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妊娠高血圧症腎症を発症した妊婦の出産レポ

すでに出産から数ヶ月経過してしまっているが、後から見返せるよう出産の経緯を書き留めておきたいと思う。

過去にも少し記事を書いたが、私は卵子凍結(正確には受精卵凍結)を行っていた。キャリアとの兼ね合いで出産が高齢になるだろうと思っていたため、30代前半で念のため行っておいた。結局それほど大事にするほどのキャリアにもならなかったし、またちょっとした心境の変化なんかもあって、予定より早くその受精卵を融解して妊娠を試みた。これが幸運なことに、とても順調に事が進んで無事に先日出産することができた。

今でこそ無事に出産をしたと言えるが、タイトルの通り妊娠高血圧腎症というものを発症し、なんとなくイメージしていた出産とはまるで異なる出産となった。よく、出産の痛みは忘れる、子の可愛さで吹き飛ぶ、というような話を聞くが、私の場合は子の可愛さと、出産の辛さは別の引き出しにしまっているような感覚だ。別々にしまっているので、相殺されることはない。ちゃんと「本当に辛かった」という記憶としてしまっている。

安定した妊婦生活

本当に、とても健康な妊婦だった。つわりもなく、お腹が大きくなってきてからも腰痛で悩むようなこともなかった。妊娠前と同じように働き、食事をし(もちろんカフェインや生ものは控えていたが)、なんら不自由のない日々を過ごせていた。少しそれが誇らしいというか、周りの人に「つわりもないし、妊娠前と変わらず生活できているんですよ。なのでお気遣いなく」と言うのはなんだか気分の良いものだった。

体調はこんなに安定しているのに、お腹は大きいのでやはり各所で優遇される。公共交通機関では見ず知らずの人に席を譲ってもらい、同僚には気遣ってもらい、友人たちからも「大事な身体なんだから」などと言ってもらえる。自分は特別な存在なのだ、と感じられた。それもとても気分の良いものだった。

なので私の中で、妊娠期間に特別嫌な思い出はない。ここまでこんなにラッキーな状態で来ているので、心のどこかで、このまま出産も安産で「いや〜ありがたいことに超安産でしたわ〜」と報告している自分を想像していた。一方で、ここまで順調すぎるので最後の最後大変なことになるのではないか、そうでもないと帳尻が合わないのではないか、という思いもあった。残念なことに、後者となった。

34週の妊婦健診で突然・・・

妊娠後期になるにつれ、体重増加が加速してきた。足もだいぶむくんできた。ただググると妊娠後期とはそういうものだと至る所に書いてあり、全く心配していなかった。そんな矢先の妊婦健診で、血圧がいつもより少し高い数値が出たが、血圧に無関心だった私は、フーンこの時期ってそういうもんなのかな、などと思って診察室へ入って行った。

すると先生からおもむろに、「妊娠高血圧症候群とは」と書かれた資料を手渡され、シリアスな表情でその病状について説明された。それでも私は楽観的だった。なぜなら、血圧の数値が悪いだけで私自身に何も自覚症状がないからだ。別に、先生の言うような頭痛もないし、目の前がチカチカするようなこともない。先生から、毎日血圧を測り、上の血圧が130を2回超えたら病院へ電話をするよう言われた。

それでもまだ楽観的な私は、6,000円もする血圧計を買う羽目になったことを恨みながら帰路につき、その日から血圧を測り始めた。産休に入ったばかりで暇だったので、朝夕まじめに測った。
毎日測ってみると、130を超えたり超えなかったりしていて、実は3回くらい超えてしまってようやく「仕方ない、面倒くさいが病院に電話するか」と電話をかけた。すると「今すぐ病院に来てください。たぶんそのまま入院になりますので、まずはお一人で病院に来てもらって、ご家族に追って入院の荷物を持ってきてもらってください」とのこと。

は??????

