アドコム・メディアは今年創立60周年 ―設立当時と,展示会事業のはじまりについて―
弊社アドコム・メディアは「画像センシング展」「国際画像機器展」など,ニッチでコアな技術を扱う展示会を開催したり,光と画像の情報誌「O plus E」(現在印刷版は休刊中)を発行する出版社であり,さらに「画像センシング技術研究会」や「精密工学会画像応用技術専門委員会」をはじめとした学協会の事務局代行に携わる会社です。創業以来ずっと,光と画像の技術に特化したビジネスを展開しています。
今年創立60周年を迎えるにあたり,その歴史について記そうと思ったのですが,驚くくらい資料が残っていないのです。そのため,現状保管している資料からわかる範囲で,会社と,展示会事業を始めたきっかけを記していこうと思います。
精機学会(現在の精密工学会)の業務からスタートした「精機通信社」
弊社を創業した松下 要(もとむ)はかつて工業技術院機械試験所(現在の産総研)に籍を置き,図書室の主任などをしていたようです(OplusE 2017年9月号,私の発言より)。その後,金属関係の出版社で勤務したり,どういうわけか俳優(!)も経験していたようで,俳優の西村晃の奥様とお知り合いだったという説も(OplusE 2019年5・6月号,OFF-SIDEより)。西村晃は昭和に人気のあったテレビ時代劇「水戸黄門」の主役を務めた俳優です。
その松下さんが,精機学会(現在の精密工学会)の編集・広告業務を担当する「精機通信社」を設立したのが60年前,1964(昭和39)年4月でした。
会社設立の経緯については,すでに松下さんは鬼籍に入り,当時の社員もおらず,資料もほとんどありません。ただ,設立時は東京大学に近い,文京区本郷4丁目に事務所を構えた記録が残っています。
かつては土木の雑誌を発行していたことも
弊社に唯一残る会社案内(上の写真)によると,設立から6年後の1970(昭和45)年に技術月刊誌『トンネルと地下』を発行しています。弊社は書籍『光の鉛筆』や光と画像の技術誌『O plus E』など,光や画像に特化した企業と思っていたのですが,O plus Eよりも前,最初に発行した雑誌が土木系とは少し意外でした。
余談ですが,『トンネルと地下』は日本トンネル技術協会誌として,今も「土木工学社」から発行され,土木関係者にご愛読いただいている雑誌です。もしかしたら,「土木工学社」の会社を設立した時に精機通信社と土木工学社を分けたのかもしれませんが,それも想像の域を越えません。
なお,松下さんは「土木工学社」の設立と同時に弊社の事務所を本郷から新宿区の百人町に移していることが会社案内からわかりました。どうやら弊社は現在まで百人町2丁目の中で2回引っ越しをしているようです。1980年代当時は韓流ブームなどはなく,百人町(大久保駅周辺)のまちも今とは少し違う雰囲気だったのかもしれません。
展示会のきっかけは,写真と画像関係の国際会議
さて,精機学会事務局業務の一部を請け負っていた弊社は,やがて展示会運営にかかわるようになります。きっかけは1978(昭和53)年に開催された「国際画像計測機器展」,現在の「国際画像機器展」でした。
パンフレットにあるように,この展示会は「第13回高速度写真と画像計測国際会議」という国際会議の併設展示会でした。この展示会が生まれた経緯は,光学技術コンタクト,Vol.18,No.10,pp.23-27(1978)に,吉澤徹先生(現在,東京農工大学名誉教授)により「国際画像計測機器展始末記」として詳細に記されています。
この記事によると,「高速度写真と画像計測国際会議」は2年に1回,世界各国で持ち回りで開催されていたこと,また過去のこの会議では関連する機器の展示会が併催されていたこと,そして日本で会議を行う際も展示会は開催して,日本内外の関連技術を結集させて盛り上げたいという方向でお話しがまとまったことが記されています。そしてこの展示会開催にあたり,それまで経験がほとんどなかったと思われる国際会議の関係者は,こう考えたようです。
(引用元では,(!)は斜体です)
