取り戻す夜 (夜間中学記Ⅰ)
出井 光哉
【第一章】
(一)
壁の向こうから、どっと笑う声が聞こえてきた。
となりは二年生の教室だ。笑い声ばかりではない。だれかしらの高い声もしていて、いかにも楽しそうなようすが伝わってくる。誰かがおかしなことを言ったのだろうか。それとも、何かおもしろいことでもあったのだろうか。
一年生のいるこの教室と、となりの二年生の教室とは、もともとは一つの部屋だったものだ。それを二つに分けて使っている。
一つの部屋をあとから二つに間仕切りしただけだから、ふつうの教室の半分の広さしかない。広さ(というより狭さ)もだけれど、情けないのは部屋を仕切ってある中央の壁だ。その壁ときたら、あいだに防音材を挟んではあるのだろうけれど、板張りのいかにも取ってつけたような簡単なものだ。
だから、みんなの笑い声でもだれか呼びかけたりする声でも、少し大きな声を出したりすれば、となりの学年の教室にまで、お互いにつつぬけに聞こえてしまうのだ。
いまもそんな笑い声が、となりの二年生の教室から聞こえてきた。
でも、こちらの一年生の教室は、静かなまま。みな体をかたくして坐っている。
つい今しがたまで、窓の外はあたりいちめんが夕日を浴びていた。それが、校舎の影もだんだん長く大きく伸びていって、校庭にはもう夕陽が残っているところもずっと少なくなっている。
四月になってもう十日にもなろうかというのに、夜にかけてはまだまだ膚寒い。しかし、一年生のこの教室にいる人たち――金田さんに小澤くんに保岡くん、それに菊池くんと倉石くんの五人は、寒いからといって体をかたくしているわけではない。それぞれに気持ちがはりつめているのだ。
みんな中学一年生。
でも、ここは夜間の中学校。今年の三月に小学校を卒業して、そのままひきつづいて中学生になってきたというような人は、一人もいない。ついでに言うなら、今年の春は、留年してひきつづき新年度もまた一年生でいるという生徒も、一人もいない。
一昨日が入学式だった。だれもがみんな、その入学式で初めて顔を合わせたばかり。だれひとりお互いに顔見知りの人もいないのだ。年齡だっててんでばらばら。年齡も違い顔も見知らぬ人たち同士では、たった一日二日くらいでは、お互いにまだうちとけるところまではゆかないのも当然だろう。
そればかりではない。中学校に一年生として入学してきてはみたものの、なにしろふつうの中学校ではないのだから、みんなそれぞれに、いまだこの学校のようすがつかめなくて、少なからぬ不安やとまどいを感じてもいるのだろう。
――丸山くんは、まだ来ていないようですね。
新一年生の担任の飯田先生が、教室のなかの坐り主のいない席を見ながら言った。
みんな黙ったままだ。
教室は、狭くて、生徒たちの机も横に二列にして、八人ぶんほどが並べられてあるだけ。予備の机がいくつか壁に押しつけてある。
前の列のいちばん右端に坐っている小澤くんが、小柄な体をゆすりながら教室のなかを見回した。つられて金田さんや保岡くんたちも、あたりを見回した。教室にいる人の数をてんでにあらためて確かめている。
――「この四月から入学したい」と言って、まえもって申し込んできていた人たち、つまり新一年生は、七人でスタートする予定だったんです。それがですねえ、三月の末になって、みんなに入学式の日にちなどをあらためて連絡してみたら、入学するのをやめるっていう人が一人でてきてしまってね。それで、ことしの一年生は六人でスタートということになったんです。
「……」「……」「……」
――今夜、これから丸山くんが来れば、六人になりますが……。新一年生で、いまこの学校に来ている人は、ぜんぶで五人だけだよねえ。
「……」「……」「……」
みんな、飯田先生の顔を食い入るように見つめている。
――丸山くんが、今夜これから来てくれるかどうかなあ……。入学したばかりなのに、こうしてまだ学校に来ていないものだから、私としてはちょっと心配なんですよ。せっかく入学してきたのに、いくにちも経たないうちにやめていってしまうような人もいるんですよねえ。
「……」「……」「……」
――入学したすぐからばかりじゃあなくってね、最後の卒業までつづけられなくて途中でやめていってしまう人が、残念だけれどでてきてしまう。毎年のことなんですけれどね。
そう言って、飯田先生はちょっと話すのを止めた。
菊池くんも金田さんも、小澤くんや保岡くんたちも、生徒たちはみんなおし黙って、体をかたくして先生のことばのつづきを待っている。
その表情は、
《このクラスは、このままどんどんさびしくなっていってしまうんだろうか》
と、それぞれに思っているかのよう。
そんなみんなの気持ちを推し量ったかのように、あらためてほほえみを浮かべながら、飯田先生はまた話し出した。
――でもね、この先、みんなが三年生になって卒業していくまでには、この学年はもっともっとおおぜいになりますよ。この学校には、いつでも入れますからね。そのうちだんだん仲間がふえてきますよ。一年生のうちにも、さらには二年生のころにも、そうなっていくはずです。ひょっとすると三年生になってからだって、そうなるかもしれません。
「……」「……」「……」
――でもねえ、先々人数がふえてくるなどということとは関わりなく、今ここにいるみなさんは、途中でやめたりなどしないでほしい。最後まで、とにかくがんばって、学校をつづけていってほしい。このクラスの皆がみな、それぞれ仕事をもっているんだよねえ。それやこれやで、いろいろと辛いこともあったりするだろうけれど、お互いに励まし合って、三年後にはぜひみんないっしょに卒業していってください。
飯田先生はそう言って、ひとりひとりの目をのぞきこんだ。
生徒たちはみんなおし黙ったままだったが、しかしそれでも自分に言い聞かすかのように、てんでに小さくうなずいてみせた。
――さてと、あらたまった話はそこまでにして、みんなのほうから、聞いておきたいことなんかがあったら、どうぞ言ってみてください。
飯田先生が言った。すると、金田さんが、遠慮がちに、それでも待ちかまえていたかのように尋ねた。
――先生、教科書のことなんですが、いつもらえるんでしょうか?
低いけれどきっぱりした声だった。
* * *
一昨日の入学式。
新一年生の担任の飯田先生にうながされるようにして、入学式の行われる教室に新入生が入ってきた時のことだ。
すでに教室で整列して待っていた二年生・三年生たちはみんな、新たに仲間になる一年生たちをつぎつぎと見やったのだが、その視線がことごとく、いちどその人のところで止まった。
その人は、体ががっしりとしていて、ずぬけて大きい。そしてもうなんといっても、しっかりはっきりと絵に描いたようなおじさんだったからだ。
ほかの新一年生たちは、彼にくらべるとずうっと小柄で、若い。そうしてみなひどく緊張しているみたいで、顔もこわばっているし体もかたくしていた。そんななかでただひとり、その人だけが――もちろん彼は彼なりに緊張していたのかもしれなかったが――いかにも自信にあふれているかのようで、堂々として見えた。
《あんな人が、ここの中学生になるのか》
たぶん、だれもが、そう心のうちに思ったにちがいない。二年生や三年生のなかには、互いに顔を見合わせる者もいて、そうした思いの裡がうかがわれるのだった。
そのおじさんの生徒が、金田さんだった。
金田さんは、ことし入学してきた一年生のなかでというだけではなく、以前からいる三年生や二年生をふくめても、今やこの学校でいちばん年かさの生徒なのだ。年齡は五十二歳。担任になった飯田先生の、その父親とちょうど同じ年齡だ。
先生たちは、ふだん女の生徒には「さん」を、男の生徒には「くん」をつけて呼んでいる。が、さすがにここまでおじさんの生徒ともなると、相手が男であろうと、先生たちとしても「金田くん」などとは呼べない。それで女の生徒でもないのに、先生たちもおのずと「金田さん」と呼び始めているのだった。
この夜間中学でいちばん若くて、ふつうの中学生たちと変わらない年齡でいるのは、二学年に在籍している村田くんだけだ。村田くんは、ほんとうならば昼間の中学校に通っていなければならない。それも、あたりまえなら三年生になっているはずの年齡なのだが。
つまるところ、ほとんどの人が、中学生というにはみんなもう、ずっと年齡の過ぎている人たちばかり。そうしたなかでも、金田さんはとび抜けて年配の生徒なのだ。
一昨日は入学式だけで終わりだった。きのうは生徒会やオリエンテイションなどがあって、ずうっと二年生・三年生の人たちといっしょだった。そのとき、学校生活についてのいろいろな説明を受けた。
この夜間中学校――東京都墨田区の曳舟中学校の夜間部は、生徒の数はぜんぶでも三十人に満たない。それで、その日の始まりと終わりの会は、全員がひとつの教室に集まってみんなでいっしょにするのだといったような説明があった。毎晩の給食の用意やかたつけなども、一年生も二年生も三年生もなく、生徒全員でするのだという話だった。
それからまた、そのときに、学年ごとの時間割表も配られた。そうしてその時間割にしたがって、今日から授業が始まった。
最初の授業時間である今日の一時間目は、一年生の担任でもある飯田先生の国語の時間だった。
今日でもう三日目だというのに、まだ教科書をもらっていない。それどころか、おとといもきのうも今日になっても、先生たちは教科書についてひとことも言ってくれないではないか。
《ひょっとして、先生たちは教科書のことを忘れているのかもしれない》
そう心配して、金田さんは、飯田先生に尋いてみたのだ。
――ああ、教科書ね。明日の給食のあとの休み時間には、みんなに教科書をわたせると思います。遅くなって悪いんだけれど、四月の入学式の段階になってみないと、どの学年にどれだけの数が必要なのか、はっきりしないものですからね。きのうの朝のうちに手配しておいたんですが、今日まだ届いていないんです。
うんうんと小さくうなずいてそう説明すると、飯田先生は、なにか考えでもするかのようにしながら、ことばをつづけた。
――教科書ですけれどもね、みなさんにひととおり渡します。渡しはしますが、授業で教科書を使うのは、社会科と英語と、あとは音楽くらいのものかなぁ。ほかの教科はほとんど教科書を使わないから、できたら自分で家で勉強してみてください。教科書を見ていてわからないところがあれば、いつでも質問にきてください。
飯田先生は、そう答えながら、金田さんをはじめ、一年生のクラスのひとりひとりの顔を見回した。
《学校では教科書を使わないで、自分で、家で、教科書を勉強するんだって?》
金田さんはびっくりしてしまった。
飯田先生の、「教科書を使わない」というのがべつだん不思議でもなんでもないような言いかたも、金田さんにはいぶかしいことだ。
飯田先生の話を聞いて、金田さんは面食らい、がっかりしたような、あてのはずれた顔をした。
金田さんと左右に席を並べて坐っている保岡くんや菊池くんは、不安げに、金田さんと飯田先生のやりとりを見つめている。うしろの席の倉石くんは、目をパチパチとしきりにしばたいているばかりだ。それぞれに心のなかでなにかを思っているようす。ただひとり小澤くんだけが、《そんなことどうでもいいや》というような顔をしている。
――どうして教科書を使わないんですか……。
気落ちした声で、金田さんが尋いた。
飯田先生は、ちょっと小首をかしげながら、いくぶんか困ったようすで答えた。
――うーん、みんなでいっしょに教科書を使って勉強していくのが、なかなかむずかしいからねえ……。
つぶやくようにそう言った。
――お互い、じきにわかることだろうけれど、うちとけないうちは自分からは言いにくいかもしれないよねえ。ですから、はじめに、私のほうから言っておきましょうか。
そう言って、順番に、またひとりひとりの目を見つめ回した。
――ここは中学校です。みんなも知っているとおり、小学校を卒業したら、中学校に進むんですよね。でもね、じつは、みんなのなかには、小学校をちゃんと卒業していない人がいるんです。
「……」「……」「……」
――というより、休まずに小学校へ通って、勉強するべきことをひととおり勉強して、ちゃんと小学校を卒業した人、つまり「ほんとうに小学校を卒業した」といえるような人は、このなかでは金田さんだけなんです。
それまでちょっとずつ動いていたみんなの体が、ぴたっと止まって、どの目もどの目も飯田先生の顔を凝視した。
――あとの人は、小学校には満足に行っていなくて、ほんとうはあまり勉強していない。あまり勉強していないんだけれど、でも、もらうだけは卒業証書をもらっている、一応は小学校を卒業したことになっている、といったような人たちなんだよね。
「……」「……」「……」
――あなたたちだけじゃあない。この学校の少なからずの人がそう。なかには卒業証書をもらっていなくて、小学校を卒業したことにさえなっていない人もいるくらいです。
「……」「……」「……」
――一方で、中学校を卒業したことになっていてね、卒業証書もちゃんともらってある。けれども、実際にはほとんど学校に行っていない、勉強していないなんていう人も、上の学年の人たちのなかにはいるんですよ。
「……」「……」「……」
(二)
小学校にまいにち通って、きちんと勉強して、ちゃんと卒業したのは、つまりほんとうに卒業したと言えるのは、たしかに金田さんだけだ。
でも、金田さんのそれは、むかしの、尋常小学校という名でよばれていたころの小学校だった。
金田さんは、尋常小学校を卒業すると、すぐから親もとを離れて働きに出た。金田さんの家は東京の下町にあって、貧しいには貧しかったそうだが、それよりもなによりも、そのころの日本は、アジアの各地で、アメリカなどを相手に戦争をしていた。当時は大東亜戦争と呼んでいた、そうして今となっては第二次世界大戦と呼ばれているところの、その戦争のさなかだったのだ。
そもそもが、落ち着いて勉強していられるような世の中ではなかった。
金田さんも、徴兵される年齡になると、すぐに召集をうけた。軍隊に入って、戦争に行くことになった。そのころは満州とよばれていた中国の北の方へ、兵隊になって行ったのだった。
金田さんは、関東軍の兵士として、勇敢に戦った。関東軍は、日本の多くの軍隊のなかでも、とくに勇敢な部隊だったという。
しかし、それでもやがて、日本は戦争に負けた。戦争が終わって、金田さんが満州から帰ってきたときには、東京はいちめんが焼け野原だった。自分の生まれ育った家も、働きに行っていた家も、燃えてしまって形もなかった。
そんな焼け跡のなかから、金田さんは再出発した。それから二十数年、今日まで、金田さんは八百屋として、一所懸命に働いてきた。
いまや、店はうまくいっているし、子どもたちも大きくなった。もうこれといって心配したり、齷齪したりするようなことは、ほとんどなくなっている。はたから見れば満足していてよさそうに思えるのだが、でも、そうなってくるにつれて、金田さんの胸のうちには、しだいしだいにものたりない思いが育ってきていた。勉強にたいする思いだ。
かつて自分が子どもだったとき、思うぞんぶん勉強できなかったし、しないできてしまった。卒業したのは、古い制度の尋常小学校だけだ。新しい時代になってからの中学校はもちろんだが、むかしの中学校さえも、自分は出ていないというそのことが、とても悲しく感じられるようになってきた。
暮らしむきのことについてなら、いろんなことを知っているし、わかっていることもたくさんある。下世話なことにだって、それなりに通じている。けれども、勉強のこととなると、自身になさけない思いがしてくる。
子どもたちが学校で勉強していることを、時たまのぞいてみたり、話に聞いたりしてみる折りに、なにがなにやらわからないことがいっぱいあるように思われてしまう。
こんなことがあった。
店を閉めて、金田さんが居間にきてみると、いちばん下の娘がテレビを見ながら勉強している。
――なんの勉強をしてるんだい?
――数学の宿題だよ。
――ふーん、今、どんなことをやっているんだい。
そう言ってのぞきこんだ教科書には、金田さんの見たことのない数学の式が書かれてあった。
――そのエックス2って、なんだい。
――エックス2?
――ほら、そこにあるじゃないか。このエックスの肩に小さな2のついたやつさ。
そこには X2+5X+4=0 とあった。
――これって、「エックス2」って言うんじゃなくて、「エックスの二乗、ニジョウ」って読むの。「エックスとエックスを二度かけた」っていうことなんだよ。
娘は、金田さんに正しい読みかたを教えながら、おかしそうに、またちょっぴりうれしそうに、そう答えた。
でも、それを聞いた金田さんは、むずかしい顔をした。
――「英語のXやYの文字を、数学でも使うんだ」っていうことくらいは、わしだって知ってるよ。だけど、それはどんな意味なんだい。
――いくつかわからないときとかに、Xを使ったりするんだよ。
――このXのニジョウとかいうXも、それかい。
――そうよ。因数分解して解くと、Xがいくつかわかるの。
――ちょっと待てよ。その「エックスのニジョウ」とかいうのは、おまえ、いま「エックスとエックスを二度かけた」って言ったよな。
――え? ええ。
――それって、おかしいんじゃないか。
――「おかしい」って、なにが?
――わからないものに、もう一つわからないものをもってきて掛け合わせちゃったら、よけいわからなくなりそうなもんじゃないか。
――…………。
――そんなわからないものが、インスウブンカイとかでわかるっていうのは、どういうことかなあ。だいいち、わからないものとわからないものをかけるっていう、そのことからして、考えてみるとわからんことじゃないか。
――そんなこと知らないわよ、わたし。
――だって、そういうことを、学校で勉強するのとちがうのかい。
――もう、いや。親が子どもの勉強を、わざわざわからなくさせないでよ。お父さんが来ると、勉強のじゃまになるわ。
はじめはにこにこして教えてくれていた娘だったけれど、ついには恨めしげな顔で金田さんを見て、テーブルの上の教科書やノートをかたつけはじめた。
娘が立ち去ったあと、居間に残された金田さんは、さびしくまた悲しくもなったのだった。
《そうだよなあ。ほんとうなら、子どもがわからないところを、親がわかるように教えてやるくらいでなくちゃなあ……》
その日からというもの、金田さんの頭のかたすみには、エックスのニジョウがまるで柳の下のドジョウのように巣くってしまって、どうにも追い出すことができなくなってしまった。
そんなことがあったのは、金田さんの娘が中学二年生のときのことだったから、かれこれ十年ほどまえにもなる。
《自分の子どもたちが中学校や高校で習っていることの、半分どころか一割さえも、父親である自分は勉強していないんじゃないか。古いことだけで、あたらしい時代の勉強は、学校ではちゃんと教わっていないんだなあ》
金田さんは、折りにふれてそう思うのだった。
《わからないものにわからないものをかけるというのが、どういうことか。自分には要領を得ないけれど、そんなことだって数学を勉強すれば、中学生にもわかるようになるんだろうな。子どものころに自分も中学へ行っていたら、きっともう疾うにそんなことはわかっているんだろうになあ……》
そう考えてみると、胸のうちがじりじりしてくるのだった。
《もともと勉強はきらいじゃあなかった。ただわしが子どものころは、日本が戦争をしていたものだから、自分は勉強したくても、中学へは行けなかったんだ》
《やっとこのごろ、自分のために自由に時間を使えるようになってきた。むかしなれなかった中学生になりなおして、もういちどちゃんと勉強したいなあ》
《昼間は八百屋の仕事があるし、そうでなくても昼間の中学校に中学生になって行くわけにはいかないけれど、ちょうどうまいぐあいに、近くに夜間中学がある。あそこなら通えるだろうし、入れてくれるかもしれない》
そう考えて、金田さんは、思いきって夜間中学に尋ねてみた。
「もちろん入学できますよ」という返事だった。それで、新年度の四月になるのを待ちかねる思いで、心はずませて入学してきた。
そんなくらいだから、金田さんは、ちゃんと教科書を使って授業をしてくれるものと思って、入学してきていたのだ。
だが、飯田先生のいまの話は、自分の思い描いていたような中学生の勉強とは、ずいぶんへだたりを感じさせるものだ。
《学校なのに、教科書を使わないで勉強するんだなんて……》
金田さんは、がっかりしてしまった。
* * *
――教科書を使わないで勉強するっていうと、何をどんなふうに勉強するんですか?
金田さんの気落ちしたような声に、しかしやっぱり飯田先生は小さくほほえみながら、こう答えた。
――どの教科ではどんなふうに勉強していくのか、いまここで私がみんな話してしまうとつまらないでしょう。まあ、各教科それぞれに、授業が始まれば、だんだんわかりますよ。
飯田先生はそう答えた。
しかし、ほかの先生たちの授業どころじゃなかった。表向きはほほえんでは見せていたものの、内心はべつだった。
飯田先生は、じぶんの国語の授業の時間にだってさえ、これからさき、ことしの一年生には、なにをどんなふうに勉強していってもらったらよいのか、どんなことを教えていったらよいのか、ほんとうのところ、まだはっきりと決まってもいないし、わかってもいないのだった。
そんなやりとりのあいだにも、菊池くんや保岡くんは不安そうな顔つきで落ちつかないしぐさを見せているばかりだったし、倉石くんもパチパチと目をしばたいているだけ。そしてたったひとり、小澤くんはやっぱり《そんなことはどうでもいいや》というような顔で、見るともなく黒板を見やったり、教室のなかを眺め回したり、思い出したように飯田先生の顔を見たりしている。
金田さんの勉強に対する思い入れの強い気持ちが、飯田先生に少しもわからないというわけではない。そんな金田さんの気持ちを知りながら、どうして夜間中学では、多くの授業で教科書を使わないのだろうか。
(三)
――きのうの学活の時間に、お互いにかんたんな自己紹介をしてもらいました。といっても、ほとんどの人が、自分の名前と年齡と、勤めている人はどんな仕事をしているかを言ってくれただけでしたよね。そこで、今日は、どうしてちゃんと小学校へ通えなかったのか、だれか、もうちょっと詳しく話してみてくれませんか。
「……」「……」「……」
――夜間部だとはいっても、ここは中学校ですよね。みんな中学校へ入ってきたんです。ですから、お互いに、自分はべつにしても、《ほかの人たちは、みんな小学校は出ているだろう》と思っていたんじゃないかな。でも、いまも言ったように、金田さん以外は、小学校だって必ずしもきちんと卒業してるわけじゃないんだよねえ。
「……」「……」「……」
――「できれば小学校へでも、いまから入れてくれれば、入りなおしたい」くらいに思ってる人もいるかもしれない。保岡くん、どうですか? ちがいますか?