今、オーブンでスイートポテトを焼いている最中なのですが?????
(産休を満喫中)

入院ったって普通に分娩するつもりの入院バッグしか準備していないし、夫はその日に限って出社していて家に居ない。今すぐ入院ってそんな大袈裟な。いや、私が楽観的すぎただけで実は結構まずい状況なのか…?といろんな思いがぐるぐるしながら、とりあえず入院の荷物をまとめ、最低限の身支度を整えてタクシーを呼んだ。タクシーの中で夫にもLINEして、テンパリ気味に、追って荷物持ってきてもらわないといけないかもしれない、と送った。

鼻息荒く病院に駆け込み受付を済ますと、そこから結構待たされた。待たされるということは緊急性は高くないんじゃないか?と思えてきて、少し気持ちが鎮まってきた。予約患者がひと段落したところで私が呼ばれて、いつもとは違う女性の先生に「残念だけど、これから管理入院だね。でも今日一人で来たんでしょ?準備もまだでしょ?今日は一旦帰っていいから、明日朝イチでの入院にしましょう」と言われた。入院まで半日程度の猶予ができてほっとしたものの、先生の「おそらくそのまま出産となる」という言葉がまた頭をぐるぐる駆け巡っていた。だって、予定日まであと1ヶ月強あるのだ。1ヶ月も入院することになるのか?それとも・・・?

辛い入院生活の始まり

とりあえずまたタクシーを飛ばして自宅に帰り、ある程度長期入院になるかもしれないということで、部屋中を掃除して入院準備を整えた。最後の晩餐だから、でも気持ちが昂ってて何も思いつけず、いつも通り駅前のビルのレストランフロアで食事を済ませた。アイスクリームも買って帰ったと思う。淡々とやることをこなすも、突然駒が動き出したような感覚で、なんだか興奮していた。

次の日の朝早く、眠い目をこすりながら入院手続きを済ませ、MFICUという母もしくは子に何か問題がある場合に入院させられるフロアへ案内された。その時点でもまだそこまで深刻さを感じておらず、個室で快適そうな部屋であることに喜んだりしていた。何せ自覚症状がないから元気なのだ。飼い猫と離れて暮らさなければならないことだけが悲しかった。

人生で、初めての入院だった。

入院してからは、病院食の写真を撮ったり、Kindleで漫画を読んだり、呑気に過ごしていた。ところが、入院して1日半くらい過ぎた頃、経験したことのないような頭痛が始まった。ちょっと躊躇したけど、人生初めてのナースコールを鳴らした。助産師から何度も「頭痛などがしたら遠慮なく鳴らしてね」と言われていたからだ。

程なくして、数名の医師が様子を見に来た。頭痛の具合など聞かれて、答えたりした。頭はかなり痛いけど、なんかまだ元気だった。この時はまだ気力があったんだと思う。処方してもらった鎮痛剤で頭痛はすぐおさまったのだが、ここから降圧剤の点滴が始まった。これがなかなかに辛かった。点滴を打っている間は、目の前がぐわんぐわん歪むような眩暈と、足に力が入らなくなるような感じで一人で歩くのが怖い。横になっている以外、何をしていてもしんどい。シャワーの間すらこの点滴は外すことが許されない。この点滴は結局産後まで続くのだが、その間何度も「いつこの点滴は終わりますか???」と助産師に聞いてしまった。

これ以外にもこのあといくつもの点滴を入れるが、退院前に全ての点滴が抜けた時、抜いてくれた助産師が「お疲れさまでした」と腕をなでてくれた。淡々としたベテラン助産師で、あまり笑顔など見せたりしない人だったが、あ…私のしんどさをわかってくれていたんだ…となんだか泣きそうになった。深夜の暗い病室に助産師とふたりきり、そんなやりとりがあったことが今も心に残っている。

恐怖のお産のフルコース

妊娠高血圧症候群の唯一の対処法は、妊娠の終了、つまり出産することだと言われている。なので医師から、産むまで退院できないと思ってください、と言われた。突然の、産むまで帰れまテン状態。
(こういう時、頭では事態を理解しているんだけど、振り返ってみると気持ちがついていっていなかったように思う。)

医師が毎朝「回診」に部屋を訪ねてくる。3人でくることもあれば10人近くぞろぞろと来ることもあった。また時間もまちまちで、食事をしている時もあれば歯磨きしている時もあって、朝は気が休まらない。
その回診で、先生から上記の通り産むまで帰れまテンの始まりを告げられ、まずは子宮口を広げる処置を始めましょうと言われた。いわゆるラミナリアのことなのだが、その説明として先生は「木の棒のようなものを子宮口に入れる」と言った。

木?????木を子宮口に?????