また,同じく吉澤徹先生ご執筆の「私の歩んできた道」(精密工学会誌,Vol.89, No.2, p.165(2023))には国際画像機器展(原文ママ)を開催して国際会議を資金的に援助すること,またこれにあたり「画像計測機器協議会」が結成され,吉澤先生が委員長となったことも記されています。関係者は当初,目標60小間,来場者は4日間で5000人と目論んでいたようですが,最終的に「国際画像計測機器展」では850m²のホール内に47社・85小間のご出展があり,予想の倍となる1万人以上にご来場者いただき,関係者が想像する以上の活気を呈したそうです。
なお,この展示会では現在でも弊社で採用している展示方式「テーブルトップ方式」のディスプレイを採用しました。その意図として,1986年の国際画像機器展のパンフレットには
と書かれています。これは,現在の「画像センシング展」や「国際画像機器展」にも通ずる考えと感じます。
また,吉澤先生の「国際画像計測機器展始末記」に戻ると,締めくくりにはこのように記されています。
このあとの「国際画像計測機器展」に関する資料は社内にはありません。この5年後,1983年のガイドブックでは「国際画像機器展」の名称となっており,画像工学コンファレンスの併催であることが記されています。また,会期も現在と同様に12月となったたようです。
なお,同じく吉澤徹先生ご執筆の「私の歩んできた道」(精密工学会誌, Vol.89, No.2, p.165(2023))では,国際画像機器展がきっかけで技術情報誌「O plus E」の創刊につながったと記されています。O plus Eは1979年12月号が「News Letter」としてプレ創刊され,その後1980年4月からは月刊誌として発行されました。O plus Eについては改めて記したいと思います。
なお,O plus Eの印刷版は現在休刊中ですが,O plus E noteにてコンテンツを更新しております。よかったらこちらもご覧くださいね。
次に,弊社で主催するもう一つの展示会「画像センシング展」について,国際画像機器展以上に資料は少なく,弊社が事務局となった経緯が明記されている資料もありませんでした。
下の写真は昨年末に社内で見つかった,1987年に開催された展示会のスナップです。当初の名称は「画像計測・検査機器展」だったようです。
また,「画像センシング展」にかかわる弊社にある一番古い資料は,1992年の画像計測・検査機器展のガイドブックになります(今の時点では)。表紙には,この展示会は「産業における画像センシング技術シンポジウム」の併設展示会であることが明記されています。
ちなみに,第2回の画像計測・検査機器展開催の前年である1986年には「第1回 産業における画像センシング技術シンポジウム -非破壊・非接触計測における画像処理を中心として-(のちの画像センシングシンポジウム)」が開催されています。第1回の「画像計測・検査機器展」がこの際に併催されたと考えるとつじつまは合うのですが,あいにく裏付ける資料は社内にはありません。
なお,「産業における画像センシング技術シンポジウム」の主催について,O plus E ,2021年9・10月号, pp.508-517の「輿水先生の画像の話」によれば,画像センシング技術研究会の前身である「日本非破壊検査協会 005(画像処理)特別研究委員会」であると記されています。同じく「輿水先生の画像の話」によれば,「画像センシング技術研究会」は1995年に日本非破壊検査協会 005(画像処理)特別研究委員会から独立した組織になったそうです。ちなみにこれを機に弊社は現在まで「画像センシング技術研究会」の事務局を担当しております。
1995年版のガイドブックには,「画像計測・検査機器展」が「画像センシング展」に名称変更していることが記されていました。画像センシング技術研究会の発足と同時に展示会の名称も一新したと思われます。
なお,会場は1992年まではTOCビル(五反田),1993年からはパシフィコ横浜となり,現在まで続いています。パシフィコ横浜は1991年10月に展示ホールが開業したばかりでした。これ以降,今もパシフィコ横浜で開催を続けています。
弊社の歴史のうち,ここでは創立当時と展示会事業について,現在わかる範囲で記しました。
今年の画像センシング展2024は6月12~14日,パシフィコ横浜で開催します。もしご興味がでてきましたら,お立ち寄りいただけると嬉しいです。