――えっ、……、ええ、まあ、そうですけど、……。
――じゃあ、「どうしてそっちのほうへ行かないのか」と言われても、夜やっているような小学校は無いでしょ。中学校にならそれがあるというので、みんなこうして来ているんだと思うんですが、ちがいますか。
「……」「……」「……」
――「自分だけが小学校を出ていないんじゃないか」とか「自分だけがなにも勉強してなくて、わからないままかもしれない」とか、そんなふうに思っているかもしれません。
「……」「……」「……」
――でもね、実際は、そうじゃないんだよねえ。ここにいる人たちは、みんな似たようななかにあって、お互いほかの人とたいして違わないし、変わらないんじゃないかと思いますよ。
「……」「……」「……」
――というわけで、安心して、自分のこれまでの学校生活を、もうちょっとくわしく話してみてくれませんか。
そう言ってから、飯田先生はクラスのみんなの顔を見回した。
――ええと、そうだなあ、よし、菊池くんに話してもらいましょうか。
飯田先生は、そう指名した。
菊池くんは、「来年の四月から入学したい」といって、去年の暮れにこの夜間中学校へ来た。初めて申し込みに来たその時に、飯田先生とはいちど会っていた。
その初めて会ったときもそうだったけれど、入学してきてからも、いつもにこにこしていて、いかにも人のよさそうな気のいい青年だった。
――ええっ。おれ、じゃない、ぼくですかあ。
菊池くんは照れたような声をあげた。それからちょっとのあいだ、もじもじしていた。が、それでも飯田先生にもういちどうながされると、はにかみながら黒板の前に出てきて、椅子に腰をおろした。
飯田先生が拍手をすると、つられてみんなもまばらな拍手をした。
* * *
――おれ、じゃない、ぼくは、菊池誠一です。年齡は二十五。あれ、これ、きのう言ったよなあ。えヘへ。えっと、なにを言えばいいのかなあ……
――菊池くんは、どこから東京へ出てきたの
――ああ、おれ、じゃない、ぼくは、秋田県から出て来たんです。
――菊池くん、いちいち「ぼく」って、言いなおさなくてもいいよ。「おれ」のままでいいから、気楽に話してみてください。ところで、秋田県のどこだったつけ?
――□□郡の、□□っていう村です。
――そうそう、そうだったね。
飯田先生は、菊池くんがどこで生まれて育ったのかについては、まえに菊池くんから聞いていた。
けれども、こんどいっしょになった一年生のこのクラスの人たちは、お互いに、まだそうしたあれやこれやは知らないはず。それで、みんなにもわかるように、あらためて聞いてみている。そうしてまた、ちょっとずつそうやって尋いてやるほうが、学校の教室で、それもみんなのまえで話し慣れていない菊池くんには、きっと話し易いだろうと考えてのことだった。
――菊池くんが生まれて育った□□郡というのは、秋田県でも岩手県との県界にちかいところにあってね。奥羽山脈のまっただなかにあるんだよねえ。
――えっ、うーん。なに山脈だか知らないけどさ。おれのいたとこはさあ、東京なんかから見ると、すんげえ山んなかだったんだ。
――村のなかでも、菊池くんの住んでいたところは、とくに山のなかだったということなのかな。
――うん。おれんちのあったとこは、みんなのいる部落へ出るのにさあ、二時間くらいはかかったんじゃないかなあ……。おれ、子どもだったし、あんまし行ったこともないから、はっきりわからないけど……。
――二時間て、歩いてなんでしょ。
――もちろんだよ。おれの子どものころなんか、村になんか、車は一台もなかったんじゃないかなあ。おれなんか、見たことなかったもの。それでなくたって、おれんちのあったとこは山んなかだったから、車の通るような道なんてなかったしさあ。
――菊池くんのお父さんやお母さんの仕事は、なんだったの?
――おれんちの親父はさあ、炭焼きとかが仕事だったんじゃないかなあ。
――「炭焼きが仕事だったんじゃないかなあ」って、菊池くんも炭焼きについて行ってたって、そう言ってなかったっけ……。
――うん。ついてってたんだ。おれ、もう、小さいときからずうっと、親父に連れられて、炭焼きに山のなかに入って行ってたんだよ。
――菊池くんの家は、部落から奥に入った山のなかだって言ったでしょ。
――そうだよ。
――家がだいぶん山のなかだっていうのに、そこからもっと山のなかに入っていったりしたの?
――そうだよ。炭を焼くのに、うんと山のおくに入ってったんだ。近いとこから、だんだん焼いてっちゃって、そうなったんじゃないかなあ。
――それで、炭焼きに山に入っているのは、一年のうちのどのくらいだったの?
――ほとんどいつもだったなあ。春だって秋だって、炭焼きしてたんじゃないの。雪が降ったりして炭焼きができなくなっちゃうと、やめて、山を下りてきてたけどさ。
――山を下りてきて、山のなかの家に住んでたのかな。
――ははは、そうだよね。山を下りるったって、おれんちはまだ山のなかなんだ。ははは。
――それで、冬のあいだは?
――親父は冬のあいだは、ほかのなにか、いろんなものを木で作ったりしてたみたいだけど。おふくろは一年じゅう、そんなようなことをしてたみたい。
――村には、小学校も中学校もあったんでしょ。
――うん。なんちゅうの、えっと、ほら、ぶ、ぶ……。
――分校かな。
――うん、そう、それじゃないかな。そんなようなのがあったんだけどさ、おれ、小さいときから、親父に連れられて炭焼きに行ってたから、分校だか学校だかだなんて、ほとんど行ってないんだよ。
――「小さいときから」って?
――ほら、ふつうなら小学校へ入る年齡があるじゃない、七歳だかのころに。おれ、もうその年齡になるまえから、親父といっしょに山へ行って、炭焼きしてたんだもの。学校なんか行けないじゃない。
――「学校なんか行けない」って、ぜんぜん行ったことがないわけでもないんでしょ。
――そうだなあ。……、小さいころのこと、一年生や二年生のころのことは、覚えていないなあ。学校に行ったことがあるっちゅうことは、あったかなあ……。あったんじゃないかなあ。何回かはわからないけどさ。一年生や二年生のときのことは忘れちゃったよ。どんな先生で、学校でどんなことをしてたかとかは、覚えてないんだ。
――何年生のころからならば、覚えているの。
――うーん。四年生か五年生くらいのころからかなあ。炭が焼きあがったりして、親父が山を下りてくるでしょ。そうすると、おふくろが、おれに、「学校さ行って来」なんて言ったりするんだ。それでさ、おれ、しょうがないから学校へ行くでしょ。でもさあ、学校へ行ったってさ、たまに行くだけだもん、授業なんか、なにやってるか、なんにもわからないじゃない。
――…………。
――先生だって、きっと困ったんじゃないかなあ。おれなんかがたまに学校へ行ったってさ。教室にいたって、なんにも読めないんだしさ。算数かなんかだって、なに教えたってわからないし、おれなんか、いるだけ邪魔でしょ。
――邪魔って、そんなことはないだろうけれど……。
――ううん、やっぱり邪魔だったと思うよ。それに、おれだって、いたってしょうがないじゃない、そんなとこ。
――「そんなとこ」ですか……。
――それで、学校へ行くと、先生が「小使いさんのとこさ行け」っていうの。だからさ、おれ、小使いさんのとこへ行くんだよ。
――小使いさんが教えてくれたの?
――ううん、そうじゃないよ。小使いさんが「いっしょに花壇や学校の畑に、水をやってくれないか」とか、そんなようなことを言うの。おれも、教室にいるのはつまらないけれど、小使いさんといろんな話をしながら、花やキュウリやナスなんかに水をやってたほうがおもしろかったしさ。学校へ行った日はほとんど、うーん、ほとんどって言ったって、ほんのたまにしか行くことがなかったんだけどさ。学校ではたいていそうやって、水をやったりしてたんだ。ほかには、とんぼを追いかけたり、かぶとむしを捕まえたりしてたこともあったかなあ。
――夏場はそんなことをしていたとしても、冬のあいだなんかは、キュウリやナスもないでしょ。
――そりやあ、そうだよ。冬なんか、キュウリやナスもないよ。
――じゃあ、冬場は、学校へ行ったらどうしてたの
――学校へ行っても、外はどっこも雪だからさ。教室のなかよりほかには、いるところがないじゃない。教室にいたら、邪魔だし、おもしろくないし。学校じゅうの、雪かきなんかをしてたんだ。それよか、学校まで行く道が、雪で歩くのがたいへんだったんだ。ほんと。
――炭焼きからおりてきて家にいるようなときには、お母さんは「学校に行きなさい」とかって言ったりしたようだけれど、お父さんのほうはどうだったの? お父さんは「学校へ行きなさい」って言ったりはしなかったんですか。
――うん。親父は、いちども「学校へ行け」なんて言わなかったなあ。それよか、「学校なんか行かなくてもいい。炭を焼いて働きゃあいいんだ」って言ってさ。「学校なんか行かなくたって、ちゃんと生きていける。おれだってそうやって生きてきたし、おまえだってそうやってればいい」って言って。
――…………。
――「まじめに働いて、炭を焼いてりやあいいんだ」って、おれ、よくおやじから聞かされたよ。
――お父さんも、子どものころに、学校へは行ったことがなかったのかしら。
――そうだと思うよ。親父も学校へ行ったことがあったら、おれにも学校へ行けって言ったかもしれないけどさ。でも、おれの親父、いい親父だったと思うよ。親父もあんまし頭はよくなかったみたいだけど、仕事はよくしてたもん。
――みんなと同じように、まいにち学校へ行きたいとは思わなかったの?
――そのころはちょっとも思わなかったなあ。たまに行ったって、勉強なんてぜんぜんわからないし、友だちもいないしさあ。ちょっともおもしろくないじゃない。ずうっと行ってりゃ、少しはおもしろかったのかもしれないけど。
――学校の先生や役場の人から、「学校へ来なさい」とか「学校へ行くように」とか、言われることはなかったの。
――知らないなあ。たいてい山に入ってたしさ。家に来てたのかもしれないけど、おれは言われたことなかったよ。
――…………。
――でも、おれだけじゃなくて、村の人たちは、みんなあんまり学校へ行ってなかったんじゃないかなあ。おれみたいにほとんど行かなかったっていうのは、そんなにいないと思うけれど。
――そうしているうちに、菊池くんは小学校を卒業したんだね。
――うん。小学校だけじゃなくて、中学校も卒業したことになってるみたいよ。ぜんぜん勉強はしなかったけど、ははは。
――じゃあ、中学校では、どうしてたの?
――中学も、ブンコウとかいったとこだったと思うけど、畑に水をやったり、雪かきしたりみたいなことばっかりしてたんだ。たまに行くだけじゃ、おれだって先生だって、それよりしょうがないもの。いまになってみるとさあ、〈学校へちゃんと行っておけばよかったな〉って思うけど。
――それで、菊池くんは、何歳のときに、村から出て来たの?
――ええと、十九歳のとき。親父が山でけがをしちゃって、それからじきに死んじゃった。そうしたらおっ母までだめになっちゃってさ……。それで、炭焼きができなくなってさ。おれ一人で、ずうっと炭焼きばっかりしてるのもいやだったし。そんでさ、叔父さんという人に勧められて、東京へ出て来たっていうわけ。それから、いまの会社に入って、荷物の積み下ろしの仕事をしてるんだ。
――東京へ出てきて、四年五年と経って、最近になって勉強したくなってきたっていうのかな。
――あはは、そんなんじゃないよ。
――じゃあ、どうしてここへ来て、勉強しようという気になったの?
――だってさ、おれ、なんにも勉強してないからさ、字が読めないでしょ。計算もできないしさ。
――…………。
――いまの会社で荷物の積み下ろしの仕事をしてるんだけど、ほんとうはその積み下ろしの仕事だって、字が読めたほうがいいみたいなんだよな。
――ということは、会社では?
――会社ではさ、みんなから「字だけでも、なんとか読めるといいのになあ」って、しょっちゅう言われてるよ。おれだって、《字だけは、なんとか読めるようになりたいなあ》と思ってさあ。それで、思いきって社長に話して、ここへ来てもいいっていう許可をもらって、来てるんだ。
――なるほどね。
――ははは、おれのこんな話なんて、聞いてもしょうがないでしょ。
――いやいや、しょうがないなんていうことはないよ。菊池くんの話は、きっとみんなにも励ましになると思うよ。菊池くんだけじゃない。みんな、多かれ少なかれ似たような体験をしてきたんだろうし、似たような気持ちでこの学校へ来たんじゃないかなとも思うんだよ。
――そうかなあ、……。
――菊池くんには、この学校にいるうちに、読んだり書いたり計算もできるように、ぜひともなってほしい。同じように、みんなにも、それぞれこれまでのぶんを取り戻していってほしい。私もふくめて、みんなでこれから三年間、お互いに、励まし合い、助け合っていきましょう。菊池くん、話を聞かせてくれて、どうもありがとう。
菊池くんが席にもどるとき、飯田先生はまた拍手をした。みんなもまたパラパラと小さく拍手をした。
――いま話を聞かせてもらったように、菊池くんと、もうひとり倉石くんは、字がぜんぜん読めないんです。それで、はやく字を覚えて、読んだり書いたりできるようになってもらうために、ふたりには、ふだんは「促進学級」のほうへ行って勉強してもらうことにしようと思っています。「促進学級」というのは、読み書きや計算を早く覚えてもらうために、べつの教室で勉強するクラスです。ほかの人たちは、ひらがなやカタカナなんかの字は読めますよね。それで、この「普通学級」で勉強してもらうことにしようと思っています。足し算や引き算の計算のできない人は、数学の時間だけ促進学級に行ってもらったりすることにもなります。
そこまで言って、飯田先生はみんなの顔を見回した。
それから、あらためて金田さんを見やりながら、こうつづけた。
――そういうわけで、ぜんぶの教科がというわけではないんですけれど、たとえ普通学級であっても、みんないっしょに、それもいきなり教科書を使って勉強するというのは、ちょっと無理かもしれないんです。教科書を使うか使わないか、なにをどんなふうに勉強していくかは、それぞれの教科の先生が考えていてくれると思います。
そう言って、飯田先生は、教室のみんなを――といってもたった五人しかいないクラスのみんなの顔を――もういちどほほえみながら見回した。
金田さんはおし黙ったまま、机に目を落している。
ほどなく、一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴りわたった。一時間目のうちには、とうとう丸山くんは学校に来なかった。
【第二章】
(一)
――ねえ、給食の残ったのを、だれか持っていかない?
久野先生が一年生の教室をのぞきこんで言う。両手にいくつかずつカレーうどんの入ったビニール袋を持っていて、みんなに見せる。
――ああ、おれ、一つもらっとこうかな。
小澤くんが答えた。
――いっぱい余ってるの。もう一つどう?
――そんなにいらないよ。
――そう。保岡くんは?
――あっ、おれ、きのうもらいました。今日はいりません。
いかにも保岡くんらしい律義な受け答えに、久野先生はちょっと残念そうな表情をした。教室にいるのは、あとは金田さんだけで、家庭をもっている。一年生の教室ではもう捌けない。
久野先生はこんどは、すぐ隣の二年生の教室をのぞいて言う。
――夜食に持って帰るっていう人、だれかいませんか?
久野先生は、給食の担当の先生なので、職員室へもどる道すじの各学年の教室に、そう言ってはつぎつぎと声をかけて回っている。
ゆうべも給食が残っていたが、今夜はもっと、いつになく給食のときに空席がめだっていた。
ここの夜間中学は、夕方の五時三○分に始まり、夜九時に終わる。
夜に授業が行われる中学校だから、それゆえ夜間中学と呼ばれている。が、学校としては昼間の中学校に付属してあるから、校舎は一緒で、そのなかの一部を夜間部の生徒たちが使っている。昼間は昼間でふつうの中学生たちが勉強している。
昼間の中学生たちが帰ったあと、入れ代わりにこんどは夜にかけて夜間部の人たちが登校してきて、三時間半ばかりのあいだ勉強する。
夜間部の日課の始まりと終わりのときには、みじかい学活――「始まりの会」と「終わりの会」とがあって、みんなひとつ教室に集まる。そこで、出席をとったり連絡事項が伝えられる。
みんなが始まりと終わりのときに集まるその教室は、もとは昼間の中学生が使っていた教室だったが、いまでは夜間部の人たちだけが使う専用教室になっている。そうして、夜間部が使っている教室としては、ここがいちばん広い。
この専用教室は、ふだんは日本語学級のA組の人たちが使っている。授業をするときには、一年生から三年生の三学級に、日本語学級がA・Bの二学級、それに促進学級の六つのクラスに分けてある。そうしたなかで、日本語学級のA組がいちばん生徒の数が多いからだ。
そうしてさらに、みんなが集まるときにもこの教室を使う。入学式も、始業式や終業式も、ここで行われる。もうひとつ、毎晩の給食のときも、この教室にみんな集まって食べる。
一年生から三年生までのぜんぶを合わせても、生徒の人数が三○人にも満たない。それで、給食のときには、生徒たちだけでなく、すべての先生たちも加わって、みんなでいっしょにこの教室で食べている。
「始まりの会」のときには、出席を取っているのだが、まだ学校に来ている人はそれほど多くない。
なにしろ仕事をしている人、会社や工場に勤めている人たちがおおぜいいる。そうした人たちは、五時に勤めが終わると「さあ、今度は夜間中学へ行って勉強だ」ということになる。しかし、すぐに学校に向かっても、五時半までに学校に着くのはなかなかたいへんなのだ。
それでも、多くの人たちが、とくべつに残業でもなければ、一時間目の授業時間のうちには学校に来られる。だから、一時間目の授業が終わるとすぐに給食の時間になるのだが、その給食のときには、その日学校に来ている人、来るだろうみんなが、たいていは顔をそろえることになる。
それだからまた、その日の給食のときにその人の顔が見えないと、その人は今夜は休みかなとも思われるのだし、集まりぐあいでその日の出席の多い少ないもわかるのだ。
それにしても、今夜はとりわけ寂しい感じがした。給食のときまでに来た生徒が、いくらもいなかったのだ。
――はい、これは増澤さんのぶん。楢橋さんも飯田さんも、ひとつずつ持ってって。
職員室にもどってきた久野先生は、そう言いながら、楢橋先生や増澤先生や飯田先生の机の上に、ビニール袋に入ったカレーうどんを配った。
調理師のおじさんとおばさんが作ってくれた、夜間部のための給食だ。少しくらいならばともかく、今夜みたいに出席している生徒が少なくてたくさん余ると、そうそう残飯にして捨ててしまうわけにはいかない。それゆえに欲しい人は持ち帰ってもらうようにしているのだが、それでもまだ残ったりすることがある。
――ゴールデンウィークが明けてからというもの、なんだか休みが多いよねえ。きのうも出席が少なかったけれど、今日はちょっと多すぎるものなあ。
ビニール袋に入った給食の残りのカレーうどんを手に取りながら、楢橋先生が増澤先生や飯田先生に話しかけた。
――ええ……。昨日今日は、日本語学級の生徒たちの休みが多いんですよねえ……。
増澤先生はいくぶんか口ごもりながらそうあいづちを打つと、飯田先生と顔を見合わせた。
増澤先生と飯田先生の二人は、三年前にここの夜間中学に日本語学級が設置されたとき、その担当の教師として同時に着任してきた。だから、自分たちが受け持ちになっている日本語学級の生徒たちが、「日本語」の授業時間以外にはふだんから欠席が多くて、美術や体育などの授業や、生徒会活動の進行に差し障りが生じていることを、少なからず心苦しく感じている。
楢橋先生はしぶい表情で、増澤先生と飯田先生を見やりながら言った。
――うーん、美術なんかはさ、連休明けから彫塑に入って、だからもう二週間になるんだけれど、なにしろ気ままに休まれちまうもんだから、いっしょに進められないんだよねえ。
――そうでしょうね。「休まないで来るように」とは言っているんですけれど、困ったものですねえ……。
増澤先生と見交わしながら、こんどは飯田先生がそう応じた。
きのうは、三時間目・四時間目と、二時間つづきで楢橋先生の美術の時間があったのだった。だが、日本語学級の生徒たちがぞろぞろと休んでしまうものだから、授業がやりにくいのだ。
* * *
二年生を担任している楢橋先生は、中年の男の先生だ。専門教科は美術科。五年まえからこの夜間中学に来ている。
しかし、楢橋先生が教えているのは、専門の美術科だけではない。夜間部では、美術の時間は全学年がいっしょに学習することになっているので、美術の先生としての授業時間は週に二時間だけしかない。夜間中学であろうとも、教師として週にたった二時間の美術だけを教えていればいいなどというわけにはゆかない。非常勤講師としてならともかく、常勤の教諭としては、そんなではほとんど何もすることが無いのと同然だ。
それゆえ、海外旅行の体験を生かして、普通学級の二年生に英語を教えたりもしている。だが、授業はとなったら、なによりも促進学級での特訓の受け持ち時間が最も多い。
そうはいっても、やはり美術こそが本職だ。そうして、本職の美術の時間は週にたった二時間しかないというのに、しかもだからこそはりきってやりたい美術の時間になると、日本語学級の生徒たちの姿が少なくなってしまうので、困惑し不愉快にも思い、また悩んでいるのだ。
悩みはしかし、美術の時間のそればかりではない。出番とはしていちばん多い促進学級の授業のほうも、このところ出席状況が思わしくない。
――おれなんか、今日の促進学級の時間は、二時間とも開店休業になっちゃいそうだなあ……。
楢橋先生が話し出した。
今夜の楢橋先生には、授業といったら、促進学級の二時間だけ。それなのに、自分の出番である促進学級の時間に、二時間とも生徒が一人も来そうにないというのだ。教える生徒が一人もいない、だれも来ないというのは、教師にとってほんとうに寂しくまた辛い。
――倉石くんは、昨日から社員旅行だって言っていたし。菊池くんのほうは、このところ会社の仕事がいそがしくて残業になったりするから「来たり来なかったりになるかもしれない」って、そう言ってましたよねえ。……、楢橋先生がせっかくはりきっているというのに、すみませんねえ。
申しわけなさそうに、飯田先生が言った。
飯田先生が担任をしている一年生から、倉石くんと菊池くんとが促進学級に行って、楢橋先生に教えてもらっているのだが、その二人が、きのうも今日も学校に来ていないのだ。
――いや、二人は会社の都合だから、それはそれでしかたないんだが……。清川がねえ……。
楢橋先生はそうつぶやくように言った。
――そういえば、菊池くんや倉石くんはともかく、清川さんはこのところ、ほとんど姿を見せていませんね。
――うん。二年生になってから、休みが多いんだなあ。
清川さんは、二十一歳の女子生徒で、去年の十月にこの夜間中学に入ってきた。
入ってきたとき、彼女は、自分の名前を、漢字でぎこちなく「清川美代子」と書いてみせた。だが、書けるのは自分の名前のそれだけだ。他に書くどころじゃあない。ひらがなもカタカナも読めない。足し算・引き算などの計算もできない。そう言って、入学してきた。
それで、入学してからは、促進学級でずうっと学習してきた。この春に二年生に進級したのだが、まだまだ読んだり書いたりがおぼつかないし、足し算や引き算の計算もできない。二年生になったいまも促進学級の生徒として、菊池くんたちといっしょに学習することになっている。
読み書きはできないし、計算もできない。けれども気だてはいいし、かわいい娘さんといった感じの女生徒だ。
自分が担任している二年生の生徒ということもあり、促進学級の主任として、去年の秋以来ずうっと教えてきている楢橋先生は、だからはりきって教えていたのだ。その清川さんが、このところさつぱり学校に来なくなっている。
――「だいぶん字が読めるようになったから、もういい」っていうので来なくなったんですか。そんなわけではないんでしょ?