容易に、激痛が予想される。嫌すぎる。先生たちがぞろぞろと退室した矢先から、その処置をするまでずっとスマホで検索をしていた。木の棒を入れる処置など検索しても出てこなかった。ラミナリアは海藻でできたものだそうで、形状が木の棒のようであるだけで、木ではない。でも確かに先生は木の棒を入れると言っていたような…。不安が拭えないままに、処置の時間が来た。

結果木ではなかったが(当たり前である)、普通に痛かった。2回に分けて行ったが、1回目はまだよかった。3本程度入れただけだったからかもしれない。2回目は8本だか10本だか入れたと言っていたと思う。これが痛くて痛くて、足が震えてしまった。震えを先生たちに見られるのが恥ずかしく、処置の間はどうにか震えを止められないかということだけで頭がいっぱいだった。痛みもそうなのだが、何をされているのかがよくわからない恐怖で震えていたように思う。これがちょっとトラウマ的な経験となってしまったため、それ以降も検診台に上がるたびに足が震えるようになってしまった。我ながら随分と気が弱く、情けない。

ラミナリアを入れてしばらく時間をおいて、子宮口の開き具合を見てもらった。先生たちは私を気遣って言葉を選んでいたように思うが、ほとんど効果がなかったようだ。これが本当に辛かった。痛い、怖いを乗り越えた結果、効果なし。この先何をやってもだめだったらどうしよう。そんな不安でいっぱいで、ここから気力も落ちて、体調もぐんと悪くなっていってしまう。

翌日、子宮口を柔らかくするタイプの陣痛促進剤を打つこととなった。同時にバルーンも入れる。子宮口はいまだ開いておらず硬いままだが、とりあえずやってみましょうということだった。これが、ラミナリアとは比ではないくらいに辛い経験となってしまうのだった・・・。

バルーンは、ほとんど覚えていないくらいに、大した痛みではなかった。もちろん異物感、違和感はあるのだけど痛みはなかったように思う。ところが陣痛促進剤を入れてからが地獄の始まりだった。陣痛促進剤なので、うっすらとした陣痛めいたものが始まり、それとともにひどい嘔吐が始まった。私は血圧が高いので降圧剤の点滴も打っている。そもそも目の前がぐわんぐわんに歪むほどの目眩をしながらの嘔吐。そして両腕に点滴を打っていてベッドから動けないので、ベッドの上で吐くしかない。絶食をしているから胃には何もないので胃液だけだと思うが、自分が吐き出した液体が緑色をしていた。ぎょっとした。また、胃から込み上げてくるそのえづきで体力をどんどん消耗し、吐き出す弾みで少量のゆるい便も出てしまっていた。そのため両腕の点滴を引きずり、何度もトイレに行かなければならず(大きなナプキンをしていたので下着は汚さずに済んだ)、そんな状況にメンタルもどんどん落ちていっていた。

それだけでもいっぱいいっぱいなのに、少しずつ陣痛らしきものも訪れていた。まだ本陣痛ではないレベルだったそうだが、私自身あまり生理痛が重くないタイプだったからか、結構痛いと感じた。定期的に助産師が来て、促進剤の量を増やしていくのが恐怖でしかなかった。ただ、もうその時はベッドに横たわることしかできず、辛さを訴えることもできなかった。

私は、我慢強いタイプであると自認していた。なので陣痛も堪えられるのではないかと心のどこかで思っていた。我慢強いところを周りに見せて、強く出産を乗り越えるところを妄想していた。
しかし本陣痛手前でこれほどに痛いとなると、むしろ痛みに弱いタイプだったのかもしれない。そんな風にどんどん自信喪失していった。

