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強すぎる薩摩のキセル

私が今関心を寄せているものに阿多張アタバリキセルがあります。
鹿児島県南さつま市の金峰町阿多地域で作っていたことから、阿多張キセルと呼ばれています。
因みに、煙管業界では煙管を作る事を”張”と言い、何処で作ったとか、誰が作ったという意味合いで「〇〇張煙管」と名付けられます。私の屋号である「六張」も陸=六が張った煙管という様に、この慣用に倣っています。

さて、阿多張キセルの歴史を少し紹介しましょう。
昭和38年(1963)に刊行された『金峰郷土史 第1集』によれば、寛政年間(1789〜1800)に安留市兵衛なる人物が、商用で訪れた長崎でオランダ人から煙管の製法を伝授され、隣村の伊作いざくの鉄砲鍛冶西田某から真鍮の鍛え方を習って阿多張キセルの製作技術を確立したと伝えられています。なぜパイプ喫煙が主流のオランダ人が煙管の製法を知っていたのかは疑問ですがこれが通説となっているようです。また、坊津あたりから直接伝わった(職人が移り住んだ?)とする説もあるようです。その後、弟子の安田畩次郎・爲助親子と続いて安藤伝蔵、安楽藤兵衛、安藤伊太郎、安田才二、中村保、御立田雅、中村仟らによって200年近く阿多地域で受け継がれてきました。
阿多張キセルは戦前から戦後4、5年にかけて九州一帯で村田張に比肩して人気だったそうですが、平成7年に最後の伝承者中村仟氏が亡くなったことで技術が途絶えてしまいました。

私の住む燕もほぼ同じ頃の明和年間(1764~1772)に住吉張りが、安永年間(1772~1781)には会津経由で村田張の煙管製作技法が伝わったとされています。なので燕の煙管は私の見た限りでは江戸の煙管とそう大差無いように見えます。
他方で阿多張キセルの系譜についてはよく分かりませんが、実際に煙管を見てみると、江戸の系譜と異なった点が多々見られます。

阿多張キセルの形の一つ「金棹」(筆者蔵)

写真は私の所有する阿多張キセルです。いずれも、総金属製の延煙管で「金棹かなざお」と呼ばれる型です。素材は真鍮がほとんどですが、白銅や銀が使われる場合もあります。
一見して分かるように、雁首以外は曲線を排した非常に直線的なフォルム(写真下の一本は変形で曲がっている)です。装飾もなく、厚手で重量があります。さらに仔細な点では、火皿の成型方法や溶接方法が江戸の煙管と大きく異なっています。

私の阿多張キセルに対する印象は「無骨」や「朴訥」なのですが、みなさんにはどう見えるでしょうか?
私の印象から阿多張キセルを特徴付けるとすれば”「粋」とは違う価値観で作られている”です。

私もポジティブな意味で「粋」という言葉をよく掛けてもらいます。嬉しいのですが、一方で煙管=粋のような固定観念に従って、自動的に「粋」という言葉が出ているだけなんじゃないか、とも思うことがあります。これはその人の語彙の問題以上に、「煙管」=「粋」のイメージがあまりにも強固な物になってしまっているのではないかと考えています。

「粋」が九鬼周造の言う様な、緊張とか危うさを伴う美意識であったとすれば、阿多張キセルは物質として強すぎる感があります。
「粋」じゃない阿多張キセルだからこそ、現代の「煙管」=「粋」の強固なイメージを解してくれるのではと考えています。

反粋論者だと思われるかもしれませんが、逆説的に「粋」本来の危うさや不安定さを取り戻すことになるのでは、とも最近考えています。

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