――それはないだろう。字が読めるようになったって言っても、やっとひらがなくらいのもんなんだよ。
――清川さんのほうも、ひょっとして仕事がいそがしいのかなあ。
――いや、僕もそう思ってね、一週間ばかりまえに、彼女の会社に電話してみたんだよ。「仕事がいそがしくて、こっちへなかなか来られないんですか」って、さ。
――…………。
――そうしたら、本人は昼飯を食べに外へ出て行ったとかで、その場にいなくてね。それで会社の人に聞いたんだけれど、「会社としては今はとくべつ忙しいわけではない」っていうことだったんだがなあ。
――彼女の会社は、どんな仕事をしている会社なんですか。
――ああ、プラスティックの加工成型の会社だそうだ。受注はずうっと切れずにあるようだけれど、そのかわりまた急にむやみに仕事が増えるっていうことでもないようだよ。
――じゃあ、残業だとかなんだとかでもって、仕事が忙しくて学校に来られない、ということではないんですねえ。
――たぶんね。それで「学校へ休まないで来るように」って、清川に伝えてくれるように賴んでおいたんだけれど。
――…………。
――一年生のうちは、ちゃんと来ていたのになあ。
――世間ではよく「五月病」だなんていうけれど、ひょっとして彼女もそうなのかしらねえ。
――五月病って、連休明けからおかしくなるのを言うんだろ。清川が休みがちになったのは、連休まえ、まだ四月のうちからだもんなあ。まさかに「四月病」でもないでしょ。うーん……。
楢橋先生はそう言って、小さく苦笑いした。飯田先生もつられて、口許をゆるめた。
楢橋先生と増澤先生と飯田先生とが、そんなことを言って話したり苦笑いをしているうちにも、給食休みの終わりと二時間目の予鈴とを兼ねたチャイムが鳴りわたった。
用意して、食べて、かたつけて、校庭で遊んだり教室でひと休みしたりする。そのすべてをひっくるめてたった二十五分間の給食の時間は、だからあっという間に終わる。五分後には二時間目が始まるのだ。
二時間目には、楢橋先生には促進学級の授業が割りふられている。その二時間目の授業に、楢橋先生には教えるべき相手の生徒が来ていない。楢橋先生は、椅子に腰をおろしたまま、他の先生たちが授業に向かうのを、ぼんやり見送るよりほかなかった。
* * *
二時間目と三時間目にまたがる二時間つづきの日本語学級B組の授業を終えて、飯田先生が職員室にもどってきてみると、楢橋先生は所在なげに机の上を見つめていた。
机の上には、赤と青と黄色のおはじきが十数個ほど、並べられてあった。生徒が来なくて、ひまで退屈で、それで楢橋先生はおはじきを並べて遊んでいたのかもしれなかった。
飯田先生は楢橋先生に話しかけた。
――やっぱり清川さんは今夜も来ないんですね。
――うん。
――そのおはじきも……、がっかりですね。
――ああ。なんてったって、これ、わざわざ清川のために買ってきてさ、まだいくらも使っていないんだものなあ。
――それは算数に使ってるんですか?
――うん。今夜みたいに二時間もあるときは、一時間はこれを使って計算をさせようと思ってね。二時間とも字を覚えるというのは、疲れるだろうしさ。計算もできるようにしてやらなくちゃね。でも、せっかくこっちが考えてやって、こうして用意して待っていてもなあ……。
――彼女は足し算もまだよくできないんですか?
――うん。なにしろ数字が、ようやく読めるようになってきたところだからね。位取りのところで、ずいぶん時間がかかっちゃってね。1を“イチ”、2を“ニ”、3を“サン”などと読むところまでは、わりとすんなり行ったんだけれどね。12を“じゅうニ”って読んだりするのが、難しかったんだよ。どうしても“イチニ”って読んじゃうんだ。やっと“じゅうニ”が読めるようになった。それでこんどは123なんかに行くでしょ。すると“じゅうニサン”と読んだりするんだ。“ひゃくニじゅうサン”に行き着くまでが、またたいへんなんだよなあ。
――彼女は働いているから、会社から給料をもらっているんですよねえ。給料の計算なんかは、ちゃんとわかっているのかしら?
――少なくとも給与明細書が読めないことは、まちがいないよ。何の手当てがいくらかなんてのは、見てもわからないだろう。聞いてならわかるかもしれないけれど……。
――…………。
――そんなだからさあ。
――そうですね。休まないで来てほしいですね。
――ああ。さっきだって、彼女に「これからでも学校に来なさい」って電話をかけたいと思ったくらいなんだけどさ。
――彼女は、アパートには電話が無いんでしたよね。
――うん。最近になって、電話を引いてないほんとうの理由がわかったよ。自分の電話番号が読めないんじゃ、電話だって引くわけにいかないものなあ。
――…………。
――明日の昼にでももういちど会社に電話して、学校に来るように言ってみよう。
そう言いながら楢橋先生は、机の上に広げたおはじきを、赤、青、黄と順にひとつひとつつまみあげ、ゆっくりと片つけ始めた。
(二)
つぎの日。
もう一時間目も半分ほどが過ぎている。夜間部に割り当てられた六つの教室のうち、五つの教室で授業が行われている。しかし、いちばん小人数の促進学級の部屋には、まだ先生も生徒もいない。
職員室で待機している楢橋先生が、《ひょっとして今夜もまたか……》と思い始めたやさきだった。
――こんばんは。
小さく会訳をしながら、菊池くんが職員室に入ってきた。夜間部の職員室の壁際に沿って、生徒たちひとりひとりにロッカーが割り当てられてある。
職員室では生徒たちのロッカーにいちばん近い場所に席があって、テレビで大相撲の中継を見ていた岩田先生は、菊池くんに一瞥をくれただけであいさつの返事も返さない。けれども、楢橋先生は、岩田先生の頭越しに大きな声で応じた。
――こんばんは。今夜は残業は無かったの?
――いやあ、やればあるんだけど「あんまり学校を休んでちゃ、まずいだろう」って、会社のみんなが「行け」って言ってくれたもんですから……。
菊池くんは笑顔を見せながら、ロッカーから教科書を取り出した。
――そう。みんなの応援してくれる気持ちをむだにしないように、あと少しだけれど、できるだけやりましょう。
楢橋先生は勢いよく立ち上がった。一時間目の残り時間が、たとえ残りもう二十分くらいしか無いとしても、菊池くんにとっても楢橋先生にとっても、ともに貴重な時間なのだ。
そうしたやりとりにはいささかの頓着も見せなかった岩田先生は、二人が連れだって職員室を出て行くと、職員室に自分ひとりきりになって、さあ好都合だとばかりにさらにテレビの音量を上げて、横綱の取り組みに体を揺すって見入った。
職員室のとなりが促進学級の部屋である。
――じゃあ、つづきをやろうか。
そう言って、楢橋先生が教科書を拡げた。菊池くんも教科書を拡げた。二人が手にしているのは、小学校の一年生の国語の教科書だ。
――読んでみてごらん。
楢橋先生にそう促された菊池くんは、困ったようにほほえんで、小さな声で答えた。
――あのう、おれ、ここんとこ、なんて読むのか忘れちゃったんです。
なにしろ四月に入学してきて、勉強らしい勉強として、初めてひらかなやカタカナの読み書きを覚え始めたばかり。一生懸命に覚えようと思い、またそうしているつもりなのだが、でもなかなか覚えられない。「学ぶ」ということがこれまで身についていなかったそのうえに、このところちょっと学校を休んでいたものだから、せっかく覚えかかったひらかなやカタカナなども、紛らわしいものはついつい忘れてしまう。
――すいません。
――いや、あやまることはないよ。でも、忘れないように少しずつでも覚えていかないとね。
――ええ……。
――よし。じゃあ、もういちど復習して、確かめておいてから先に行こう。
楢橋先生は大きな目をぎょろりとさせて、それでも笑顔のままに、自分で教科書の文を読み始めた。
菊池くんが、なんとか思い出しかかったころには、しかし一時間目の授業時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
――じゃあ、つづきは給食のあと。二時間目にしよう。
そう言い置いて、指で教科書をはじきながら教室を出ていこうとする楢橋先生の後姿に向かって、菊池くんが答えるように言う。
――今日はおれだけかあ。一人きりというのはちょっと寂しいけど、勉強はおれだけの勉強ができるからいいんだよね。
* * *
――えっ、足りないんですか? 何人ぶん?
久野先生は困ったような、それでいて、うれしい気分のないまぜになったような声をあげた。
先に来た人たち数人で配膳を終えたところへ、授業が遅く終わった日本語学級の生徒たちがどやどやとやってきて、それぞれ席に着いていったのだけれど、給食の無い席がいくつか生じたのだった。
今夜の給食は、ゆうべと違って、こんどは人数ぶんが無いという。きのうおとといと欠席者が多くて、あまりにたくさんの残りが出たものだから、調理師のおじさんとおばさんが今夜は数量を抑えて用意したのだろう。
ふだんから夜間部の生徒の出席状況には、だいぶんばらつきがある。だから給食のおじさん・おばさんたちも心得ていて、それなりに加減できるようにして出してくれる。ところが今夜は、思いがけず日本語学級の生徒たちがほとんど全員登校して来て、すこぶる出席がよいのだ。
――いやあ、足りんですか。じゃあ、これを持って行って……。
調理師のおじさんが白髪頭を撫でさすりながら、そう言って“隠し玉”のお膳を二つ三つ出して寄こす。“隠し玉”のお膳というのは、万が一に生徒たちのなかに食中毒などと疑わしい症状が見うけられるようなことが起こったとき、学校の給食が原因か否かを検査するための、サンプルのお膳なのだそうだ。
だから、ほんとうは食べてしまってはいけなくて、残しておくべきものなのだそうだけれど、そんなことも言っていられない。今夜のように、それでもまだ何人かぶんが足りないとなると、先生たちの何人かが給食を食べないで済ますよりほかない。
給食の足りない晩は、食べられない先生たちのために、久野先生が学校の近くの店から菓子パンを買ってきて、それで済ます。
職員室で、アンパンを手にした飯田先生が、楢橋先生に話しかけた。
――こんなに給食が足りないほど今日は出席が多いのに、それでも清川さんは来ていないんですね。
久野先生や増澤先生も、飯田先生を見、楢橋先生を見た。楢橋先生はアンパンに一口かぶりついて答えた。
――ああ。それがさあ、清川は会社をやめたらしいんだ。理由はわからんのだが……。今日の昼、会社に電話してみたら、三日まえにやめたというんだ。
増澤先生が尋く。
――自分のほうからやめたんですか?
――そうらしい。急にやめると言いだしたそうで、「会社のほうで馘にしたわけじゃないんだ」っていうんだがね……。
久野先生が言った。
――あした、清川さんのアパートへ行って、様子を見てきましょうか。
――ああ、そうしてみてくれるかなあ。
久野先生は、三年前に、大学を卒業して、この夜間中学に着任してきた。飯田先生や増澤先生と同期で同じ年齡なのだが、月数の差でもって、久野先生は夜間部でいちばん若い。独身の女の先生だ。
専門教科は国語で、二年生と三年生の国語を担当している。だが、それだけでなくて促進学級の授業も、何時間か受け持っている。
だから、清川さんは、久野先生が自ら教えている生徒のひとりでもあるのだ。それで、あすの昼間にでも、直接に彼女のアパートを訪ねてみようというのだ。清川さんのほうも若い独身の女生徒だし、そんな彼女のアパートを訪ねて様子をみたり話を聞いてくるとなると、先生のほうだって、男の楢橋先生よりも若い女性の久野先生のほうがぐあいがいい。
(三)
翌日――。
飯田先生が出勤してみると、楢橋先生と久野先生とが、話し込むでもなく、二人して困惑した面もちをして見つめ合っていた。
久野先生は清川さんの“家庭訪問”をしてきたはずだから、ふたりの困惑の原因が彼女のことだろうとは、飯田先生にも容易に推測できた。
飯田先生は、少しくはばかるように、
――どうでした、清川さんは?
と、小声で尋ねた。
――うーん、……。
楢橋先生は、唸ったまま目をぎょろぎょろさせて、首をふっている。避けるに避けられず、触れずに避けられもし得ない。楢橋先生のそぶりは、そんな雰囲気を漂わせている。
尋ねた飯田先生も、困惑に飲み込まれて、小首をかしげた。
久野先生が場をとり繕うかのような声と表情で、口をひらいた。
――清川さんが会社をやめた理由がわかったのよ。それがさあ、楢橋先生が会社に電話したことが原因だったの。
《やっぱり……》
飯田先生は「ひょっとして」と思っていたのだが、どうやらそのとおりだったらしい。
清川さんは、会社にも同僚にも内緒で、こっそり夜間中学に通ってきていたのだ。それなのに、楢橋先生が夜間中学の教師を名告って、会社に電話してしまったものだから、会社の人たちに、彼女が退社後に夜間中学に通っていることがバレてしまったのだった。
清川さんが中学校を卒業していないなどとは、会社のだれもが知らなかったにちがいない。
入社する際には、彼女も履歴書のようなものを、提出したかもしれない。彼女自身は書けなくても、親かあるいはごく内輪の知り合いなりが代筆でもしたりすれば、それはそれでごまかして済ませられないものではないだろう。
彼女の勤めている会社は、プラスティックの成型をしているという。工場では、工場長なりの指示を聞いておいて、あとは流れに乗って製品の組み立ての手作業をするのが彼女たちの仕事だそうだ。だから職場では、まったくと言ってよいほどに読み書きは必要ないらしい。言われたとおりに、ただだまって手を動かしていてくれるような人間のほうが、会社にとっても好都合なのだろう。
清川さんはかわいい娘さんだし、実際にも仲間うちにも好かれていたそうだ。おとなしくて、言われたことは素直に聞いて、まじめによく働いている。会社にとってはたいそうありがたい社員だったようだ。
一方ではまた、工場にいて会社の仕事をしているかぎりは、文字を読んだり書いたりする必要もなくて、恥ずかしい思いをしたりすることもないままに済んでいたのだから、彼女にとってもありがたい職場だったのだろう。
清川さんが勤めていたプラスティックの成型工場には、読み書きをしたがるような人は、ほとんど就職してこないみたいだ。社員は十人足らずらしいけれど、多くの社員が、やはり学校での勉強は苦手にしていたような人たちなのかもしれない。読み書きや難しい学問的なことにはお互いにあまり触れたがらないし、むしろ学校生活の思い出話などは避けたい類なのかもしれない。
しかしそんなふうではあっても、だれもがみな自分たちは中学校を卒業しているし、だからほかの皆も、それぞれに中学校は出ているものと、思い込んでいることだろう。思い込んでいたことだろう。
つまりは、「清川さんだって中学校を卒業している」はず、と。そのことを疑っていた人は、一人としていなかったにちがいない。
それがそうでないことが、明らかになってしまった。
いいや、中学校を卒業していないということもだが、清川さんにとってはそれよりももっと重大な秘密――文字の読み書きや、他人にとっては簡単だろう計算も、じつは自分はできないということ――そのことこそを、これまで必死で、なんとか巧く隠して過ごしきていたのに、それらが明るみに出てしまった。
「清川さんは、じつは中学校を卒業していない」ということ、またそれゆえに「読み書きを覚えるために、最近になって、清川さんは会社帰りに夜間中学に通っていたのだ」ということ――隠しておきたかったそれらが、楢橋先生からの電話で、会社のみんなに知られてしまったのだ。
――中学校へも通わず、卒業もしていなかったのか。
――こんな年齡になって、今ごろ中学校へ通っているのか。
おそらくは、楢橋先生からの電話を受けた人が、トクダネをスクープした気分かなにかで、みんなにしゃべり散らしたのだろう。
楢橋先生がいちだんと渋い表情をしている。
清川さんは入学してきてからまだ半年と経つか経たないかだけれど、楢橋先生にしてみれば、少しでも早く読み書きを覚えてもらおうと、熱心に教えてきていたそんな生徒だった。
それだからこそ、学校へ出て来させたいと願って、楢橋先生はわざわざ会社にも電話をしたのだった。が、豈はからんや、清川さんを会社にさえも行けなくしてしまうといった思いもよらない結果をまねいてしまった。
菊池くんなどは、会社の社長に相談をし、社長から勧められもして、夜間中学に通い来ている。しかし、勤め先に内緒で夜間中学に通ってきている人も、少なくない。同じ促進学級の倉石くんも、会社には何も言っていない。勤務先には黙って来ている。
そんなだから、休みがちだからといって、うっかり「学校へ出てくるように」などと会社に言ってやったら、生徒たちの身にとってはまずい場合もあるのだ。
それでもしかし、清川さんのように自宅に電話が無ければ、楢橋先生としても会社に連絡するよりほかなかったのだ。
――楢橋先生としても、ずうっと休んでいる彼女を、そのままにしておけなかったからですよねえ……
――ああ、……。
――夜間中学に通っていることがバレてしまって、それで会社をやめたというのはわかったけれど、……
飯田先生は、楢橋先生の胸の裡を思いやりながら、久野先生に尋いた。
――それにつけても、そもそもなぜ、学校へ来なくなったの? 会社のほうでは、とりたてて忙しいわけじゃないと言っていたようだけれど……。
――それがまた問題なのよ。
久野先生が細い目をしばたいて応じた。
――新学期になって、菊池くんと倉石くんが入って来て、促進学級が三人になったでしょ。それでなのよ。
《なるほど、やはりそうだったのか》
飯田先生は胸のうちで、また合点した。
去年の秋に入学してきてからおよそ半年のあいだ、清川さんは促進学級で授業を受けてきた。そこでの授業はといえば、彼女ひとりに先生ひとり。先生のほうは、楢橋先生や久野先生さらには宮入先生などと、入れ代り立ち代りして授業にあたりはしていても、まったくのマンツーマンで行われていたのだった。
それはたまたまその時期に、彼女のようにひらかな・カタカナさえも読めないという生徒が、他に一人もいなかったからこそ“個人授業”をしてやることができたのだった。
新年度になって、やはり文字の読み書きができないという生徒がふたり――菊池くんと倉石くんとが入学してきて、促進学級に組み入れられた。
だから清川さんだけを相手にした、先生ひとり生徒ひとりのマンツーマンの授業は、最早してあげられなくなってしまったのだ。だが、それが彼女にはおもしろくなかったようだ。
生徒ひとりと先生ひとりとで、濃密な気持ちで学習をしていたのに、ふたりも生徒が入ってきて、自分の存在感は三分の一にまで希薄になってしまった。いや、彼女はそうした分数の計算なんぞはとてもできそうにないのだが、雰囲気としてならわかる。教室での自分の占める割合がいかにも小さくなってしまったように、彼女には思われたのだろう。
しかも今年の春に促進学級に入ってきた生徒は、二人とも自分より年上の男の生徒だ。二人は男同士ということもあって、けっこう気が合っているみたいなだけに、彼女としてはなんとなく疎外感がある。
促進学級の生徒としては、清川さんは半年ばかりに過ぎないけれど、先輩である。しかし自分のほうが年齡は下で、それでだろうか、先輩のメンツというようなものには二人は気を配ってもくれない。
それやこれやの不満が鬱積して、休みがちになっていたらしい。
そんなでいたところへ、楢橋先生が職場に電話をかけた。内緒で夜間中学に通っていることがバレてしまった。そうなって「もう、会社も学校も、行くのはいやだ」となってしまったらしい。
――「会社は変わっても、学校へは来るように」って、一応は説得しておいたけれど、……。
久野先生は自信なげに言い、楢橋先生や飯田先生の顔を見回した。
――学校をやめてしまったら、せっかく覚えかかった読み書きなんかも忘れちゃって、元に戻ってしまうよな、きっと、……
楢橋先生はぼそぼそっとした声で、そう応じた。
《今からでももういちど中学生に戻って、読み書きを覚えよう》
清川さんはそう一大決心をして、この夜間中学へ来たはずだったろうに。そんな決意と努力を無にしないようにさせるためには、こうなってしまったこの先、いったいどのような方途があるというのだろう。
――日本語学級の生徒たちのことを思えば、清川さんたちはまだまだ恵まれた態勢で授業を受けているんですけれどもねえ、……。
飯田先生が、的外れなことばで応じた。
飯田先生としても、どんなことがどんなふうに問題なのかは、わかってはいる。けれども、だからといってどうすれば解決できるのかの方途は、ちっとやそっとでは得られそうになかった。考えあぐねて、気休めにもならないことを承知で、そう言ってみたのだった。
――でも、清川さんにとってもみれば、重大なことなのよね……。
久野先生が、またつぶやくように言った。
確かにそうだろう。
飯田先生は、楢橋先生や久野先生の顔を見ないで、あらぬほうに視線をやって、無言のままうなずいてみせただけだった。
【第三章】
(一)
校庭の片隅に、離れのようになって、小さな小屋の教室がある。先生たちはそれを「お座敷教室」と呼んでいる。
離れのようになっている「お座敷教室」といえば、いかにも聞こえはいい。だが、もとは、同じここの中学校の昼間部の体育科の用具をしまっておく物置だったものだ。それを夜間部が譲り受けて、教室に転用して使っている。
三年まえに、この夜間中学校に、日本語学級が設置されることになった。しかし、物理的には何も変わったわけではない。建物が新設されたわけでもなければ、教室を増築したわけでもない。早い話、夜間部にとって、教員の人数枠がふたりぶん増えただけだった。
しかし、だ。
いざ日本語学級が設置されてみると、とたんに中国や韓国などから引き揚げてきた人たちが、つぎつぎと入学してきた。そうなって、夜間部としても、日本語学級の授業に使える教室が、新たにまた必要になったのだった。
鉄筋コンクリートで四階建ての校舎になっている中学校のことだから、教室ということになれば、二階から四階にかけて昼間の生徒たちの教室がいっぱいある。あるにはあるのだが、昼間の生徒たちが「自分の教室」と思って清掃し、整理整頓している教室だ。夜になってその教室に、夜間部の生徒たちが出入りするのはやはり気がひける。いくら「学習するためだ」とは言ってもだ。
それで「夜間部に専用教室を回してください」と、夜間部の先生たちが校長に要望していたのだった。そうした挙げ句に、「教室が足りないというのなら、しかたがないな」ということになって、昼間部のほうから夜間部へと譲りわたしてくれたのが、校庭の隅の体育の用具室だったのだ。
小屋のなかには、黒板と棚を取り付けた。それから、床には、わざわざ畳を敷きつめもした。
――中国や韓国から引き揚げて来た生徒たちは、向こうにいたあいだ、畳に坐るなんていうことが無かったんだろ。畳を敷いた部屋にして、坐りかたや礼儀作法を教えてやりなよ。
校務分掌での係として、備品関係の一切を預かる横井先生が、そう言って、すべてを取り仕切ってできあがった「お座敷教室」なのだ。
そもそもが体育の用具を保管しておくために造られてあった小屋だけに、窓は一つだに無い。屋根は雨露をしのぐだけの造作でいかにも薄く、壁には断熱材などが施されてあるわけではないし、むろん冷暖房設備などが取り付けてあろうはずも無い。
だからこの小屋での授業ともなると、夏場の暑いさなかは、サウナ室の内にいるような気分になって、汗みずくで授業をしなければならない。真に寒い冬場はまた、ストーヴが一台置かれはするのだけれど、それでも唇を震わせながら授業をしなくてはならない。もちろん授業を受ける生徒たちだって、まったくそれは同じことだ。それでも冬場の生徒たちは、引き込まれたストーブの周りに席を取って、じっと坐って授業を受けていられるのだから、まだしもマシなのだが。
日本語学級の担当の飯田先生と増澤先生にとっては、そのお座敷教室で行なわれる授業が大半だ。飯田先生と増澤先生は、《暑いし寒いし、やれやれだよねえ》などと愚痴をこぼし、お互いに慰め合ったりしているのだけれど、日本語がわからなくて学校へ通って来ている生徒たちの身のことを思いやってみれば、そんなことで暑いの寒いのの不平は言っていられない。
今日は、昼間、たいそう蒸し暑かった。夜になってもそのままだ。授業前からドアを開け放してはあるのだけれど、それでも一歩入るやいなや、むっとした熱気で蒸れていて、いやましに汗ばんでくる。お座敷教室のなかは、まったく蒸し風呂だ。今夜も、そんななかでの、二時間つづきの授業になる。
坐り机のまえに飯田先生は正座した。
授業の初めと終わりには、みな正座をして、あらためて挨拶をすることにしている。
飯田先生は小さく息を吐き、それから鄧さんと陳くんと董くんの顔を順に見て、
――晩上好。
と、話しかけるように言う。それに対して、
――こんばんは。
と、鄧さんと陳くんは小さなほほえみを添えて、日本語でそう答えた。が、董くんはおし黙ってこわい顔をしたままだ。
飯田先生は、こんどは松村さんに声をかける。
――アンニョンハセヨ。
松村さんも、照れたような表情をして、小さな声で、
――こばンは。
と答えた。
――みなさん、日本語がじょうずですねえ。
飯田先生はわざと大袈裟に、ちょっとおどけてそう言って、皆に向かってにっこりとほほえみかけた。
――先生、中国語、じょうずですねえ。
鄧さんが、口真似をして、おどけた声でそう応じた。
飯田先生と鄧さんは、顔を見合わせて笑った。
だが、教室にいるあとの三人は、鄧さんと飯田先生とが何を笑い合っているのか、なにをやりとりしているのかわからない。きょとんとした顔で、鄧さんと先生の顔を見比べている。
飯田先生の言った「みなさん、日本語がじょうずですねえ」ということばそのものが、何を言っているのか、三人には聞き取れていないからだ。
――シェンモ?
