noteを更新しなくなって一か月がたって思うこと
noteを更新しなくなって一か月がたっていた。
始めた当初は不定期でありながらも週に一本は投稿していた。
しかし、こうも間隔があくと次の投稿のハードルが自分の中で勝手に高くなってしまう。
書いては消す。
この繰り返しを何回したことだろう。
とりあえず書き始めてみるけれど、自分の中でいまいちピンとこない。
次の言葉が続かずキーボードをたたく手も止まってしまう。
ついには書いていた文字を全消去してnoteの閉じるボタンを押し、なかったことにしてしまう始末だ。
どうして消してしまうのか。
たとえ満足いかなくても、私から生まれた言葉というのに変わりないのに。
ピンとこないのは来ないままでも書き続ければ何かしら生まれるのではないのか。
文字をすべて消すことは、その機会をも自分で消しているのと同義ではないか。
バックスペースキーを押しながら、消えていく言葉たちに申し訳なさを感じてしまう。
noteを始めた理由はnoteの数だけあるだろう。
日常をつづる人、自分のすきを発信する人、自身が学んだ知識をアウトプットの場として活用する人、誰かとつながりたい人─。
なんでもいい、入り口は自由だ。
私の場合、なんとなく始めてみたけれど、そのなんとなくを辿っていくと
「自分の存在を確かめたかったから」と「誰かとのつながりを感じたいから」いう理由が根本にある気がする。
私は自分がわからない。
生まれてから一番長い時間を共有しているはずなのに知らないことが多すぎる。
私は何を感じ、何に興味をもち、何を考えているのか。
好きな音楽や本といった要素ではなく、もっと曖昧で抽象的だけども根本的な何か。
そういうものを探したいと思った。
自分の存在を確かめるためだけに書くのなら、何も公の場であるnoteをつかわなくてもいい。だけどこうしてnoteを使って書いているのは、やっぱりどこかで他者とのつながりを求めているからだ。投稿した記事にいいねやコメントがつくと堪らなく嬉しいし、いいねを押してくれた人が投稿した記事をのぞきにいくのも面白い。
投稿した記事に一喜一憂し、もっとたくさんのひとと繋がれるような記事を書きたいと思ってしまう。
だけどここで気づいてしまった。
いつの間にか順序がひっくり返ってしまっていたことに。
自分の考えを書く云々よりもその先にある読者のほうに気持ちが傾いてしまった。
もちろん発信する以上、その受け手である読者を意識して文章を書くことも大切だ。
しかし必要以上に気にして、自分の言葉を紡げないようでは本末転倒だ。
発信しない限りは何も生まれない。
だからもう一度書いてみよう。
必要以上に飾らなくていい。
言葉を思うように紡げないでいる自分も私だ。
それを否定したくない。
そう思うことができたのも、投稿できなかったこの約一か月間のおかげだ。
また、ここから始めていきたい。
確かめることを、つながることを。