そうして限界が近づいている中、助産師が医師に私の状況を伝達してくれたのか先生が病室に来てくれて、促進剤を続けたいかどうかを聞いてくれた。

私に迷いはない。すぐにやめたい。このまま本陣痛が起きてもいきむ体力はもう微塵も残っていない。促進剤を始めてたった6時間程度だったと思う。ネットでいろんなレポを読んでいると、もっと長い時間みんな耐えているようなので、これまた情けない話だが、心の底から限界だと感じていた。
(言い訳をすると、降圧剤やその他点滴・投薬が増えていくにつれて食欲も落ちていた。数日間、ほとんどろくに食べれていなかった。)

先生も無理をするべきじゃないというスタンスだったので、私の返答を聞いて「すぐに促進剤を止めましょう。また明日の処置の方向性を考えて後ほど伝えにきます。」と去っていった。明日がどうなるかはわからないけど、とりあえずこの嘔吐が止まるだけでも本当にほっとした。

簡単には帝王切開にしてもらえないという妄信

夕方夫が面会に来て、その日の死闘を話した。夫の純粋な疑問は「なぜ帝王切開にしてもらえないの?」というもの。私もそうしてもらえるならしてもらいたい。でも連日あらゆることを検索している私は、帝王切開にしてほしいと言っても簡単にしてもらえないことを知っていた。なので、自分から帝王切開にしてくださいなんて言っても無駄だと思っていた。これが大きな過ちだった。

その面会の帰り、夫が、私を担当してくれている医師と会えたので帝王切開にしてもらえないものか?と掛け合ってくれた。それを聞いてすぐに医師が病室を訪ねてきて、「xxさん(私)も帝王切開を希望されていると聞きました。我々医師チームももう帝王切開を提案しようと思っていたところなので、そういうことならすぐにでも帝王切開を行いましょう。」

えっ・・・・そんな簡単に帝王切開に切り替えられるの・・・・?もしかしてもっと早く帝王切開がいいって言ってたらやってもらえた・・・?だとしたらこの数日の私の死闘は・・・

そのとき頭をよぎったのが、最初に妊娠高血圧症候群の話をされた時から帝王切開になる可能性については話をされていて、そこで私はたくさん質問をした。元々私は帝王切開にマイナスのイメージは持っていないし、陣痛が怖かったのでなんなら帝王切開がいいとすら思っていたタイプだ。でも、帝王切開についてほとんど知識を持ち合わせていなかったので、ここぞとばかりにたくさん質問をした。それが「どうにか帝王切開は避けたい患者」に見えていたのではないか…?確かに私から「帝王切開に抵抗はない。必要ならすぐにその判断をしてほしい」というような意思表示をしたことはなかった。それをしていなかったがために、医師は良かれと思ってなんとか経膣分娩ができるよう、試行錯誤してくれたのではないか…?

そんなコミュニケーションミスがあったのかもしれないが、何はともあれ帝王切開が決まった。手術はそれなりに怖いが、安堵の方が勝った。その日の夜は、久しぶりに気持ちが上向いていった。

手術室で感じたこと

夫が相談した先生が、翌日の昼間に手術の予定を捩じ込んでくれた。人生初の手術だ。もう数日飲食をしていなかったが、ようやく物事が前進する喜びで気力が湧いてきていた。

手術というものは、予定通りぴったりの時間に始まるわけではないらしい。前の手術の進捗により、早まったり遅まったりする模様。だいたいこのくらいの時間になったら手術室行くからね〜と助産師から言われていて、そわそわとその時を待った。

目安時間より少し過ぎた頃、声がかかった。ストレッチャーに乗せられ、MFICUを出て手術室へ運ばれていき、途中で助産師から「緊張する?」などと話しかけてもらったところで、自分がまるで緊張していないことに気づいた。ところが手術室に入ったらMFICUとはまたずいぶん違った雰囲気で、新たな人種の医師がたくさん出てきて、きゅっと緊張してきた。

まずは麻酔をかけるところからだが、麻酔科医のプロフェッショナルさには感動した。行動指針というかマニュアルのようなものがあるのだろうが、患者の不安を正しく取り除くスキルのようなものを感じた。医師なので頭脳明晰であることは間違いないが、同時に体育会系の雰囲気もあり、自信に満ちて迷いのないその動きにすっかり魅了されてしまった。それに比べて、自分はなんて生ぬるい仕事をしているのだろう…。