がまんできないかのように、陳くんが、小声で鄧さんに尋く。
鄧さんが陳くんに、「ムニャムニャムニャ」と中国語で言い、二人は顔を見合わせてあらためて笑い出した。
飯田先生があやしげな発音で、中国語や朝鮮語であいさつをし、それとは反対に生徒たちのほうがちゃんと日本語であいさつを返したそのことに、そうしてお互いに「じょうずですねえ」などと言ってみせたそのことに、鄧さんと陳くんの二人はおかしがって笑ったのだ。
しかし、韓国から来たばかりの松村さんには、飯田先生と鄧さんとのやりとりの意味はわからない。さらには鄧さんと陳くんとがしていた中国語のやりとりもまた、わかろうはずがない。それでも松村さんは、ずうっとほほえみを絶やさない表情で、飯田先生や鄧さんたちを交互に見やっている。
不可解なのは董くんだ。
董くんは、鄧さんや陳くんと同様に、中国の北部から引き揚げてきたのだから、二人が話している会話がわからないはずはない。だろうのに、にこりともせず、挨拶も返そうとしないで、ただむっつりしたままでいる。
――それでは、日本語の勉強を始めましょう。
飯田先生は、こんどは日本語で、ゆっくりはっきりとそう言う。みな飯田先生の顔をみつめたままだ。
口元をちょっと緩めながら、飯田先生はテキストをひろげる。テキストといったところで、飯田先生が手ずから書き、プリントして拵えた、うすっぺらなシロモノだ。
テキストを拡げる飯田先生のようすを見て、生徒たちも同じように、それぞれに机のうえにテキストを拡げる。董くんだけは、やはり何もせずにいたが、陳くんに促されて、それからおもむろにテキストを鞄から取り出し始めた。
――今日は、「からだ」のうちでも、頭部のあちこちを、日本語ではどのように呼んでいるか、併せてどのような表現があるか、勉強をしましょう。
飯田先生はそう言いはしたが、もちろん彼ら彼女らには、飯田先生が何を言っているのかはわからない。鄧さんにだって、いくらもわかりはしないだろう。つまりは、飯田先生が、ただ自らに言い聞かせているだけのことだ。
彼らに対して、その時間の授業の目標とするところをあらかじめ示しておき、それをいささかでもわかってもらったうえで授業に入ることができるなら、お互いにとってきっと効率もあがるだろうし、喜ばしいことだとは思う。だがそうしたことすら、この教室にあっては実際にはほとんど不可能に近いことなのだ。
黒板に、人の頭のような線を描く。そこに、目や鼻や口や耳などを描き込む。
――這是「あたま」、明白マ?
だれも「明白」(わかった)と言わない。ひとり鄧さんだけがうなずいてみせる。
苦笑しながら、それでも飯田先生は、生徒たちの返答の有無にかかわらずに、授業を進める。
黒板の頭の絵の横に、漢字で「頭」と書き、さらにひらがなで「あたま」と書き添える。
それから、自分の頭を指でつんつんとつつきながら、
――日本人叫「あ・た・ま」。
とくりかえし発声する。
それから、飯田先生は、黒板に書きつけてあるひらがなを、
――これは、ひらがなの「あ」、這是「あ」。これは「た」、這是「た」。これは「ま」、……
などと言いながら、一つずつ指し示す。
――では、発音してみましょう。説パ。
ひらがなの“あ”を指差して示し、発声してみせながら、飯田先生がうながすと、それぞれに
「あ」「あー」「あー」……
と、読み、発音する。
――這是“た”。
「たー」「たー」「た」……
――説パ“ま”。
「ま」「ま」「まー」……
子どものころに歌った童謡が、飯田先生の頭のなかに浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。
「ちいちいぱっぱ ちいぱっぱ すずめの学校の先生は …… 生徒のすずめは 輪になって 口をそろえて ちいぱっぱ ……」――そう、まるで「すずめの学校」の先生をしているみたいだ。
お座敷教室では、日本語学級B組の人たちが勉強している。日本語学級のBクラスというのは、日本語の“初歩の初歩”を学ぶクラスだ。
ここの夜間中学の日本語学級に入学してくる人は、原則としてみな、まず日本語学級のBクラスに入ることになっている。日本に引き揚げてきたばかりの人たちは、だれもが日本語は話せない。そうしたメンバーのためのクラスなのだ。
「こんにちは」とか「こんばんは」「さようなら」などの、あいさつのことばくらいなら、覚えてからここに来るという生徒もいる。夜間中学へ来るまえに、母親や同じように引き揚げてきた先輩たちなどから、挨拶のことばくらいは教えられたりもするのだろう。
しかし、たとえ簡単な会話であってさえも、脈絡をたどって日本語が話せるようになってからここの学校へ入学してくる人は、まずいない。だから、入学当座は、みんなこの日本語学級Bクラスの生徒になる。
ひとことふたことで済む挨拶以外の、それなりの日本語はとなると、ほとんどわからない。片言交じりに話すことさえももちろん、漢字だって日本語として読んだり書いたりとなったらまったくできないといったそうした人たちが入り来る。
たとえて言うなら、救急車で運び込まれたケガ人や急病の患者が、とりあえず収容される病室のような、そんな教室だ。いや、そうした比喩でいうなら、救急車の車内で応急処置を施しているような、そんな教室だといったほうがもっと近いかもしれない。
そんなわけで、このB組は、日本に来たばかりの人たちが、何はともあれ、最初に入るクラスだ。日本語学級の担当である飯田先生と増澤先生とが相談し、「少しでも早く、より効果的に、日本語がわかるようにしてやりたい」と考えて、そのようにしている。
(二)
日本語学級の生徒たちのなかには、日本へ引き揚げてきた時に、もうすでにと言うべきかいち早くと言うべきか、日本国籍をもっているという人も、少数だがいる。親が日本国籍をもっていて、それで子どもたちも日本国籍を取得することができた人たちがそう。
しかし、たとえそんなふうに国籍は日本人であってさえも、日本語がわかるわけでもなく話せるというのでもない。中国で生れ育って、つい最近に日本に来て、いずれは日本国籍を取得し、日本人に戻ろう・なろうという人たちやその子どもたちだったら、日本語はなにもわからなくても当然というものだろう。
いずれにもせよ、日本に引き揚げてきて、なにも日本語がわからないからこそ、どこかで日本語を習おう、教えてもらおうということになる。
日本のあちこちに、引き揚げてきた人や来る人たちがいる。親や祖父母の出身県もさまざま、身元引受人の在所もさまざまだからだ。でも、なんといっても、東京に来る人がいちばん多い。
そうしたこともあって、都内の四つの夜間中学に、日本語学級が設けられてあるのだ。墨田区にあるこの夜間中学の日本語学級に入りくる人たちは、彼ら彼女らもまたほとんどが近辺の下町に住んでいる。
いま現在、日本語学級B組のメンバーは、全部で四人。今夜はみんなそろっている。
鄧さんと陳くんと董くんの三人が、中国から日本に引き揚げて来た人たちだ。松村さんは、韓国から来た人だ。
このB組で、いちばん古株は、鄧さんだ。今年の六月の半ばに入学してきた。その鄧さんでさえ、日本に来てから、まだ二個月と経っていない。陳くんや董くんは、半月ほど前に入学してきた。そしてもうひとり、松村さんは先週末に入学許可が下りて、今夜でまだ三日目。このクラスに入ってきたばかりである。
松村さんは、二十四歳の韓国人の女性だ。二週間ほど前に日本に来て、三日まえに入学してきた。日本から韓国に仕事で行っていた日本の男性に、みそめられて求婚された。親戚などには反対もあったようだが、二人は結婚した。そうして日本人の妻となるとすぐ、日本に住むことを決意して、日本にやってきたばかり。新婚ほやほやだからだろう、いかにもしあわせのさなかにあるといった感じだ。しかし、日本語はわからない。
――韓国にいるあいだ、仕事の都合もあって、僕のほうがずうっと朝鮮語を使っていたもんですから、彼女は日本語を使うことがなかったんです。それで日本語は全然だめなんです。あいさつのことばだけはなんとか教えたんですが、ほかのことまでは僕も自信がないし……
日本人の夫が、入学の手続きをしに、彼女を連れていっしょに来た。そのときに、そう説明していた。それからおよそ一週間たって、正式に入学許可がおりた。翌日から、夫が帰宅するころ入れ違いに家を出て、夜間中学に通ってきている。
《早く日本語を覚えて、日本人の奥さんになりたい。そのために一生懸命に覚えよう》
そんな気構えとしあわせな気分とが、顔つきにあらわれている。いつもにこやかに、まっすぐに飯田先生を見る。
* * *
陳くんは、中国北部の黒龍江省からきた。
陳くんは十八歳。父親は中国人で、母親は日本人だ。
今となっては、もうずいぶんまえのことになる。陳くんのお母さんのその両親(陳くんにとって祖父母にあたる人たち)が、満蒙開拓団の一員として満州に渡って行った。満州へ行って開墾すれば、その土地を自分のものとすることができ、そこを新天地として豊かな暮らしを生み出せるという話だった。
だがその現実はというならば、満州の荒野や森を開拓するのはとてつもなく辛くきびしく、生活は過酷だったらしい。夫婦のあいだには、子どもが三人産まれた。だが、食糧も乏しく、医療設備もないなかで、栄養失調でなのだろうか、上の二人は小さなうちにつぎつぎと死んでゆき、いちばん下の女の子だけがようやくひとり生き残ったのだという。
そんなにも苦しく辛い思いをしながら開拓していたのに、一方でしかし、満州の開拓は、中国への日本の侵略だとして、世界の国々からの非難は強まるばかりだった。そうしたなかで、やがては第二次世界大戦へと及んでゆき、ついには日本は戦争に敗れ、満蒙開拓団としての夢もまた破れてしまった。
満州に新天地を築くという夢が、ただ破れたどころではなかった。急いで日本に逃げて帰らなければ、こんどは命がないという状況になってしまった。ロシアが參戦して、乗り込んで来た。殺されてしまうかもしれない。たとえ殺されないまでも、つかまればシベリアへ連れて行かれる。そうなってしまったら、そこではおよそ人間らしくは生きられまい。
満州になにもかもを捨て置いて、娘だけを連れて、夫婦は日本へ逃げ帰ろうとした。そして逃げ出しては来た。 だが、軍人たちは、民間の日本人を見捨てて、自分たちだけ先に逃げてしまっていた。
やがて、逃げ遅れた開拓団の仲間たちのあいだに、敗戦直後の日本のようすが、どこからともなく、だれからともなく言い触らされて、聞こえてきた。
――原爆の落された広島だけじゃなくて、日本はどこも世の中ワケがわからなくなってしまっているらしい……
――東京はすっかり焼け野原になってしまったそうだ……
――なによりも食べるものがなくて、みんな餓えているそうだ……
――どこもかしこも不穏で、いたるところで奪い合いや狼藉が行われているようだ……
――年ごろの若い娘たちは、かたっぱしからアメリカやイギリス兵たちに乱暴され、慰みものにされているらしい……
そうした話のどれもこれも、デマか真実か、確かめるすべも無かったし、確かめている余裕も無かった。逃げ行く先々には、どこにも、そうした話が横溢していたのだった。
耳にする話におびえた両親は、手をつないでいる娘を見て、日本に逃げ帰ってからのその身を、ただただ案じないわけにはゆかなかった。
《逃げなければロシア兵につかまって、自分たちはシベリアに送られたりして、地獄の責苦に遭わなければならない》
《かといって、日本に逃げ帰っても、生活苦は目に見えている。そのうえ女の子は、きっとアメリカ兵のおもちゃにされてしまうにちがいない》
とどまるも地獄、進むも地獄だとなったら、残る道はひとつ。娘だけを中国に、中国人として残してゆくよりほかない。両親はそう決断したのだった。
娘は、中国人のもとに預けられ、中国人の養女となり、ひとり中国に残された。そのような事情で、そのようにして中国に残された女の子は、他にもたくさんいたという。
娘は、中国人の養女として育てられた。やがて年ごろになり、中国人の男性と結婚した。結婚したとは言っても、養い親のつごうのままに、したくもない結婚をさせられたのだったということだが。
その中国に残されて長じた日本人の女性と、夫となった中国人の男性とのあいだに生まれたのが、陳くんだった。
母親は、なんとしても、両親のいる日本に帰りたくていた。そうしたなかで一九七二年(昭和四十七年)に、日本と中国とのあいだで、両国の国交が回復した。国交が回復してからは、請願して受け容れられれば、日本に帰ることができるようになった。それで、彼女は、中国人の夫と別れて、陳くんを連れて日本に引き揚げてきたのだった。
陳くんをこの学校に連れてきたのは、王さんだ。彼女は、陳くんたちより半年ほどまえの去年の秋に、一足先に引き揚げてきた。王さんもこの夜間中学の三年生として、A組に在籍している。
彼女たちのように、先に引き揚げてきた人たちは、あとから来た人たちに、
――東京には、夜の中学校で、無料で日本語を勉強することのできる場所があるよ。
と言って教えては、連れてきてくれるのだ。
――陳サン、ハルピンの小学校に行ったです。通って、少し、勉強したね。
――「少し勉強した」というと、あまり学校に行かなかったの?
――不対(ちがいます)。ハルピンの学校、毎日行く。毎日行くけど、勉強無いよ。あるの、文化大革命のことだけ。
――文化大革命のことだけ? 文化大革命のことばかりを勉強していたの?
――じゃないよ。“紅衛兵”するのこと、してたよ。
――ああ、“紅衛兵”ごっこみたいなことをしてたんだね。
――陳サン、勉強、少しした。たくさんしたない。だいじょうぶない。
――等一下[ちょっと待ってください]。陳くんが文化大革命のために、学校で勉強できなかったことはわかったけれど、王さんはそういうことはなかったの。あなたは、ちゃんと勉強してきたの?
