなのかね。驚くことにこの映画、物語内ではたった三日のことにすぎない。それを2時間半の長尺で描いたんだからそら密度も濃くなるわな。”ムジュラの仮面”を感じざるを得ない、三日で、しかも初見プレイで人類滅亡の危機から脱したかと思うと、あのゲームをやったことのある人間ならより一層驚くんじゃあないかな。相変わらず今日も月は綺麗で良かった〜。
あのシーソーの日に出した、経済格差問題を解決するための手法は、”地球に住む人類よりもはるかに上位の存在による経済的大打撃”であった。この映画で核の使用を渋っていた背景としては、”近隣諸国が自国の真似をして核兵器を使用するかもしれない懸念”ひいては”世界大戦が再び勃発してしまうことの可能性”だと、個人的には解釈した。核爆弾を主とした軍事力がそのまま他国への牽制につながる。核を所有していない国は軍事力的に不利になるため、そのまま外交でも不利となってしまう、”裏に核爆弾がちらつく”ということだろう。まさしく映画”オッペンハイマー”で危惧されていた未来でありながら、また我々が生きる実社会の現状であろう。だがこの映画、最終局面ではアメリカの軍事力の85%がダウンしてしまっている。それと同時に異星人の侵略がアメリカ本土以外でも全国で、同時多発的に行われていることが発覚する。そこでアメリカは異星人への、あのドラスティックすぎる対策案を、モールス信号で他国と交信し、軍事力の連携を図った。わーくに日本も10秒くらい出てきて、コテコテの日本人像すぎて思わず笑ったけど(微笑)交信を図っている。他国との外交がどうこうではなく、今は世界が一丸となって異星人に対処すべきであると判断が下されたのである。言わずもがな、異星人の侵略がきっかけとなり人類は”真・独立記念日を迎えた”これは経済格差問題にも置き換えられないだろうか。お金を溜め込む高所得者(仮)と、不平不満だけは述べて行動が伴っていない低所得者(仮)が自発的に行動する場合を考えた時、両者共通の仮想敵に向かい、一致団結するところから始まるのではないかと考えた。それが経済そのものの枠組みすらとことん破壊するような、第三者によるパラダイムシフトが行われた時、スクラップアンドビルド的な、瘡蓋を作るようにして再びフラットな経済が幕を開けるのではないか。まさしく”真・経済独立記念日”である。
あの日は最終的に具のない味噌汁でお馴染みの彼が、法学部でありながらも第三者として、シーソーをことごとく木っ端微塵にして、あの日は解散となりました。