すっかり麻酔が効いて痛くも痒くもない私は、医療従事者たちのすばらしさに感動していた。そんなことを思っているうちに、あっという間に子が取り出された。すぐに泣き声もあげてくれたので、それを聞いて私はようやく山を越えたのだと、何もかもうまくいったのだと実感がぶわっと襲ってきて涙が出た。すると、頭の近くで寄り添ってくれていた麻酔科医と看護師が「安心しましたね。お母さんずっと不安でしたね。でもこれでもう大丈夫ですよ」と言いながら、とめどなく流れる涙を拭ってくれた。

助産師からは、手術室で子を見られるかどうかわからないと言われていたが、子の状態が安定していたからか顔の近くにつれてきてくれた。本当に私のお腹の中に、人間の子供が入っていたんだ…というような驚きを感じた。妙に冷静に、そう思った。まだその時点では子に親しみを感じられるほどではなく、とにかく山場を越えたのだという安堵でいっぱいだった。

子は、そのままNICUへ連れられていった。

術後のトラブル

満身創痍でストレッチャーで運ばれて病室へ戻った。まだ降圧剤も入れているし、体調が全快になるわけでは全くないのだけれど、身体というか心が軽くなって帰ってきた感じがした。
ストレッチャーに乗せられたまま、病室に帰る途中夫と面会できた。感動の面会という感じでもなかったが、元気な顔を見せることができた。しかし、夫の蚊帳の外感は否めない。出産は、完全に私と子のストーリーという感じで夫ももどかしい思いをしていたようだったが、こればっかりは仕方ない。

病室に戻ってからもまだ麻酔も効いているので、産褥パッドの交換やら何やらを助産師にやってもらっているわけだが、どうやら部屋に帰ってきてすぐに私は結構な量の出血をしたらしい。助産師がそれに気づいたと同時に、大量出血のため私は貧血を起こし、あっという間に目の前が白んでいった。

気づいたらまたさっきとは違う手術室にいた。ひどい貧血のような状態で、看護師に聞かれたことに答えるのもままならなかった。とにかく気持ち悪い、吐きそう、とばかり言っていたように思う。

どうも、出血というか溜まり血のようなものがどばっと出てしまったようだった。この際溜まり血を全部出してしまおうというような会話がなされていたのと薄ぼんやりと覚えている。先生が捕まらないとかそういうことも話されていたような気がする。その後医師が来たのかどうかもよくわからないが(貧血で、周りの人の声も遠くに聞こえているような状態だった)、その溜まり血を出すために、切ったばかりのお腹をぐんぐん押されて激痛が走った。身体をよじり、痛い、痛い、と騒いでしまった。悲痛な自分の声が手術室に響いていて、それがまた辛さを増幅させた。どのくらいその時間が続いたかもよくわからないが、とても我慢できるレベルではなかった。

なんとか出血が止まって、溜まり血も出しきれたようで、少しずつ手術室から人が減っていった。逆に、見覚えのある先生が入ってきて、輸血をする必要があるという説明を受けた。輸血が始まると、だいぶ気持ちにも余裕が出てきてスマホを見た。確か帝王切開が13時頃だったはずだが、すでに20時を回っていた。そこから、輸血を終えて病室に戻ったのは23時を過ぎた頃だった。長い、長い1日となった。

正直、この間子供のことを考える余裕がなかった。NICUでの手続きや医師とのやりとりは夫に任せっきりで、私はとにかく自分のことで精一杯だった。

その後、帝王切開の傷の痛みはほとんど感じなかった。いや、痛みはあったし立ち上がるのも一苦労だったが、それまでが色々と辛かったせいか十分堪えられるレベルだった。MFICUから普通の病棟に移れたのも、前進していることが感じられてうれしかった(個室から大部屋になったが、それでも)。

普通の病棟に移ってからも、子宮付近のどこかが炎症を起こして高熱も出したりして少し落ち込んだが、それまでの辛さに比べれば堪えられるものだった。大部屋だったので、隣の人が元気そうなのがわかり、それに比べて私はトラブル続きだ・・・などとちょっと気持ちが落ちたりはしたのだが。