――わたしの学校も、文化大革命あったよ。わたしの終わりのとき、少し。わたしたち、だいたい勉強したよ。陳サン、学校で勉強したない。かわいそうよ。みんな、陳さんは「石頭」て言うよ。
王さんは、陳くんを連れてきたとき、彼のことをそう紹介した。
小学校には行くには行っていたのだけれど、文化大革命のあらしのなかでは、学校は学校でなくなっていたのだという。陳くんたちは、ほとんど毎日「紅衛兵ごっこ」などして過ごし、ときには“教師のつるしあげ”もやったりしたそうだ。
つまりは毎日、学校へは遊びに行っていたようなものらしい。それでなのか、基本的な事柄の知識も乏しく、ものごとの理解がいまひとつで、彼を知る引揚者なかまのうちでは「石頭の陳」という渾名で呼ばれているのだという。
「なかまうちで、石頭と呼んでいる」と紹介されたときには、さすがにちょっと困ったような顔つきをしたけれど、王さんが話をしているあいだじゅう、ずうっと陳くんはにこにこしていた。入学して連日通ってくるようになってからも、笑顔を絶やさない青年だ。
* * *
並大抵でないのは、董くんだ。
董くんを最初に学校に連れてきたのは、やはり引揚者なかまの先輩で、同様にA組で学習している宋恵功くんだ。
――董さんは、「満州のいちばん遠いのところにいたのです」と言ってます。董さんのいたところ、学校無いのところでした。董さん、学校行ったない。「勉強するのこと、全然ありませんでした」と言ってます。
宋くんはそう言って、董くんのことを話してくれた。
またさらに、
――董くんは、「福島県に、お母さんいる。今、お母さん、いっしょない。自分、東京で日本語、勉強する」と、董くんは言ってます。
とも、説明してくれた。
だが、しかし、宋くんは、董くんのことは実は何も知らないのだという。董くんのことをよく知っている人が、身近にはだれもいないらしい。「本人がそう言っている」という意味の断りを入れて、そう宋くんは紹介してくれたのだった。
入学の許可が下りて、董くんが初めて登校してきたのは、おおよそ半月ほどまえのことである。
飯田先生には、その日のことが鮮明に記憶に残っている。
夜間部の始業時間は、五時三〇分だ。この五時三〇分という始業時間は、追い追いには守られなくなってゆくことがあるにしても、入学しての最初の一週間くらいはきちんと守られるのが常で、みな早めに姿を見せている。
日本語学級の生徒たちなら、なおさらだ。引き揚げてきたばかりで仕事に就いていない彼らは、たいていがそう。
が、董くんは、最初の晩から、一時間目の授業に遅れてきた。
そうして、教室に入ってきた彼は、ほかのB組の人たちが席について勉強しているのを、怖い顔つきでじろりと一瞥し、そしてまた飯田先生が
――晩上好、こんばんは。
と声をかけたのにも無言で、横目で見やり、教室の壁に沿ってひとまわり巡り歩いた。それから、やっと陳くんの呼びかけに応じて、その隣にどっかと腰を下ろした。
なぜに教室の壁をひと巡りするような、そんなことをするのか、いや、したのだろうか。
《満州の奥地で生活していたというから、ひょっとして虎や狼を警戒していたそのように、自分が身を置く周囲の安全を確かめることが、習い性となっているのだろうか》
飯田先生はそう思って推量してみたのだが、確かめようもなくて、未だに疑問のままにある。日本語の全くわからない董くんに、いや中国語で話しかける引揚者仲間にさえも無愛想でろくに返事をしない彼には、飯田先生が自ら尋ねることもできないし、だれかに尋いてみてもらうことも気がひける。
中国で使われている文字は漢字で、しかし今日の日本で使われている漢字とは異なっていて、簡体字と呼ばれている。それでも、やっぱり漢字は漢字である。だから、中国から引き揚げてきてこの夜間中学に入学してくる生徒のその多くが、漢字を“通訳”にして日本語にとりかかってゆける。
だが、董くんは文字を識らない。自分が話している中国語のその文字さえも識らない人に、日本語の文字(ひらがなやカタカナまでもある)を、読んで理解してもらえるようにしてゆかねばならない。
《学校へ行ったことがなくて、勉強もしたことがない董くんに、この先どのようにして日本語を教えていったらいいのかなあ》
飯田先生は、董くんを見ていると、もう半月にもなるのに、かえって日増しに途方にくれてしまう。
* * *
鄧さんは十七歳。このB組のなかでは最も年齡は若いのだが、B組の生徒としてはいちばんの先輩だ。
中国からきた日本語学級の人たちの多くが、満州とよばれてきた東北部から引き揚げてきているのだが、彼女も吉林省からだ。
鄧さんのお母さんも、やはり満蒙開拓団の日本人夫婦のあいだに生まれている。鄧さんにとっては母方の祖父母であるその夫婦は、敗戦となって日本へ戻ってきた。だが、当時五歳だった女の子は、中国人の養女となって長春に残された。
子どもだった鄧さんのお母さんが、中国人夫婦の養女となってからの暮らしぶりとそのなかでの思いのうちは、陳くんのお母さんと似たようなものだったのだろうか、ただただ想像してみるよりない。
やがて彼女も、当然のことだけれど、年ごろの娘に成長する。養い親が彼女の縁談を進めて、やがて中国人男性と結婚した。自分が好きになった相手との結婚というわけではなかったようだが、それでも日本人の娘としてではなく、中国人女性として結婚できたのだから、幸福な結婚生活だったのだろう。
もともとはと言うなら、養い親となった中国人夫婦が、鄧さんの母親を、本当の子として、すなわち“中国人の子”として育ててくれた、そのお蔭なのだろう。結婚した相手の男性も、また嫁した先の舅姑夫婦も、鄧さんの母親を中国人女性そのものとして扱ってくれた。つまり日本人の娘であるというその素性は、徹底して秘匿されていた。
やがて二人のあいだに、娘である鄧さんが生まれた。彼女の家の場合は、暮らしのほども周囲に比して余裕があったらしく、その点でもしあわせだったようだ。
しあわせと言うなら、“純粋な中国人の娘”とされて育てられてきていたほうが、ずうっと大きいかもしれなかった。母親が日本人だという境遇の子どもたちが、それゆえに蒙りまた受けてきたような辛い目に、鄧さんは一度も遭うことなくきたのだったから。
それなのに、である。
ある日突然に、母親から、とんでもないことを聞かされた。
――実はね、お母さんは、日本人なんだよ。お母さんの両親は日本人なの。それでね、お父さんと別れて、お母さんの両親のいる日本に帰ることにしたの。おまえは日本へ連れて行くからね。
鄧さんにとっては、まったく青天の霹靂だった。びっくり仰天した。
《なぜ、なに、どういうこと?》《何で?》《どうなるの?》……
いくら狼狽し、頭のなかが混乱しても、彼女にとって進み得る道は一つしかなかった。
きのうまですべてに中国人の子であった者が、その日を境にして、母親が日本人であるという、すなわち“半分は日本人の子ども”となったとしてみよう。“半分は日本人の子”というのは、長春のそこでは“すべてが日本人の子”であるということに、等しくなってしまう。
そうなっては、いじめと嘲笑のつらい日々が始まることは、定めというべきほどに目に見えている。きのうまでは、まるきり中国人としてふるまってきていたのだから、なおさらだろう。こんどから日本人の子として扱われるようになったら、どれほど自分に対しての反動が大きいか。そうしたことが、切実に推量された。
衝撃と混乱のままに、鄧さんは日本に来ることになった。
母親と二人して日本に来て、江東区にある都営住宅をあてがわれ、生活保護を受けて、こうしてこの夜間中学校の日本語学級に通っているのだ。
* * *
B組は、全く日本語が話せない、わからない、もしくはほとんどそれに準じるという人たちが、まず入るクラスになっている。
ということはまた、なんとか日本語が聞き取れて、日本語で自分の意志が伝えられるようになりさえすれば、このクラスを卒業してA組に入りゆくことになっている――ということでもあるのだ。
鄧さんの日本語の習得は、めざましい。授業ちゅうも、飯田先生の話すことを、緩むことなく聞いている。黒板に書く文字の一字一字をも、食い入るように目で追っている。ことばに対する勘の働きもいい。
鄧さんは、飯田先生や増澤先生との簡単なやりとりなら、なんとかできるところにまできている。さっきだって、飯田先生に「先生、中国語、じょうずですねえ」と言って応酬してきたくらいだ。
だから、鄧さんは、ちょっと無理を押せば、もうA組に行かせてもいいくらいの域にきている。だが、いましばらく、B組に残らねばならない。
そのわけというべきは、先生たちの都合にある。鄧さんにいま少しB組に残ってもらっていて、そのあいだ陳くんや董くんへの通訳をも、してもらわなくてはならない。
飯田先生だって増澤先生だって、中国語や韓国語に通じているといえるほどではない。話すのだって“かたこと”がやっとの程度だし、聞き取るのだってそうそう容易にできはしないのだ。
――そんなんで、よくも日本語学級の先生をやっているなあ。
と、だれかしらからそう言われてもしかたがない。自身の胸のうちにだって、そう思わないでもないのだ。
だが、もしもそう言って来る人がいたら、そんな人には、飯田先生は「いつでも、すぐに代ってあげますよ」と言うつもりでやっているのだ。
とにもかくにも、もう少しのあいだ、陳くんがちょうど鄧さんくらいにまで日本語がわかるようになってきてくれるまでのあいだ、飯田先生も増澤先生も、鄧さんを賴りにしながら授業をしてゆこう思っているのだ。
(三)
給食を挟んでの、二時間つづきの日本語学級B組の授業が終わった。
飯田先生は職員室へ戻って来た。
職員室では、見知らぬ親娘が、主事の綿藤先生と向かい合っていた。
――ああ、飯田先生、日本語学級の入学希望者の、小宮さんです。
綿藤先生がそう言って呼びかけた。飯田先生が戻って来るのを、みな待ちかねていたかのようだった。
飯田先生は、親娘に向かって「こんばんは」と挨拶しながら近寄って行った。
母親のほうは、疑いぶかそうな表情を見せて、それでも小さく会訳しながら小声で挨拶を返して寄こした。しかし、娘さんのほうは、まったく無表情にただ視線を投げてよこしただけだった。
――小宮さんは、ブラジルからの引き揚げだそうです。
――えつ、ブラジルからですか!?
――おじいさんが移民で行ったんだそうですが、うまくゆかないままに向こうで亡くなられたそうです。それで、こちらのお母さんの代になって、つい最近に日本へ帰ってきたんだという話です。
――…………。
――で、こちらはその娘さん。小宮洋子さん。それでさ、洋子さんは、ブラジル語しかわからないそうです。
《そ、そんな》
飯田先生は心のなかで悲鳴をあげた。
都内にある夜間中学の、よその日本語学級にも、いろいろな国から来た人たちが入学してくるという。
在日の朝鮮人の、年配の人たちがいる。ヴェトナムから来た人もいるとも聞いた。その人はヴェトナム戦争中は、ヴェトコンのゲリラだったとかいう話だった。ロシアから引き揚げてきた人がいる。ペルーから、やはり移民に失敗して引き揚げてきた人もいたという。この学校にだって、この春まではマレーシアから来た華僑の青年がいた。
だからして、ブラジルから引き揚げて来たという人が、こうして入学を希望してきたからといって、驚くべきことではないのだ。
しかし、それでも授業をする身にとっては、いやましに大変になるばかりなのだ。いまだって日本語学級で、飯田先生は、目いっぱいこんがらかって授業をしている。
時にはかたことの中国語や朝鮮語をも交えて、している。もちろんそれだって、かなりいいかげんで怪しげなものだけれど。
それやこれやをしてでも、なんとか日本語を教えてやろうと思って、四苦八苦して授業をしているというのに、このうえさらに「ブラジル語でなくてはわからない」などという人を加えて、どうやって授業をしていけばいいのだろう……。
飯田先生は内心うろたえた。
うろたえながら、つい今しがた見た、母親のなにやら疑念に満ちた表情を思った。あれは、
《こんな教師にブラジル語がわかるのだろうか》
という疑念だったのだろうか。飯田先生の内心の動揺を、もう疾うに見透かしていたからかもしれない。
そう思いやるにつけて、飯田先生はなんとも言えない気持ちになった。
その晩、ようように家に帰った飯田先生は、風呂上りの夜遅く、外国語について説明してある本を見た。
ブラジル語というのは、その主体はポルトガル語で、ブラジルではそれも当然なことなのだが、ブラジル訛りとなっていることばだと知った。
そうして、ポルトガル語では、「こんばんは」は「ボア ノイチ」と言うとあった。
まずはそれだけ確かめると、飯田先生は「ふうーっ」と大きな息をした。
【第四章】
(一)
長かった夏休みも、まもなく終わる。
あと数日で二学期が始まるという、そんなある日、飯田先生は、用事があって学校へ行った。同じ用件で先に来ていた主事の綿藤先生が、飯田先生を見つけて話しかけてきた。
――飯田さん、二学期からの入学希望が四人いるんだけどね、ぜんぶ引き揚げの子たちなんだよ。
――うーん、また増えるんですか。
日本語学級が膨張してゆくことは、飯田先生としてもふだんから覚悟している。覚悟はしているのだけれど、そうではあってみても、生徒が増えれば増えるほどに対応がたいへんになっていくことを思いやって、飯田先生は思わず溜め息をついた。
綿藤先生も苦笑して言う。
――ただねえ。一人だけ、五年まえに韓国から来たっていう人がいるんですよ。女の人だけどね。ぼくが話してみたところでは、日本語がぺらぺらなんで、一年生の普通学級でもいいんじゃないかと思って。本人もそう希望してるし。
――へええ。たとえ一人だけであっても、そりやあ助かりますねえ。
――それにさ、普通学級のほうだっても少しは増えてほしいしね。
* * *
二学期が始まった。
夏休みは長い。夜間中学の夏休みも昼の中学校と同じで、七月の下旬から八月いっぱいが夏休みだった。
学校が休みのあいだには、夜間部にも林間学校などの行事がある。だから、そうした行事に參加してくれた生徒たちについては多少なりとも消息がつかめるのだが、そうばかりにはゆかない。
なにしろ長い休みだ。学校が休みのあいだに、学校や勉強から離れているあいだに、ついつい勉強をつづけることが嫌になってしまうなんていう人も、毎年ひとりふたりは出てくる。中学生だとはいっても、夜間中学の生徒たちは、子どもたちではなくて、青年たちであり大人たちなのだ。だから、一箇月以上にも及ぶ休みのあいだには、仕事やら恋愛やら何やらのできごとが起こることも少なからずあって、二学期になってみたら姿を見せなくなってしまう人もいる。
今年も、二年生にひとり出てきた。だが、一年生にはそうした人はいなかった。一年生の担任の飯田先生としては、やれやれひと安心だ。
その飯田先生が担任する一年生のクラスに、篠山さんが入ってきた。綿藤先生が話していたその人だ。
篠山さんは、小柄な女性だった。小柄ではあるのだがふっくらしていて、頭がちのうえに、はっきりした顔つきをしている。眼鏡をかけていて、その眼鏡の向こうに吊り上った細い目がある。その目が強い光を放っている。
吊り上った鋭い目で、まっすぐに見る。そんなだから、まるで睨みつけられているかのように感じられる。
夜間中学に入学してくる人たちは、ほとんどの人が勉強しようと決意して入ってくる。たいていの人が
《こんどこそ、ちゃんと勉強しよう》
という気持ちになって入学してきている。
そうしたなかでも、篠山さんは、勉強に対して最も強く決心をみなぎらせて入って来た生徒の一人だ。
二十六歳で、未だ結婚してはいない。「娘さん」というべきなのだろうけれど、見た目には「おばさん」というほうがぴったりする感じだ。二十六歳の飯田先生とは同じ年齢だけれど、ずうっと年上に見える。
――教科書を渡しますから、職員室へ来てください。
飯田先生からそう言われて、篠山さんは口許をゆるめた。きびしかった目つきもゆるんでいる。いかにも嬉しそうに飯田先生の後について職員室に来た。
飯田先生は、中学一年生用の教科書と、全学年が共通して使うのに必要なぶんを補って、それらをひと揃い自分の机の上に積み上げた。
――これだけあるけれど、持てるかな?
飯田先生がそう言うと、篠山さんはきっとした表情に戻って、
――持てます。
と、きっぱり言った。
篠山さんは、教科書のすべてを大事そうに取りあげ、両腕で胸にかかえた。
――ありがとうございます。
飯田先生にそう言ってから、背を向けて歩き出した。
職員室の端の壁際に、生徒たちひとりひとりに割り当てたロッカーがある。生徒たちの多くが、そこに教科書を置いている。ロッカーのそうした使いかたについては、篠山さんもまた学校へ来た早々に説明されてあるはずだった。
だが、篠山さんはロッカーには見向きもせず、教科書を胸に抱えたまま職員室を出て行った。
飯田先生はそんな姿を見送りながら、少しく心は穏やかでなかった。
はたしてその日の給食休みに、篠山さんはさっそく飯田先生のところへ来た。
――一時間目は理科だったんですけど、教科書を使わないで授業しているみたいなんです。どうしてなんですか。
――教科書を使わない授業は、理科だけじゃあないんですよ。私の国語の授業でも教科書は使っていません。
篠山さんは、めがねの奥の細い目をいっそう吊り上げて、飯田先生をにらみつけるようにして言った。
――先生、どうして、教科書を使わないんですか。
――うーん、……。
飯田先生は、こまったように苦笑いをしている。
篠山さんは苛立たしそうに、強い口調でたたみかけた。
――わたし、教科書を使って勉強するほうがいいんですけど。
――できれば、本当はそうできるといいんだけれどねえ、……。
飯田先生としては、あいまいに答えざるを得ない。
――教科書を使わないで勉強するっていうと、何をどんなふうに勉強するんですか?
篠山さんは重ねてきっとした声で尋いた。とがめるような声に、しかしやっぱり飯田先生は小さくほほえみながら、こう答えるよりなかった。
――少しのあいだ、篠山さんがこの学校に慣れるまでのあいだ、もう少し様子をみていてください。
飯田先生にそう言われて、篠山さんは不承不承の顔つきで、教室に戻って行った。
篠山さんは、およそ五年前に、韓国から日本へ来た。
もともと篠山さんの祖父母が日本人で、だからお母さんも日本人である。だが、父親は韓国人だ。篠山さんやお母さんは日本にいるけれど、父親は今も韓国にいる。日本に帰り来る何年か前に、もうすでにお母さんは父親と離婚していたのだそうで、四人の子どもたちを抱えて必死に生き、その子どもたちを連れて帰って来た。
金田さんが兵隊として、中国の東北部へ行ったその少し前にでもなるのだろうか。篠山さんのお母さんの両親は、朝鮮半島へ渡って行った。
当時の日本は、朝鮮半島を属国にして、治めようとしているということだった。いずれは中国の満州地方さえも、日本が治めるのだ。だからこそ、朝鮮や満州の地には、国内よりももっともっと未来がある――そう聞かされて、それを信じて、まだ若かった祖父母は朝鮮へ行ったという。
彼の地を植民地にしようという目論見は、しかし成らなかった。最初のうちは勢いもあったみたいだったが、結局は戦争となり、どっこい日本は戦争に負けてしまった。
日本が戦争に負けたあと、祖父母は相次いで彼の地で亡くなった。そうして篠山さんのお母さんは、そのまま朝鮮に残された。
第二次世界大戦が終結すると、朝鮮半島は、北緯三十八度線を界に、北朝鮮と韓国とに分けられた。篠山さんのお母さんは、韓国の公州に住んで、やがて韓国人の男性と結婚し、さらに釜山に出て暮らしてきたのだった。
それから三十年ちかく経った。四人の子どもの母親となっていた彼女は、足掛け六年まえ、正味で五年と少しまえに、日本に引き揚げてきていたのだった。
こうした話は、入学を希望して来たときに彼女と面談した綿藤先生から、伝え聞いてはいる。
しかし、この先のことを考えやるにつけても、飯田先生は、《篠山さんともっと話をし、彼女の胸のうちを聞いておこう》と思うのだった。
* * *
校門から二百メートルほど先へ行くと、バスの停留所がある。篠山さんがいるのを確かめながら、飯田先生が急ぎ足で寄って行った。
――あら、飯田先生。先生もここのバスに乗るんですか?
篠山さんがちょっと驚いたように尋いた。
――うん。そうなんだ。今夜はね。ふだんは電車で通っているんだけれどね。でも、暑いうちはバスで行き来しようかとも考えてさ。どちらがいいか、乗ってみて決めようと思ってね。
飯田先生がそう答えているうちにも、最終便のバスが来た。
バスに乗り込むと、腰を下ろす暇もなくバスは走り出した。
バスのなかには他には乗客はいなくて、飯田先生と篠山さんと、二人だけが客だった。
バスのなかは、だからがらんとしていたのだけれど、先生と生徒だから、離れ離れになって坐るのもおかしい。それで、飯田先生は後ろのほうの座席に篠山さんを誘って、そのとなりに並んで坐った。
篠山さんはきつい目をして、飯田先生を見ている。
《なぜに飯田先生が、自分の乗るバスに乗ろうとしてきたのか》
と、いぶかっているにちがいない。
――私はね、文京区に住んでいるんです。私がアパートから学校まで来る方法は、二通りあるんです。
――…………。
――篠山さんに地理的な経路が、じゅうぶんによく解るかどうかはわからないけれど、地下鉄の丸の内線で御茶ノ水まで出て、総武線に乗り換え、そこから亀戸まで来て、また東武線に乗り換えて来るのが一つ。もう一つは、バスで上野広小路まで出て、そこからまた学校の前を通るこのバスに乗り経いで来るんですよ。
――…………。
――もちろん、帰りはその逆になるけれどね。一つめのほうは、三つも鉄道を乗り経ぐのだから、めんどうと言えばめんどう。だけれど、それでもどのくらい時間がかかるか、おおよそ一定した時間が計算できるんですよ。それにひきかえて、後のほうの二つの都バスを乗り経ぐほうは、乗り換えは一度だけだけれど、時刻表どおりにバスが来なかったり道が混んでいたりで、ずうっと時間がかかってしまうのがふつうなんだけれどね。まあ、どちらにしても、たいそう不便な通勤ですよ。
――わたしは早く家に帰りたいのに……。
篠山さんはそこまで言って、なおも不審そうに飯田先生を見た。
飯田先生はことばをつづけた。
――どうして、より時間のかかるバスなんぞで帰ろうというのかというとね、電車は混むでしょう。やっぱり暑苦しいからねえ。そこへいくとバスのほうは、上野まではいつでもこうして坐れるし、窓からの風にも当たれるからさ。それでもって、夏場はバスにし、冬場は電車にしてみようかなあとも思ったりしているわけなんですよ。
そう聞いて、やっと篠山さんはいくぶんか表情をゆるめて、飯田先生を見た。
――篠山さんは王子に住んでいるんだったよね。上野まで出て、そこから電車なんでしょう?
――ええ。わたしも田端で乗り換えをして、帰るんです。
――どのくらいの時間がかかるの?
――学校を出てから家に帰るまでに、一時間半から二時間ちかくかかります。
――そのくらいはかかるだろうなあ。もっと自宅に近い荒川区なんかにも、夜間中学があるけれど、……。
――ええ。知っています。調べてみたんです。でも、この学校に通って来るのは、職場がここの学校にいちばん近いから。荒川の夜間中学に行ったら、授業が半分以上終わってからでないと、学校に着かないから。
――そうなんだ。
――わたし、うんと勉強したいんです。だから、遅れて学校に行くなんていうこと、いやなんです。ちょっとでもたくさん勉強しないと……。
篠山さんの目は、強い決意を湛えている。そうした目で、まるで飯田先生を射るかのように見る。
――韓国では、あまり勉強しなかったの?
――ええ。いくらも勉強しませんでした。わたし、韓国では、小学校の三年生くらいまで、なんとか学校に行ったんです。でも、父が病気になってしまったものですから、やめなければならなかったんです。
――お父さんの病気で……ですか。それっきり?
――いいえ。そのころは、韓国では小学校にも夜間部があったものですから、四年生に入学したんです。でも、じきに、四年生も終わらないうちに、やめてしまったんです。
――どうして?
――「どうして」って、そりやあ、うちが貧しかったからですよ。毎月の月謝も払えなかったりで……。
――…………。
――十三歳のときに、韓国の夜間中学にも入ったんですよ。でも、やっぱり最後までつづけられなくて……。
――うーん、そうだったんですか。
――わたしは韓国で、何も勉強してこなかったと同じなんですよ。貧しくて、いくらも学校へ通えなかったんです。学校で勉強するようなことは、私はいくらも知らないんです。
――それで、今になってこうして夜間中学に来ることにしたんだね。
――ええ。せめて中学校くらいまでのことでもいいから、今からでもなんとか勉強したいんです。
――五年前に日本へ来たそうだね。
――そうですよ。本当はすぐにでも勉強したかったんだけれど、そんなことできないでしょ。下に妹や弟たちがいるし、私が働かないと家はやっていけないし。
――…………。
――もちろん、ことばもわからないし。わたしは日本語はなにもわからないでしょ。小さなときから、朝鮮語を使っていただけだったから。日本語がわからなくちゃ、学校へ行きようがないですから。
――日本語学級で教えている私が「そうだ」なんて言ってはいけないのかもしれないけれど、それはそうかもしれないね。
――日本に来てすぐに、親戚を頼って、お母さんといっしょに同じ会社に勤めたんです。日本語をタダで教えてくれる学校があるなんて知らなかったし、知っていても、働いて生活していかなくちゃならないから、とても来られなかったけれど。まず日本語を覚えてからでないと、何もできないと思っていたから……。
――なるほどね。それで日本語がわかるようになったから、学校へも来ることができるようになったというわけか。
――でも先生、そんなに簡単なもんじゃないんですよ。母は韓国で無理をしてきたせいか、このごろは体も弱ってきているし、妹や弟だって学校を出してやらなけりゃならないんです。わたしが働いて、お給料を入れないと、うちはやっていけないんです。
――うーん。
――そんなだから、わたしはとても結婚はできないだろうけれど、せめていつでもどこでも日本人の女としてふつうに話ができるように、ちゃんとした勉強はしておきたいんです。これまでの五年間、毎日まいにち、そう考えていたんです。夜間中学のことを知ったものですから、思いきってお母さんに相談したんです。「働きながら勉強したい人のために、夜に教えてくれる中学校もあるんだってよ」って。そうしたら母は「だけどねえ、うちには学校へ行かせるようなお金がないし」って。
――…………。
――「それが、中学校で、義務教育のうちだし、お金もかからないっていう話なの。そこなら私だって通えるんじゃないのかなあ。学校へ行って、わたし、勉強したいの。今までどおりに仕事もしてのことだから、通わせて」って、なんどもなんども賴んだんですよ。そんなことを繰り返していて、やっとこのごろになって「昼間ちゃんと働いて、それから学校へ行くのならいいよ」って、母が言ってくれたんです。それで二学期になって、途中からなんだけれど、こうして入学してきたんです。
――そうだったの。でも、勉強できるようになって、ほんとうによかったね。
――いまでは、ひらがなやカタカナはなんとか覚えました。漢字はまだまだですが、早く読んだり書いたりもできるようになりたいんです。
――もうだいぶん漢字なんかも読めるみたいじゃないの。
――いいえ、まだまだですよ。
篠山さんは口では否定しながらも、まんざらでもない表情をしてみせた。
そうして、いちど遠くを見つめるような目をしてから、また飯田先生を見た。
――あのねえ、先生。
――はい、……。
――日本は小学校も中学校も、義務教育で、授業料はいらないし、教科書もタダでくれるでしょ。
――ええ。
――韓国はそうじゃないんですよ。教科書だって、みんな買わなければならないんです。新しいのを買えない人は、だれか持っている人から譲ってもらうとかするんだけれど、それだってタダでというわけにはゆかないんです。
――…………。
――わたしのうちは、貧しくて、教科書が買えなかっただけじゃないんです。鉛筆もノートも、なかなか買えなかったんです。
――…………。
――一年生のころは、それでもなんとか学校へ行っていたんです。でも、二年生、三年生となってくると、恥ずかしくて悲しくて、学校へ行けなくなってきちゃったんです。鉛筆もノートも持たず、教科書も無しに、学校に行けますか、先生?
――うーん、……。
――そんなくらい、貧しかったんですよ、わたしのうちは。
――…………。
――韓国では教科書は買えなかったし、借りることもできなかったんです。手にできなかったんです。でも、この日本でだったらそうじゃない。「中学校に入れさえすれば、ちゃんと自分の教科書を手にすることができるんだわ。そうして、教科書をもらったら、書かれていることをしっかり覚えて、ちゃんとした日本人の女になろう」って。そう決心していたんです。教科書をもらって、それで勉強するのを楽しみにしていたんです。
――…………。
そこまで聞かされれば、飯田先生には充分だった。篠山さんにしても、その先は言わずもがなだった。
飯田先生は、我がことのように辛く思われてきて、返答に窮した。ただ黙って篠山さんを見返した。
(二)
飯田先生は、以前に聞いた綿藤先生の話を思い出す。
――これまでに夜間部で教えてきて、いちばん印象に残っている生徒は、どんな生徒だったんですか?
何かの折りに、夜間中学の教師としての経験も長く、そうして今は主事の任にある綿藤先生に、飯田先生がそう尋いたことがあった。
すると綿藤先生は、
――そうねえ。……、やっぱり、ぼくが初めて夜間部に来たときに出会った、あの生徒だなあ。
と言って、話し出した。
――沖繩から出てきた青年でね。沖繩が日本に返還されて、まもなくだったのかなあ。とにかく、そんなんで東京に出て来て、働き始めたらしいんだ。その青年がね、沖繩では中学校へもろくすっぽ通わなかったそうで、「もういちど、ちゃんと勉強しなおしたい」と言って入学してきたんですよ。
――沖繩から出て来た青年ですか……。
――それでさ、彼ときたら、初日ふつか、えらくはりきっていてね、こっちもやる気にさせられてさ。それが、三日目から音も沙汰も無しにふっつりと来なくなっちゃったのよ。
――どうして?
――それがさ、訳がわからないのよ。こっちもなんだか当てが外れたみたいなもんでさ。でも、そのまんまでそれきりにもできないじゃない。しかたがないから、仕事先に尋ねて行ったわけよ。
――仕事先にはちゃんと元気でいた?
――いるにはいたの。病気だのなんだのでもなくて、働いてはいるんだけれど、まるで元気が無くなってしまったんだって。上司だっていう人がさ、「それがどうも夜間中学の所為らしい」なんて言うのよ。
――あらあら、……
――それで本人に会って、尋いてみたのさ。「何が嫌で、どうして来ないのか」って。それがねえ、なかなかわけを言わないんだ。あれやこれやなだめすかしてさ、やっとのことに尋き出したんだけれどね。とうとう話してくれたよ。
――なんて言ったんですか?
――「教科書をドサッと渡されて、それだけだってたまげたのに、ぱらぱらとめくって見たら、何がなんだかわからないことがいっぱい書いてあって、こんなにたくさん、こんなことを勉強しなくちゃならないのかと思ったら、怖くなった。それで嫌になって、学校へ行くのをやめちゃったんだ」ってさ。
――なるほどねえ……。その青年の身になってみれば、そんな気持ちもわからないではないですね。
――ああ。それでさ、一所懸命に説得してさ。「教科書は渡すことになっているから渡したけれど、授業ではそんなのは使わないから、心配しなくていい。だいじょうぶだよ」「教科書が読めないと勉強できない、なんていうんじゃない。教科書なしで勉強するんだから」ってさ。最後には、なんとか思いなおして来てくれることになってさ。
――よかったですねえ。せっかく来てくれたのに、教科書を見ただけで逃げ出されてもせつないものねえ。
そう言って、飯田先生は綿藤先生と二人でうなずき合ったのだった。
(三)
飯田先生は、少しのあいだ、列車での通勤から、バスを乗り継ぐ方途に切り替えることにした。
先日の晩に聞いた篠山さんの話ときたら、たいそう迫力があって、飯田先生には思いもよらない話だった。しばらくのあいだバスに乗り、篠山さんと乗り合わせて、もっと話を聞く機会が得られたらいいなと、そう思ったからだ。
尤も、そう思ってバスでの通勤に切り替えてはみたものの、その後は、乗り込んだバスのなかには、それがあたりまえのことだけれども毎度けっこう乗客がいた。
大宮から通ってきている岩田先生も、上野まで同じ路線のバスに乗る。その岩田先生は、生徒のことなど一切触れたくもないような人だ。一緒に乗り合わせたら、篠山さんがらみの話もできない。
乗客が、篠山さんと飯田先生らのほかには、ほとんどいないなどという晩は、滅多にあることではなかった。
バスのなかで親しく話をすることさえ憚られるよう晩もあったし、だからして、そうそう彼女の身の上話が聞けるわけでもなかった。そんな時は、学校生活や世の中の動きのあれやこれやについて、あたりさわりのない話をし、意見を聞き、感想を述べたりするのがせいぜいだった。
それでも、そうやって幾晩か乗り合わせているうちに、すこしずつ、韓国にいたころのことや、日本へきてからの暮らしぶりなどをも、篠山さんは語ってくれた。
――わたし、「韓国では貧しくて、学校に行けなかった」って、言ったでしょ。
――うん、そう聞いたねえ。
――でもね、わたしのうちだけが貧しかったわけじゃなくて、公州でも釜山でも、周りはたいていみんな貧しかったんです。
――…………。
――ただ、わたしのうちは特に貧しかったんですよ。父は働いてはいたけれど、入ってきた給料はあらかたお酒で消えちゃうんです。
――…………。
――ほら、母が日本人でしょ。だから、父は、仕事場でもどこでも「おまえの妻は日本人だ」っていうので馬鹿にされたり、いじめられたり、差別されたんです。それで、家に帰って来ると、こんどは母やわたしに当たり散らして、お酒を飲むんです。父は父で、お酒でも飲まなくちゃいられなかったんだと思うんです。そんなこともあって、病気にもなったんだろうなって、今は思うんですけれどもね。でも、そのころは、母もわたしもやっぱり周りからはいじめられていたし、守ってほしい父からも当たり散らされて、悲しくて悔しくて……。
語るうちにも篠山さんは、涙ぐんで目をしばたいた。飯田先生の目もうるんできた。
――貧しくて、ほんとうに悲しかったことで、忘れられないことがあるんです。わたし、長女なんですけどね、妹が生まれ、それから弟や妹ができて、……。
――四人きょうだいだったよね。
――ええ、……。いま、下の三人とも日本に来ていますけれど……。でもね、その下にも、妹や弟ができたことがあるんです。
――できたことがある?
――…………。
篠山さんはことばを飲み込んだまま、そこでちょっと目を閉じた。それから目を見開いて、あらためて飯田先生を見た。
――先生、エナって知っているでしょ。
こんな話の成り行きのなかでエナということばを持ち出されたら、母親のおなかで胎児を包んでいるところの、羊膜や胎盤のことを言うのにちがいなかろう。
――赤ちゃんの?
――そう、赤ん坊のエナなんですけどね。
――…………。
――母の産んだ五番めの子は、死産だったんです。それから後にも産まれたんだけど、六番めもやっぱり死産だったんです。
――…………。
――死産で生まれてきた子どもは、葬ってあげたんですけれどもね、……。
――…………。
――でも、そのたびに、母が、わたしに「エナを棄ててきておくれ」って言うんです。それで、わたし、……、わたしも女だからエナをきたないなんて言つちゃいけないんだけれど、子どもにはきれいなもんじゃないでしょ。それを藁みたいなものに包んで、他人に見られないように両腕に抱えて、夜、海に棄てに行くんです。
――…………。
――月の光だけで暗い浜辺を、私ひとりが、海に向かって歩いて行くんです。波の音だけが、ザザーザザーって聞こえて。海に着いたら、波に乗せて棄てて。心細いのと悲しいのと、……。
――…………。
――わからないけれど、ほんとうはこんなことはしてはいけないことなんだろうなあと思ったりして、……。やっぱりしかたないこともわかるし、……、わたし、「貧しくなければ、こんな悲しいことしなくてすむのになあ」って思いながら、涙をぼろぼろ流しながら、家に帰ったんです。そんなことが二度。……。
――…………。
――四人も子どもがいて、それだけでも苦しいのに、このうえ子どもが産まれてきたら、生活できっこないということだったのかもしれない。
――…………。
貧しいがゆえに“死産だった”ということにされたのだろう赤ん坊の、その残骸であるエナを棄てに、夜の海に行かされたという。その時の篠山さんの気持ちは、飯田先生にはその半分とてもわかるまいが、それでもどんなにか辛く悲しいものだっただろうことは、容易に思いやることができる。
飯田先生は、ただ黙ったまま、目をうるませてて、小さくうなずいてみせるよりほかは、応じようがなくていた。
* * *
ある晩は、飯田先生は、自分が疑問に感じていたことを話題にしてみた。
――篠山さんは、日本へ引き揚げてきて、まだ五年と少し経つか経たないかでしょ。それなのに、日本語がとてもうまいよね。正直なところ、私としては信じ難いんですよ。ほんとうにびっくりしているんです。
飯田先生がそう言うと、篠山さんはふだんは吊り上ったきつい目をしているのだが、この時ばかりはいかにも嬉しそうに目元をゆるめた。
実際、篠山さんの日本語は、話すという点においては、ふつうの日本人の話す日本語とまったく変わらない。
飯田先生は、日本語学級で、これまでにも韓国や中国から引き揚げてきた人たちに、日本語を教えてきている。だから、よけいにそうした点に注意がいく。聞くほどに篠山さんの発音が、日本で生まれ育った純然たる日本人そのもののような発音であることに、驚嘆している。イントネィションも自然だし、表現も正確だ。
――韓国にいるときから、お母さんとは日本語を使っていたの?
――とんでもありません。母だって日本語なんて使っていなかったんです。日本人であることは少しでも隠しておきたかったし。もし仮に、日本人だって知られていても、使うのは朝鮮語、ハングルでないと……。日本語なんて使っていれば、どこでどんな目にあわされるかしれなかったわ。
――…………。
――あのね、先生、母は日本人だけれど、残留孤児です。母の両親が日本人だったから、母も日本人だけれど、母が両親と暮らしていたのは十一歳のころまでだったそうで、あとはずうっと韓国にいたんです。だから、ほとんどハングルで話していたんです。
――ということは、もちろん篠山さんも、ずうっとハングルで話をしていたということでしょ。いやあ、ハングルのほうは上手かどうだったかは知らないけれど、日本語はほとんど完璧だよ。発音からことばの使いかたまで、どこから見ても、いや、どこを聞いても日本人と変わらないもの。日本に来て五年ばかりで、こんなに上手に使えるようになるなんて、とても信じられないことです。
飯田先生があらためて感心すると、篠山さんは得たりといった表情をした。
――母は日本に来て、子どものころに日本語を使っていたから、じきに思い出したみたいなんです。それでも、母よりもわたしの日本語のほうが上手なくらいだって、職場の人たちは言うんです。
――妹さんたちは?
――妹や弟たちは、日本に来てすぐに、ひと月くらいで、中学校や小学校へ通い始めたんです。
――妹さんや弟さんたちの日本語は?
――やっぱりちょっと違うかな。わたしがいちばん上手みたい。
――そうだろうなあ。韓国に限らず、外国から日本へ来て、五年いたって十年いたって、あなたみたいに日本人そのままに話せるようなるなんてわけには簡単にはゆかないもの……。
――わたし、ものすごく努力したんですよ、日本語を覚えるために。
――どんなふうに?
――会社へ行ったら、日本人の言うことばを、一所懸命に聞くの。少しずつ日本語を教えてもらうの。それを真似して発音するのよ。「ここがおかしい」とか「そこは違う」とか言われたら、何度も何度も発音して、「いい」と言われるまで、練習するの。毎日まいにち、その繰り返し。
――うーん、なるほどねえ。
――みんなに笑われたり、飽きられたり、嫌がられたりしても、「教えてください、教えてください」って賴んで、教えてもらったんです。
――…………。
――妹たちは、わたしみたいにして日本語を覚えようとしなかったから、一緒に日本に来てもいまだにあまり上手にならないんです。
――こうやって話していても、篠山さんの日本語には少しもおかしなところは無いし、発音やイントネィションも日本人そのままだよねえ。話すほうばかりじゃなくて、聞くほうもそう。私の言うことばがわからないということも、無いものねえ。
――そうでしょうか。
――なによりも篠山さんが「しっかり日本語を覚えよう」という強い心がけを持っていたからだろうけれど、それでも容易なことではそうはいくものじゃない。すばらしいし、すごいことだなあ。
――わたしね、韓国ではほとんど勉強できなかった。日本へ来たら、一所懸命に日本語を覚えて、うんとうんと勉強して、いい日本人の女性になりたいと思っているんです。
――日本に来て五年ほどだよね。篠山さんは、日本人が、男も女も、お手本にしなければいけないほどに、すばらしい努力をしてきているんだものなあ。
――先生に、そうやってほめられると、うれしいですね。
――それにつけても、職場の人たちがいい先生になってくれていたっていうことだねぇ。
――うーん。……
篠山さんは、そこでちょっと言いよどみ、曖昧な顔つきをした。
それから、一呼吸置いたあとで、思いきるかのように、きっぱりした口調で言った。
――よくないところもあったんですよ。
――「よくないところもあった」って、どんなふうに?
――初めのうち、わたし、日本語が何もわからないでしょ。それで、男の人たちが、へんなことばを教えるのよ。こっちが一所懸命に発音を真似して言うと、みんなで笑うの。「ちんぼ」とか何とか、そういうのを私に言わせて、おもしろがって喜んでいたんです。つぎつぎにいやらしいことばを教えてたんですね。母のまえで使って、叱られて、やっと気づいたりしたんだけど……。
――…………。
飯田先生は返すことばが無くて、篠山さんを見て苦笑した。
だが、篠山さんは、鋭い目で飯田先生を見つめていた。どこに向けてなのか、どのような存在に対してのそれなのかは知れないけれど、篠山さんのその目には、たしかに強い抗議の色が宿っているように、飯田先生には見えるのだった。
【第五章】
(一)
二学期が始まって、かれこれ一箇月になろうとしている。昼間はいまだ残暑が厳しくて、道を歩くのにだって日蔭を探して歩いているくらいだが、夜は熱気も少しずつ和らいできている。ときおり涼しい風も吹いてくる。
九月も末にかかって、日はだいぶん短くなってきた。だから涼しくなってきているのも当然のように思われるのだけれど、それでもちょっと動き回れば、まだまだすぐに汗だくになってしまう。
しかし、多くの生徒たちは、汗をかくことを厭わない。給食後の休み時間には、校庭に出て、屋上から投じられている照明のもとで、ソフトボールに興じている。
飯田先生も校庭に出てきた。
今日は水曜日。三時間目と四時間目は二時間つづきで、美術科の時間割になっている。美術の時間は、日本語学級の生徒たちをも含めて、生徒全員で行なう授業だ。早い話、楢橋先生に任せておけばいい。
日本語を教える自分の出番は、今夜は給食をはさんで前後の一・二時間目だけだ。毎日毎時間の授業のために、追われ追われしながら作っている教材づくりも、美術の時間になんとかすればいい。
たまにのことではあるけれど、こうして手のすいているときには、生徒たちと一緒になって遊ぶこともしたい。
そう思って校庭に出てみて、飯田先生「あれッ」と思った。
花壇の縁に、美濃部くんがひとりぼっちで腰かけている。
他の生徒たちがソフトボールをしているのを、ぼんやり見ている。
最近では、給食後の休み時間には、雨さえ降っていなければ、生徒たちはきまって校庭に出てソフトボールで遊んでいる。それゆえに、ふだんからソフトボールに參加するにあっては、それなりの了解事項というものができあがっている。
ソフトボールをしようとする者は、誰しもが二人ずつの組になって、じゃんけんをする。勝った者同士、負けた者同士が互いにチームを組んで、攻守に分かれてしている。
校庭に出て来た順に、二人ずつペアとなってじゃんけんをする。じゃんけんの相手に、力量の差などは問わない。とにかく相手をみつけてじゃんけんをしては、勝ったら勝ったで、負けてももちろん、そのまますぐにチームに合流していく。
さらにはまた、そうしてチームに合流した順に、打撃の順番を迎え、あるいは空いた処へと守備に着く。少しでも多く打席を迎えてバッターボックスに立ちたければ、「早く校庭に出て行ってじゃんけんするべし」という約束になっている。
そんなくらいだから、もちろん人数は制限など無しで、その日その晩によって九人ずつになろうがなるまいが、何人だろうが頓着しない。
だがしかし、ひとりだけでじゃんけんの相手が見つからないような場合には、ときとしてどちらのチームにも合流できないなんていうことも、ままある。
今夜もそうなってしまって、ひとり美濃部くんだけがはみ出してしまったのだろうか。
美濃部くんは、ふだんソフトボールに加わってはいない。今夜ばかり「いざ仲間に入ってソフトボールをしよう」と思っても、じゃんけんする相手探しからして、気後れしてしまったのかもしれない。
飯田先生もまた、相手を見つけてじゃんけんをしなくては、どちらのチームにだっても加わることができない。
《ちょうどいいぐあいに美濃部くんがいることよ》
飯田先生はそう思いながら、美濃部くんに近寄って行って声をかけた。
――美濃部くん、私とじゃんけんしよう。
すると美濃部くんは急いで立ち上がった。
が、困ったような顔を向けて、小さく首を振った。
――いえ、ぼくは……、できませんから。見ているだけでいいです。
――「見ているだけでいいです」って、ソフトボールをするつもりで出て来たんじゃないの?