(母乳関連の話で、この間に胸の激痛もあって辛かったがそれまで書くと膨大になってしまうので、割愛する。本当に出産は痛みの連続だ。)

退院

待ちに待った退院の日がきた。数日前に血液検査の結果次第で退院できると言われ、その時食い気味に「検査結果が出たその日に退院できますか」などと聞いた。そのくらいに、半日でも早く退院したかった。

熱を出したあとは、みるみる体調が良くなっていった。どんどん歩けるようになり、食欲も戻ってきて、そうなってくると、早く家に帰って「通常」に戻りたい気持ちが高まってくる。小さなことばかりだが、たとえば、いつも使っているシャンプーで髪を洗いたい、いつものドライヤー、いつものスキンケア、いつもの枕、いつもの、いつもの・・・。あと何より、血圧の抑制のため食事も完全な管理下に置かれていたので、早くお菓子やコーヒーを自由に摂取したかった。自分にこういう欲求が芽生えてきたことが嬉しかった。数日前まではベッドに横になって、少しでも痛みから解放されたいという思いしかなく、スキンケアやドライヤーのメーカーなんてどうだってよかった。

血液検査の結果は午前中に出て、鼻息荒く午後に退院したいと懇願した。子をINCUに残して退院するのは忍びなかったが、自分が万全な状態になってから迎えに来るのも悪くないな、などと思っていた。最後NICUへ行って子に挨拶をし、助産師たちにお礼を言って、一人タクシーに乗り込み自宅へ戻った。タクシーの中でUber Eatsのアプリを開き、スターバックスラテを注文した。退院した実感が湧いてきて、興奮してまた血圧があがりそうだった。

2週間ほどの入院で、何人もの助産師にお世話になり、医師チームの皆さんにも大変にお世話になった。だが退院時は呆気ないもので、みなさんにお礼を言って回れるような感じではなかった(皆さんそんな暇じゃない)。その後、2週間検診や産褥検診など数回病院へ行く機会もあったが、世話になった人に2度と会えることはなかった。そういうものなのだろうが、なんだか寂しい気持ちになる。

最後に

結局子はそこから1ヶ月程度入院することになってしまい、毎日炎天下の中バスで病院に通うこととなるのだが、今は無事に退院し自宅での育児に奮闘している。

すべてが終わってみて思うのは、自分の血圧の病気のせいで、普通より早くお腹から外に出されてしまった、さらには通常の出方ではなく帝王切開という形で取り出された子に対してかわいそうという気持ち。もっとお腹の中にいたかっただろうに。NICUでの生活が長引き、寂しい思いをさせたし、産道を通るという経験もさせられなかった。

ただ子はそんなことは意に介さず、毎日元気に母乳を飲み、寝て、たまに笑顔も見せ、ぐんぐん体重を増やしている。健康状態に問題もなく、成長の過程も極めて順調だ。

妊婦の数だけ出産のパターンがあるということを、身をもって経験した。冒頭に書いた通り、辛かった経験として子の可愛さとは別の引き出しにしまってあるものの、日々の忙しさで忘れていってしまうこともあろうかと思うので書き留めた。

また、私自身入院中、不安をかき消すために四六時中この病気のことを検索した。色んな人の体験談を読んでは励まされ、心の安寧に繋がった。自身の経験がそんな風に誰かの役に立てばとの思いで、記憶を手繰り、書き出した次第だ。

もし今この病気の方が読んでくださっていたら、必ず終わりが来るし、先生の言う通り、産めばみるみる快方に向かうのでそれを信じてほしい。私はむくみで結局18kgも増えたが、産んで2週間の間に16kg落ちた。血圧もあっという間にいつも通りの数値に戻った。

乗り越えた先に、かわいい我が子との楽しい生活が待っているし、入院が辛ければ辛いほど、何気ない日常のありがたさが増す。退院して数ヶ月経った今もまだ、家で元気に過ごせることを嬉しく思う。

同じ病気を経験した者として、あなたが無事にご出産されることを心より祈っています。

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