――はあ、外のほうが涼しいから……。
すまなそうな表情をして、美濃部くんは飯田先生にそう答えた。
――「できない」だなんて、ソフトボールをしたことがなくても、そんなことは気にしなくていいんだよ。ほら、見てごらんよ。あの日本語学級の人たちだって、ソフトボールなんてみんなしたことがなかったんだしさ。
飯田先生は、美濃部くんを顔で促して、見やった。飯田先生の視線の先には、何人かの日本語学級の生徒たちの姿があった。
中国から引き揚げてきた人たちはみな、中国ではソフトボールなどしたことがなかった。女の子たちはもちろんのこと、男子生徒だってもそう。ほとんどの人たちが、ソフトボールにしても野球にしても、そうしたスポーツがあることすら知らないできた人たちだった。
それがこの夜間中学に来て、日本人の生徒たちが校庭でして遊んでいるのを見て、おもしろそうだと看取したものだから、少しずつ加わりはじめたのだ。そうこうしているうちに、後から来た人も誘われて、そのなかに入るようになっている。
普通学級の日本人の生徒たちだって、そのほとんどの人が腰が引けている。ついぞしたことがなかったのだろう。バットはただ当てにいくだけだ。女の生徒たちは言わずもがなで、男子生徒のなかにも恰好のつかない者はいっぱいいる。あらかたの者が、なかなかバットに球が当たらない。バットのほうに振り回されているみたいで、滑稽にも見える。
攻撃の姿がさまにならないだけじゃない、守備についてもそう。守っていて打球が来れば、あわてて逃げてしまったりもする。そうしたさまのどれもこれもが、敵にも味方にもお互いにおかしくて、キャッキャと笑いながら楽しくやっている。
上手だといえるのは、日本人の男子生徒のなかに、ひとりふたりいるだけ。あとはみんなお世辞にも巧いとは言えない。それでも、いやそれだからこそ、おもしろいし楽しいのだ。
――わからなくたって知らなくたって、かまわないよ。いくら下手だっていいのさ。一緒に入ってやろうよ。
飯田先生はそう言って、もういちど美濃部くんの顔を見た。
しかし、彼はきっぱりと、
――いえ、ぼくは、怖いのは嫌いですから、やりません。すみません。
と答えて、また縁石に腰を下ろしてしまった。
* * *
美濃部くんは、三十六歳。飯田先生より十歳も年上だ。
昨年の春に入学してきて、今は二年生。独身で、アパートに一人住まいをしているのだという。けっこう身長はあるのだが、いつも猫背かげんだし、痩せているから、それほど大きくは見えない。顔つきだって、眼鏡をかけているが、細面でいつも柔和な表情をしている。身の振る舞いも穏やかだし、ことばつきも丁寧で声もまた優しい。
今しがた飯田先生に声をかけられたときだって、すぐに立ち上がって答えたのも、美濃部くんは生徒として先生に対する礼儀でそうしたのだ。そうした振る舞いがきちんとできる人は、年齡にかかわらず、夜間中学の生徒のなかには少ない。だが、美濃部くんは自然にできる。
それにしても、である。いま校庭でみんながしているのは、ソフトボールと称するのも気恥ずかしいようなそれだ。
少なからずの人がこの夜間中学にきてから初めてしてみたというような、お互いさま腰のひけている、そうしてその姿が誰の目にも明らかなような、そんな遊びそのものだ。それなのに、そんなソフトボールとは言い丈「もどき」でしかない遊びでさえも怖いとなると、いささか尋常ではないだろう。
だが、彼に拒絶されてしまったのでは、飯田先生としてもしかたがない。彼の隣に並んで腰を下ろした。
――そうですか。あんなふうにボールを投げたり打ったりするのは、美濃部くんは怖いんだ。
――ええ。ぼくは、乱暴なのがきらいなんです。
――うーん。美濃部くんにはソフトボールなんかも、乱暴なゲームに見えるんだねえ。
――はあ。バットなんかを持って、振り回すんですよ。あんなのは、乱暴じゃありませんか、先生?
――うーん、そう言われるとねえ……。
飯田先生は、返答に窮した。
バットを持って振り回すのは、たしかに乱暴と言うなら乱暴だと言えなくはない。そんなことをするソフトボールが、怖いし、嫌いだと言われたら、それ以上は誘いようもない。
美濃部くんの気持ちが伝染して、飯田先生も、もはやソフトボールなどどうでもよくなった。
――美濃部くんは、子どものころにも野球なんかして遊んだりしたことはなかったんですか。
夜間部の先生たちは、男の生徒には「くん」をつけて呼ぶようにしている。そうして美濃部くんに対しても、他の同僚の先生たちと同様に、飯田先生はふだんそうしている。だから今も「美濃部くん」と呼んではいるのだが、それでも年齡は美濃部くんのほうが上だ。
先生から声をかけられればすぐに立ち上がって答えるほど、生徒として先生に礼儀正しい美濃部くんだ。だからこそ、話しているほどに、飯田先生もまたおのずと丁寧なことばづかいになってくる。
――野球なんて、いちどもしたことなかったですよ。
――男のきょうだいはいなかったんですか。
――ええ。ぼくは一人っ子だったんです。
――近所には、一緒に遊ぶような男の子たちとかも……。
――近所には同じくらいの年齡の子は何人かいたけれど、一緒に遊んだかどうか覚えていないなあ。
――きょうだいがいない、近所の子たちともあまり遊ばなかったというと、だれと遊んでいたの?
――だれと遊んでいたのかって言われると、うーん、……。ぼくは、いつもおばあちゃんと一緒だったなあ。
――おばあちゃんに可愛いがられていたんですね。
――ええ。ぼくは跡取り息子だからって、とても大事にしてくれたし、可愛がってくれたんです。
飯田先生は、黙ってうなずいた。
飯田先生も子どものころ、祖母に可愛がられて育ってきた。だから、美濃部くんと、またそのおばあちゃんの気持ちがよくわかるような気がするのだ。
自分の祖母のことを思い出して飯田先生が無言でいると、美濃部くんが遠くを見るような表情をしながら語り出した。
――思い出してみると、ぼくはほかの誰とも遊んだおぼえがないなあ。外へ出るときもいつもおばちゃんと一緒だったし。
そのことばに誘われて、飯田先生が尋ねた。
――それで、おばあちゃんは、まだお元気なの?
――いいえ。もう疾うに死んじゃって、いません。おばあちゃんが死んじゃってから、ぼく、学校へ行かなくなっちゃったんです。
――ええっ。ということは、あのさあ、おばあちゃんが、いつも美濃部くんを、学校へ連れて行ってくれてたってことなの?
――ええ、そうですよ。帰りも迎えに来てくれてたし。
――それでおばあちゃんが亡くなってからは、送り迎えが無くなって、学校に行かなくなったんですか。
――ええ。一人で学校へ行ったことがなかったものですから。
――近所の友だちと学校へ行くことはなかったの?
――だれも一緒に連れて行ってくれる人はいなかったなあ。
「わあーっ」と歓声があがった。
日本語学級の生徒のひとりが、長打をかっとばしたのだった。
敵味方のともどもが、わらわらしている。
校庭でプレーをしている彼らのだれもが、気づきもしないし見てもいないだろうけれど、飯田先生も遠く花壇のほうから拍手を送ってやった。
しかし、美濃部くんは、それでも無表情に見やったままでいる。
――跡取り息子として、仕事のほうはうまく行っているんですか?
向き直って、あらためて美濃部くんを見ながら、飯田先生は尋いた。
自分が担任している生徒たち以外の、他の学年の生徒たちの来歴や現況までは、飯田先生は、あまりよく知らない。自分の学年と日本語学級の生徒たちのことだけで、いっぱいいっぱいなのが正直なところだ。他の学年の生徒たちのあれやこれやは、問題児でもなければ、そうそう聞かされることもない。
だから、美濃部くんについては、年齡やひとり暮らししていることのほかは、なにも知らないに等しい。
飯田先生の問いかけに、美濃部くんはちょっと顔をしかめた。
それから、ぼそぼそと答えた。
――それが、おばあちゃんが死んで、両親の代になってから、仕事がうまくいかなくなってしまったんです。
――…………。
――家屋敷は手放してしまったし、家族がばらばらになってしまって……。それで、ぼくも今は一人で暮らしているんです。
――そうだったんですか……。
――それで、どんな仕事をするのにも、やっぱり少しは勉強しておかないといけないと思って、こうして夜間中学に来ているんです。
――…………。
――本当はこんなこと、あまり他人に話したことなかったんです。でもなんだか、話したら少し気分が楽になった気がするなあ。
――いやあ、余計なことまで聞いてしまって、ごめんね。
美濃部くんは「少し気分が楽になった」とは言ってくれたのだけれど、しかし飯田先生のほうは、気分はけっして軽くはならなかった。微笑みを返すことさえ、わざとらしい気がしてできないままだった。
美濃部くんのおばあちゃんにとって、小さなころの美濃部くんは、とてもかわいくて、またとても大切な孫だったのだ。そんなおばあちゃんの気持ちを、飯田先生とても他人事ながら、本当にありがたいと思わないではいられない。
けれどもまた、おばあちゃんがあまりにかわいがりすぎたものだから、おばあちゃん付きでなくては、美濃部くんは一人では学校にも行けない子になってしまった。
さらには家運の衰退もあり、それやこれやで、三十歳も半ばを超えるような年齡になった今になって、夜間中学に通って来ている。
そんな話をしているうちにも、給食後の休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。給食休みの終わりを告げるチャイムは、五分後に二時間目が始まる予鈴でもある。しかたのないことだけれど、夜間部の休み時間はいかにも短い。
飯田先生と美濃部くんの二人は、ちょうどいい潮時とばかりに腰をあげた。
が、校庭のソフトボールは、まだつづいている。みんな、本鈴が鳴るまで、時間を惜しんで目いっぱい遊ぶ。いつものことだ。
(二)
二学期の大きな学校行事として、運動会がある。そのことを、誰かから聞いてきたのだろう。
――先生、運動会、選手いいですか? ぼくたち、いいですか?
張くんが、食い入るような面もちで、飯田先生に尋ねてきた。
――もちろんです。夜間中学の運動会には、日本語学級の人たちも、みんな選手になって出るんですよ。
――だいじょうぶです?
――ははは、だいじょうぶですよ。みんな、自分の出たい種目を選んで、選手になって出てください。
――ほんと? 日本語学級の人も、選手あるね。
――そうだよ。
飯田先生がそう言うと、張くんは目を輝かせた。
「運動会に、選手となって出られる」というそのことを、張くんは繰り返し確かめて、飯田先生の返事に、やっとうれしそうなそぶりを見せた。
運動会といえば、今では小学校でするもの――ということになってしまっているのだろうか。昼間の中学校にあっては、もはや「運動会」と称していかにもそれらしく運動会をするところは、ほとんど無いようだ。
だが、夜間中学には、運動会がちゃんとある。毎年秋に、都区内にある七つの夜間中学校が寄り集まって、一緒に運動会を行なってきている。
自分たちの学校だけでは、運動会はできない。
世田谷区にある夜間中学の新星中学校あたりなら、生徒数も七十人以上もいるというから、やってできないこともないかもしれない。しかし一方で、葛飾区の夜間中学の双葉中学校などは、全生徒数が二十人といるかいないかだ。
どこの夜間中学も同じだけれど、学校がある日でも、全員が休まず出て来てくれるとはかぎらない。ましてや生徒数の少ない学校では、ふだんの体育の授業だって、バレーボールやバスケットボール、あるいはソフトボールなど、二チームに分かれて練習試合などをしようなどというときには、員数をそろえるだけでもやっとやっとだろう。
わが曳舟中学だって、運動会をとなったら、自分の学校だけでは、しようにもできない。
東京都内には、夜間中学はぜんぶで八校ある。このうち七校が二十三区内にあって、先生たちも生徒たちも、日ごろから交流をもっている。一校だけが郊外の八王子市にあって、ふだん交流するには遠すぎて、もろもろを一緒にはできないでいる。
都区内にある七校が集まってする運動会は、だから夜間中学にとっては、一大イヴェントとこそいうのにふさわしい。そうして当然の帰結として、学校対抗の意識を丸出しにした運動会になる。
例年のことだが、学校対抗の運動会となって、おおいに盛り上がる。そして、どの学校も、生徒たちも先生たちも、自分の学校が好成績をあげれば喜び、悔しい結果に終われば「来年こそは」と思うのもまた、当然のなりゆきというものだ。
――ひょっとして、リレーなんか、今年はうちが優勝できそうじゃない?
先日も、久野先生がそう口火を切って、増澤先生と飯田先生とのあいだで、運動会の話になった。
――そうよ。引き揚げの生徒たちに、運動のできる人たちがそろってきてるものねえ。
増澤先生がそう言って応じた。
――張くんとか恵功くんなんか、日本語学級の生徒たちのなかでも、とくに足が速そうだね。リレーの選手に選ばれたら、きっと張り切って走るだろうなあ。
と、飯田先生。
――普通学級のほうでも、菊池くんなんか足が速そうだし。
久野先生が期待をこめた声で言う。
都区内にある七つの夜間中学は、相互に連携してゆくために「東京都夜間中学研究会」という組織をつくっている。そうして、年にそれぞれ一回、研究大会を開いたり、合同で運動会を行なったり、美術の連合作品展を催したりなどの活動をしている。
さらには、ふだんから定期的に会合をもって、情報交換をしたり、教材研究などをしている。というよりも、そうした会合の積み重ねを通して、少しずつ全体でする運動会やら展覧会やらへの活動への準備をも進めているのだ。
それにつけても、都区内の夜間中学七校のうちには、体育の専任教師がいるような学校は一校もない。
久野先生は、研究会を通して、他の夜間中学の各校との交流を、先に立って熱心にしてきている。それゆえに、曳舟の夜間部の先生たちのあいだにあっては、実質的な運動会の責任者ともいうべき存在だ。それだけに、運動会のクライマックスにして学校対抗の究極であるリレーに、うちの学校が優勝することを、だれよりも熱望している。
* * *
張くんは十八歳。日本語学級A組のひとりだ。
去年の暮れまぢかに、黒龍江省から引き揚げてきて、十日と経たないうちにこの学校に入学してきた。
日本語学級の生徒たちの多くがそうであるそのように、彼の場合も母親が日本人で、残留孤児となっていた。父親は中国人。それで、彼も今はまだ中国籍だが、少しでも早く帰化申請して日本人になりたいと願っている。
張くんの入学の申し込みには、A組の先輩で三年生の王さんが、彼を連れて来て紹介し、ついでに通訳をしてくれた。その時、王さんは「張くんは、スポーツ、とてもじょうずよ」と言っていた。
その後、折りにふれて見ていると、たしかに張くんは運動能力にすぐれていることが、飯田先生にも実感できるのだった。
――張くんは、ほんとうにスポーツが得意みたいだね。
いつぞや、そう言って飯田先生が話しかけると、彼はいかにも嬉しそうに顔をほころばせた。
――ぼく、いちばん得意は、水泳。水泳ならなんでも速いよ。
《よくぞ聞いてくれました》という感じで、張くんは胸を張って答えた。
そのさまがあまりにほほえましくて、飯田先生が笑顔で、
――じゃあ、中国にいたときも、だいぶん活躍したんだろうねえ。
と言った。
ところが彼は、とたんにいやなことを言われたとでもいうように、不愉快な表情になった。
《何を……、何かいけないことを言ったのだろうか》
飯田先生は飯田先生で、内心にあわてた。
すると、張くんは、吐き出すように言った。
――中国いたとき、ぼく、おもしろくないだったよ。
飯田先生は、自分の言ったことが引き金になって、彼が気分を悪くしてしまったらしいことはわかった。だが「おもしろくない」というそれが、どんなことだったのかわからない。
《代表で出たことがあって、何か失敗でもしてしまったのだろうか》
しかし、そうだとすれば、それ以上は聞くには忍びないというものだ。
飯田先生が困惑しているのに、張くんも気づいたようだ。ほんのちょっと、ニッと口許にうすら笑いを浮かべてみせた。
いたしかたなく張くんの真似をして、飯田先生も同じように口許を小さくゆがめながら目尻を下げてみせた。
気分がほぐれたのだろう。張くんは自分から語り始めた。
――ぼく、水泳、とても速いかった。小学校も中学校も、みんな、水泳するとクラスの一番よ。クラス一番だけない。ぼく、学校の一番だったよ。そのこと、クラスの人、学校の人、みんな知ってるだった。
――ほう、……。
――だけど、ぼく、水泳の大会、一回も出たのこと、無いよ。
――どうして?
――選手えらぶのとき、ぼく、出してもらえないかった。ぼくのお母さん、日本人あるでしょ。日本人の子ども、絶対学校の代表なれない。
――…………。
――ぼく、水泳だけない。走るも速いかった。速いかったでも、走るも代表ない。
――…………。
――お母さん日本人あると、選手、だめ。みんな、みんな、だめだったよ。
《そんなこといったって、父親はまがうことなく中国人なのに……》
飯田先生は胸のうちにそうつぶやいたものの、口には出さなかった。中国にいたあいだの現実がそうであった以上は、いまさら何を言ってみても慰めにもならないのだから。
飯田先生は、張くんに向ってほほえみかけながら、言う。
――日本では、この夜間中学でも、「日本語学級の生徒だから、運動会に出られない」なんていうようなことはありませんよ。うんとがんばってください。
それからまた、飯田先生は付け加えて言った。
――そんなんで、張くんは、運動会が待ち遠しくて、はりきっているんだね。
――「待ち遠しくて」は、何ですか?
――いや、「早く運動会になるといい」と思う気持ちのことさ。
――ああ、わかりました。ぼく、「運動会、待ち遠しくて」です。
――ははは。そういうときは「待ち遠しくて」ではなくて、「待ち遠しい」という言いかたをするんだよ。
飯田先生はことばの使いかたを教えながら訂正させようと思って、なお言い足したのだが、張くんはもうそんなことはどうでもよくなっていて、聞く耳を持たず、満面に笑みを浮かべているだけだった。
夜間中学が寄り集まってする運動会が、どのようなものか、どれほどのものか。運動会とは名乗っているけれど、ほとんど遊びに毛の生えたようなものだ。
運動会のそんな実態を知ったら、張くんはがっかりするかもしれない。それともそんな遊び半分のような運動会でも、いざ代表選手となってするとなったら、はりきってするのだろうか。
《彼のことだから、きっと燃えてがんばるにちがいない》
そう確信して、飯田先生もまたそれ以上は何も言うでもなく、笑顔を向けているだけだった。
(三)
――今、バレーボールをやってんだがよう、……
田辺先生が、飯田先生に言う。
体育の授業のことだ。
土曜日の三時間目、四時間目と、二時間つづきで体育が組まれてある。週末の最後の最後が体育の授業になっている。
その授業を終えて職員室へ戻ってきた田辺先生は、さっそくに煙草を取り出して、一服つけながら話しかけてきたのだ。
体育の授業が終わると、一週間のすべてが終わり。田辺先生だけでなく、飯田先生もまたほっとした気分になる。
田辺先生は、同じこの学校の昼間部の体育の教師だ。三年ほど前から、夜間部へは、体育の講師として週にいちど教えに来ている。
見るからにいかつくて、いかにも体育の教師にぴったりな雰囲気を漂わせている先生だ。昼間部の中学生たちを相手にしてきている先生だからなのか、口調もいささかならず乱暴だ。もっとも東京の下町で生まれ育って、今なお向島に住んでいるとなれば、だれに対しても伝法な口調で言うそれは、そのまま江戸ッ子の証だというべきかもしれない。
――美濃部ってえのがいるだろ。そいつがよう、「キャッチャーのお面をつけてやっていいか」って言ってきやがってよう。
田辺先生はそう言うと、それから飯田先生の反応をみるかのような表情をした。
――キャッチャーのお面って、あの野球の?
――そうよ。
――なんでまたバレーボールに、……。
飯田先生はそう問いかけるでもなく応じたのだけれど、そのことのわけは尋くまでもなく推測することができた。
だが、田辺先生はちょっと顔を歪めてみせながら、飯田先生のそんな応接にいかにも満足そうに表情を崩した。
――パスの練習のときからよ、おっかなびっくりやっていたんだがよう、いよいよトスを上げてアタックの練習を始めたら、とたんに尻込みしだしやがってさ。
――…………。
――「このつぎから二手に分かれて、練習試合をする」と言ったら、「顔に当たると危ないし、おっかないからお面をつけてやりたい」って言って来たのよ。漫画だぜ。
そう言って、田辺先生は笑った。
飯田先生も声を立てずに笑った。
いくら相手のスパイクが怖いからといっても、バレーボールをするのに野球のキャッチャーのお面をつけてしたのでは、たしかに漫画というものだ。
しかし彼の気持ちの優しさを思いやると、ただ笑い飛ばすばかりにはできない気分だった。
――それはそれで見ものかもしれないけれど……。
飯田先生は苦笑しながらそう言い、小首をかしげながらことばを継いだ。
――でも、美濃部くんが、キャッチャーのお面なんて、自分で持っているとは思えないけれどねえ。それでOKしたんですか?
――するわけねえだろ、そんなこと。おれもさ、おもしろ半分に聞いたのよ。「お面を持っているのか」って。そうしたらさ、「無いから、学校のを貸してくれ」って言うのよ。冗談じゃねえや。キャッチャーのお面なんぞを貸してやって、バレーボールの授業をしてたなんて、他所に知られたら、こっちが笑われちまうじゃないか。
――先生に「だめ」って言われて、それで彼はなんと?
――いや、「もういいよ、見学してろ」って言ったのさ。そうしたら嬉しそうにしてやがってよう。女の子たちだって、やってるんだぜ。それをさあ、いい年齡をした日本男児がよう、まったく情けねえったらありゃしねえ。
そう言って、田辺先生は、煙草の煙をふうーつと大きく吐き出した。
飯田先生は、もはや返すことばが無くて、苦笑いをしたまま小さく首を振ってみせるだけだった。
【第六章】
(一)
一年生の、国語の時間。
授業の終わりがけに、飯田先生が言った。
――来週のこの時間には、テストをしましょう。
すると、さっそく小澤くんが、大きな声をあげた。
――ええっ、テストなんてやらなくていいよ。
それから、となりの保岡くんに言う。
――なっ、保岡くんだって、テストなんかしなくてもいいって思うよな?
同意を求められた保岡くんは、無言のまま小さくうなずいてみせた。
すると、脇から篠山さんが言う。
――なんで? テストがあると思えば、一所懸命に覚えようとして勉強できるから、わたしはあったほうがいいわ。保岡くんだってそう思わない?
こんどは篠山さんからも同意を求められて、保岡くんは返事をしかねて、困ったように首をかしげている。
――そんなん、無いほうがいいに決まってるじゃないか。
小澤くんは、思うように援軍が現れてくれないものだから、いかにも無念そうに言う。
そうした生徒たちのようすを見て、飯田先生は笑みをうかべて言った。
――篠山さんのように「テストがあるほうがいい」なんていう人は、めったにいないだろうねえ。
去年の夏から秋にかけて、自動車の運転免許を取るために、教習所に通ったときのことを、飯田先生は思い出していた。
仮免許を受けるという実地のテストのときは、いささかならずいやな感じだった。いくつものポイントをチェックするのだといって、教官を横に乗せてテストを受けたときには、緊張のあまりに足ががくがくと震えもした。その時、
《およそテストなんていうものは、受ける身になってみると嫌なものだな》
と、あらためて思ったものだった。
そんなことを思い出しながら、飯田先生はことばを継いだ。
――テストを受けるというのは、いつでも、どんなものでも、気分のいいものではないよねえ。
いささかでも小澤くんの気持ちを、汲んでやる。
――そんなら、やらなきやいいじゃんか。
小澤くんも、苦笑してみせる。
そうしたやりとりをしながらも、飯田先生は、
《全くのテスト無しなんていうのも、いかに夜間中学ではあっても、そんな中学生生活は、後から振り返ってみたときに、やっぱり味気ないのではないか》
などとも、思ったりもしてみるのだ。
――先生、通知票っていうのは、無かったですよねえ。
金田さんが言う。
――そうね。一学期も無かったし、二学期もありません。三学期には通知票を渡してあげるけれどね。
夜間部では、毎学期ごとにまでは、いわゆる通知票といったものは、生徒たちに渡していない。
生徒たちのなかには、未成年の人もいるにはいる。たとえば、小澤くんや保岡くんがそう。学校としても、年齡のことを取り上げて、杓子定規にいうならば、彼らにはそれぞれに保護者がいて、そうした保護者へ通知票を渡してもおかしくはない。
しかし、実際には、そうした未成年の人たちは少ないし、未成年であっても保護者である親の許から通ってきている人はいくらもいない。たとえばのことに、一年生では保岡くんだけだ。だれに対しての通知票なのかを考えやってみれば、わざわざ渡すまでもないことなのだ。
それでも、三学期の終わりの年度末には、当該学年の「修業証書」ということで、通知票を渡している。
金田さんは、テストと聞いて、成績と通知票とを結びつけて、疑問に感じていたことを口にしたのだろう。
――みんなが、授業の内容をどのくらい理解してくれているか。定着のぐあいはどのくらいか。そうしたことを確かめるために、テスト本来の目的に則って、してみようというのです。だから、あらためて「テスト勉強だ」などと言ってまで、することもないけれどね。でもね、私の立場からすれば、篠山さんみたいに「テストがあるから、一所懸命に勉強しよう」といって、いっそうがんばってくれれば、そりゃあうれしいねえ。
飯田先生はそう言って、みんなの顔を見た。
――じゃあ、どうやって成績をつけるんですか?
――いやあ、やっぱりテストをして、その成績でつけるよりほかないんだけれどね。
小澤くんは依然として、不服そうな口つきをしていたが、それ以上は何も言わなかった。
篠山さんと金田さんは、それなりの覚悟をしたかのような目で、飯田先生を見返した。
保岡くんと目が合うと、彼は、やっぱり曖昧な表情をして、ちょっと考えるようなそぶりをしてみせた。飯田先生には、彼のそのようすが、《テスト勉強しようか、それとも、しないで済ませてしまおうか》と迷っているように思われて、おかしくなって、つい笑い出してしまった。
(二)
給食を終えて、飯田先生が職員室へ戻ってくると、ちょうど倉石くんが登校してきたところだった。
――こんばんは。
――こんばんは。早く行けば、まだ食べられるよ。
――いいよ。済ませてきたから。
そう言って、倉石くんは小さく首を振った。小脇に、美しい包装紙でつつまれた品を、大事そうにかかえている。
夜間部の職員室としてある部屋の一方の出入り口の壁際に沿って、生徒たちのロッカーがある。学校で使う用具や教科書や運動着などを、それぞれに入れている。
倉石くんは、自分のロッカーにかかえていた品物をしまい込んだ。それから小さく息をした。
そんなようすを見て、飯田先生は倉石くんに話しかけた。
――誰かさんとデートして、食事をして、それでもってプレゼントをもらってきたのかな?
飯田先生の冗談めかした問いかけに、倉石くんはちょっとはにかんだような表情を見せたけれど、すぐにきまじめな声で答えた。
――ちがうよ。今日は娘の誕生日なんだ。それで、おみやげなんだ。
倉石くんは、この夜間中学に通うようになってからは、仕事が終わるとまっすぐに学校へ来て、勉強して、家に帰っているのだと言っていた。
だとすれば今夜は、娘さんへのプレゼントの品を、会社から学校へ来る途中でどこかに寄って買ってきたものだろう。
――ああ、そうなんですか。それは「おめでとう」を言わなくちゃ。
飯田先生がそう言うと、もういちど倉石くんは照れた表情で頭をかいた。娘さんの誕生日を、自分の誕生日でもあるかのように照れてみせる倉石くんのようすに、飯田先生は少しばかりおかしくなった。
そして思い出した。入学して数日後、倉石くんと話をしたときのことを。
* * *
――倉石くんは、どんな仕事をしているの。
――自動車の整備工場に勤めてる。
――じゃあ、車の修理をしたりするわけね。
――うん。もし、先生の車の調子の悪いところがあったら、俺のところへ持って来て。安く見てやれると思うよ。
――ありがとう。と言いたいところだけれど、残念ながら、私は車を持っていないんですよ。
――じゃあ、だめだ。
飯田先生自身は日ごろから車には関心がうすいし、運転免許だって去年の秋にようやく取ったばかり。いや、運転免許を取ってはみたものの、東京にいては、自家用車を持って行き来しなければならないなんていう必要は、これまでにだって無かった。自ら車を運転したいとも思わないし、車を持つこともあるまい。それゆえにまた倉石くんに整備を賴むこともないだろう。
――でも、倉石くんが整備工場を経営しているわけではないんでしょ。
――そりゃあ、そうだよ。勤めているんだけれどさ。
――勤めて何年になるの?
――十五歳のときからだから……。
――倉石くんは、たしか三〇歳だったよね。ということは十五年になるんですねえ。でも、小学校も卒業するかしないかだったみたいだし、中学校へは行っていないんだから、……。中学校を卒業したということにして、就職したっていうことなんでしょ。
――うん。
――それまでは何かをしていたの?
――それまで?
――整備工場に勤めるようになるまでのあいださ。
――何もしていなかったよ。「どこかで働こうかなあ」と思ったって、年齡が小さいから、どこにも勤められないしさ。それで、中学を卒業した年齡になってから、就職したんだ。
――中学校を卒業していることにして?
――うん。嘘ついて。
――そう……。
――だけど、車の整備には関係ないから。ちゃんと仕事ができればさ。
――…………。
――字も読めないし、書けないけど、車の整備にはべつだん困らないよ。
――まあ、そうかもしれないね。
――だって、俺が言うんだから、まちがいないよ。嘘じゃあないよ。
――いや、ごめんごめん。べつだん倉石くんの言うことを、私は疑っているわけじゃないし、整備の腕だって疑っているのでもないんだけれどね。
――…………。
――倉石くんの言うように、そういうことだとすれば、いま現在だって「仕事のために、何がなんでもこの学校へ来なきゃならない」ということではないわけでしょ?
――それはそうだよ。
――じゃあ、仕事のためというわけではないんだね。
――この学校へ来るようになったのは、そりやあ仕事のためじゃあないさ。
――奥さんと子どもがいるんだよね。結婚したのはいつごろなの?
――ええと、今、娘が五歳になっていて、その一年前だから……。
――六年くらい前なんだね。
――うん、それくらいになるかなあ。
――それで、結婚するときに、奥さんには、倉石くんが中学校を卒業していないことは話してあったんですか。
――うん。話したよ。そうしたら「べつに中学を出ていなくてもいい」って言ってくれて、……。
――そうですか。
――そうだよ。
――でもさあ、仕事にも学歴や読み書きは必要ないし、奥さんもわかっていてくれる。それなのに、どうして今ごろになって、「夜間中学に来よう」なんて思うようになったんですか?
――娘が幼稚園に行ってるの。
――はい? ええと、娘さんは、いま年中組だったっけ。
――うん。それでさ、幼稚園に行くと、いろんなものに、子どもの名前や親の名前を書いたりするでしょ。そういうのは、みんな女房に書かせていたんだけどね。それからさあ、幼稚園からいろんな「おたより」なんかをもらってくるでしょ。そんなのもみんな、女房に読んでもらっていたんだ。
――そう……。
――それが、このごろはさ、「おたより」や絵本を、女房より俺のところへ持ってきて、「お父ちゃん、これ読んで」とか言うようになってきたんだ。
――娘さんは、お父さんが字が読めないって、知らないからなんだね。
――うん。俺、ずうっとさ、「忙しいから」とか「疲れているから」とか、「お母さんに見てもらいな」とか言って、なんとかかんとかごまかしてきたんだけどさあ。もう、だんだん……。
――ごまかしつづけるのが、難しくなってきたわけなんだ? この先、いつまでもごまかせそうにない、と思うようになったということなんだね。
――それでさ、娘が学校に行くようになるまえに、俺、なんとか字が読めるようにしたいって考えて、……。
――そうだったの。
――…………。
――…………。
昼間は工場で油にまみれて黙々と車を整備している倉石くんだが、家に帰れば“いいお父さん”になるのだろう。幼稚園に通っているという娘さんが、かわいくてかわいくてたまらないみたい。
娘さんのほうも「お父さん、お父さん」と言って、寄ってくるのだろう。子煩悩な彼だけに、父親たる自分が、まったく字が読めない書けないなどということを、娘さんには告げられない。知られたくもないのだろう。
飯田先生は「牛に引かれて善光寺參り」という俚諺を思い浮かべた。それになぞらえて言えば、「娘に引かれて夜間中学通い」というところだろうか。
《それにしてもせつないことだなあ》
倉石くんの胸のうちを思いやって、飯田先生はそう思った。
* * *
始業が五時三〇分、終業が九時〇〇分、そのなかで生徒たちにとっての自由な時間は、わずかに給食後の休み時間だけだといっていい。
その給食後の休み時間には、夏場は、多くの生徒が校庭に出て、みんな一緒に夜間照明の下でソフトボールをして遊んできていた。しかし、さすがに冬場は外は寒いから、ソフトボールとはゆかない。
それで、どこまでも運動の好きな人は、卓球などで体を動かす。それほどまでして遊ぶことはないという人たちは、それぞれの教室で、おしゃべりをしたりして過ごしている。
飯田先生は、促進学級の教室に入って行った。彼にはよけいなお節介だったり迷惑かもしれないとは思いながらも、倉石くんと少し話をしてみたいと思ったのだった。
飯田先生があらためて思いやってみれば、倉石くんは、夏場うちだっても校庭に出て行ってみんなの遊びに加わることはついぞ無かった。
《みんなと一緒になって遊んではいられない》
と、そう思っているのかもしれない。
幼稚園に通っている娘さんは、一日いちにち、その成長がめざましいにちがいない。それだけに、《少しでも早く、一字でも多く、文字を覚えなくてはならない》と、そんな気分にかられて、給食休みのたとえわずかの時間であっても勉強しているのかもしれない。
だが今夜は、倉石くんは、促進学級の教室にひとりきり、自分の席に坐って、目ばかりをきょろきょろさせている。それだったらさしあたっては、勉強の邪魔をすることにもなるまい。
――倉石くん、娘さんには、何をプレゼントしてあげるの?
飯田先生が笑顔でそう問いかけると、倉石くんも相好を崩して応じた。
――自動車の模型。娘も車が好きだから。
――そうなんですか。
男の子の自動車好きは、あたりまえのように多い。けれども、女の子でも車が好きだとなったら、これは倉石くんの仕事が多分に影響しているにちがいない。それがまた父親としてうれしくて、だからついつい相好が崩れてしまうのだろう。飯田先生はそう推量した。
――じゃあ、休みの日なんかには、たまには娘さんを工場へ連れて行ってやったりするの?
飯田先生がそう尋くと、倉石くんは首を横に振りながら答えた。
――ううん、工場なんかへは連れて行かないさ。天気がよければ、たいていドライヴに行くんだ。
それを聞いて、飯田先生は、
――そう。それはいいね。
と相づちを打った。
相づちを打ってから、《あれっ》と思った。
――ドライヴに行くって、……、倉石くん、運転できるの?
すると、それまでにこやかだった倉石くんが、きっとした表情になった。
それから、いかにも《当たりまえじゃないか。ばかにするな》という口調で応じた。
――そりゃ、できるよ。俺、自動車の整備してるんだもの。
――いや、そうじゃなくてさ、……、運転免許を持っているの?
――持っているよ。
倉石くんは、いっそうおもしろくなさそうな顔で、ぶっきらぼうに答えた。
だが、飯田先生は、そんな倉石くんの思いなどそっちのけで、ただもうびっくりしてしまっていたのだった。
倉石くんが、運転免許を持っている!
――整備工場にいる人には、だまっていても運転免許をくれるわけ?
――そんなことあるはずないよ。
――じゃあ、運転免許、取ったっていうこと?
――そうだよ。俺、ちゃんと取ったんだ。
――どこで取ったの?
――東京さ。
――…………。
ちゃんとした正規の方法で、運転免許を取得したのだと、倉石くんは言う。
自動車の運転免許を取得するためには、あたりまえのことだが、車を運転してみせて実技試験に合格しなくてはならない。
だが、それだけではない。交通のルールや法規に関してきちんと知っているかどうかを確かめる、学科試験にも合格しなければならない。それぞれに合格して、初めて運転免許証を取得することができる。そのはずだ。
その両方に合格してこそ与えられる運転免許証を、倉石くんは「持っている」という。本当にそうだというのなら、文字の読み書きのできない倉石くんが、どのようにして学科試験に合格し、運転免許証を持つことができたのだろうか。
――だって、運転免許を取るには、学科試験だってあるはずだよ……。
驚きを露わにして、心底いぶかしそうに飯田先生はそう言った。
そう言われて倉石くんは、ようやくいくぶんか機嫌を直したかのように小さく笑った。
――学科試験だって受けたし、合格したから、免許だって持ってるんだけどさ。
そう聞かされても、飯田先生にはわからない。
学科試験では、書くのは、名前のほかには○か×くらいのものだ。しかし、自分では書かないまでも、文字を読まなければならない。
「道路交通法」などの法律や、交通ルールをもとにした文章が出題される。それらのひとつひとつが、正しいのか、あるいは誤りがあるのかを読み取り、判断して、○か×かをつけて答える。
それも五問や一〇問ばかりじゃない。一〇〇問とあって、しかも最低でも八〇%くらいはできていなければ、合格にしてもらえないはず。
倉石くんは文字が読めない。だからこそこうして今、夜間中学に通ってきている。それなのに倉石くんは、学科試験にもちゃんと合格して、免許を取ったのだという。
いったいどうやって、学科試験に合格したのだろうか。どのようにして、それをくぐり抜けたのだろうか。
――でもさ、倉石くんは、学科試験の問題用紙に、何が書いてあるのが、読めないんじゃないの?
飯田先生は、「まさかでたらめに○とか×とかをつけたのかい」とまでは、尋けなかった。
ひょっとすると、「でたらめに答えておいて、合格するまで何度も、何回でも受けたのだろうか」とも思いながら、しかしそうはましてや尋けなかった。
が、倉石くんからは、意外な答えが返ってきた。
――何が書いてあるのか、字は読めないけどさ、どれが○でどれが×かちゃんと覚えたんだ。
――覚えた?
――ほら、学科試験の問題集っていうのがあるじゃん。あれを買ってきてさ、一冊ぜんぶ覚えたんだ。それで、いっぺんで合格したんだけどさ。
倉石くんは、あっけらかんと答えた。
そのいかにもこともなげな答えぶりに、飯田先生はますますわからなくなってしまった。
一呼吸置いてから、首をかしげながら、なおも尋ねた。
――問題集に載っている問題を、ぜんぶ「どれが○でどれが×かちゃんと覚えた」って言ったけれどさ、それをさ、つまり「どれが○でどれが×か」を、倉石くんはどうやって覚えたの?
そこまできて、ようやく倉石くんにも、飯田先生が「わからない」でいる事の由がわかったらしかった。
倉石くんも一呼吸置いて、思い返しているかのような目つきをしてから、飯田先生に説明しはじめた。
――俺、ひとつひとつの字は読めないけどさ。ほら、漢字とひらかなとカタカナがあるじゃない。それくらいはわかるんだ。どれが漢字で、どれがひらかなで、どれがカタカナかってさ。それに数字とか英語なんかも。
――漢字やひらかなや数字だっていうことはわかる、……。で?
――だから、その並びかたの順番で覚えたんだ。
――というと、たとえば?
――「ひらかな・ひらかな・ひらかな」ってひらかなが三つつづいて、その後に「漢字・漢字」って漢字が二つあって、つぎにカタカナが四つ、またひらかなで漢字……ってなってたら、それは○とかさ。問題集には、その問題の答えが○か×か、ちゃんと書いてあるから、それを覚えたんだ。
――うーん、そうか。そうやって問題集の一冊ぶんをぜんぶ覚えて、免許を取ったんですか……。うーむ……。
飯田先生は唸り、目を見開いて、倉石くんをみつめた。
倉石くんはちょっとはにかむと、視線をそらした。そうして「もういいでしょう」とばかりに、小学二年生の国語の教科書を机の上に開いたのだった。
(三)
昼間の中学のほうにはちゃんとあるけれど、夜間部には、図書室は無い。
夜間部の生徒たちには、図書室が無くてもいささかも困ることはないのが実状なのだ。
大半の生徒が昼間働いていて、仕事が終わるや学校にかけつけて授業を受けている。授業が終われば、すぐにでも用務員が燈りを消して歩く。そんななかでは、本なぞゆっくり読んでいる時間なんぞは、まず無い。生徒のなかには、昼間働いていなくて、自由な時間のある人たちもいるけれど、そうした人たちはというなら、それらのほとんどが日本に引き揚げて来て日の浅い日本語学級の生徒たちで、それゆえ彼らには日本語で書かれてある本などはまだまだ遠い存在だ。
だが、しかしである。それでも学校であるからには、いかに夜間部とはいえ、本が何も無い少しも置いてないとあっては、恰好がつかないというものだろう。そこで三年生の教室の壁際に、本棚を二つほど置いて、本を並べて、読書コーナーを設けてある。
夜間部にも、図書担当の先生もいるにはいる。国語科の久野先生がそう。その久野先生が、毎年少しずつ選定して新刊書も購入はしているのだが、生徒や先生たちのうちで、読み終えて不要になった本があれば、持ってきて置いておくということもしている。どちらがといえば、そのほうがずっと多い。
そんなくらいだから、本棚には多様で雑多な本が、いかにも“あるにはある”といった風情で並べられてある。読みたい本があれば、休み時間に教室で読むも良し、借りて帰って家で読むも良し、ということになっている。でも、無理からぬことだけれど、ほとんど利用されているとは言い難い。
その本棚のなかから、飯田先生は自動車の運転免許を取るための『学科試験問題集』を取り出した。
自分が持ってきて、入れておいた本だ。飯田先生が去年の夏、教習所通いを始めたとき、買い込んで勉強したものだった。秋になって運転免許証が取得できて、その本も用済みとなったので、《またいつか誰かの役に立つようなら、自宅に持ち帰ってでも使ってもらえばいい》と、そう思って持ってきて本棚に挿しておいたのだった。
拡げて見る。あれやこれやが思い出されてくる。
たとえば、こんな問題文がある。
( )「乗降のため停止している通園バスのそばを通るとき、横断するこどもがいなかったので速度を落として通行した。」
――これは、○か×か?
教習所での学科教習のとき、教官が教習生たちに尋いた問題だ。誰かが○だと答えた。飯田先生もそう思った。おそらく教習生のうちの何人かは、そう思ったことだろう。だが、教官は「これは×なんだよ」と教えた。
――「徐行した」というのでなくちゃ、○にならない。ただ「速度を落した」なんてのはダメだ。時速70㎞で走ってきて65㎞にしたって、速度を落したことになるんだからね。
そう説明した。
《問題を、そのまますなおに読んではいけない、ということなんだなあ……》と、飯田先生は、そのときそう思った。それだから、次のような問題が出てきたときにだって、かえって迷ってしまったくらいだった。
( )「踏切内でエンストしたときは、通行人に協力してもらって動かすか、セルモーターを使って動かすなど、なるべく早く踏切外に出す。(ただし、オートマチック車を除く)」
これは、○か×か?
《お終いに( )つきで書かれてある、「オートマチック車を除く」いうのは何だろう。「オートマチック車を除く」というのだから、オートマチック車のときは「通行人に協力してもらって動かしてはいけない、セルモーターを使って動かすなどして早く踏切外に出してはいけない」とでもいうのだろうか。……》
などと、思ったりもしたものだった。
それにつけても、手にしている『学科試験問題集』には、そうした問題が一〇〇問ずつ並べられたものが、第1集から8集まで8種類、つまりは延べで八〇〇問も並んでいる。
ただし、そうは言っても、表現こそちがっていても内容のうえでは同じことをいったものだという問題もある。
( )「自転車横断帯に近づいたとき、進路の前方を自転車が横断しようとしていたので、いつでもその手前で止まることができる速度に落としその通行を妨げないように自転車横断帯を通行した。」(第1集)
( )「自転車横断帯の手前にきたとき、進路の前方を自転車が立ち止まり、自動車の方を見て、分かっている状態だったので、徐行して通過した。」(第2集)
( )「横断歩道や自転車横断帯では、必ず警音器を鳴らして徐行しなければならない。」(第3集)
これらはいずれも×。
要するに「自転車横断帯の手前では、一時停止して、自転車を優先させて通さなくてはいけない」という観点からつくられた問題だ、というのである。「通行を妨げない」とか「徐行した」とかあっても、とにかく「一時停止する」というのでなかったら、どう書かれてあろうと×なんだ――教官はそうも説明していた。
しかし、文字を読むことのできない倉石くんにとっては、こうした問題のことごとくが、それこそ「いささかも疑問にならない問題」だったのだろう。と同時に、あるいはまたそうした一つ一つが、全く別々な問題であるということになるのだろう。
つまるところ、「減速」だろうが「徐行」だろうが「一時停止」だろうが、倉石くんには、それらの問題には、まさしくなんの問題も無いままに、類別もなされていなかったことになる。
いや、そんなことよりなによりも、倉石くんの勉強のしかたでは、どうなるのだろうか。
( )「乗降のため停止している通園バスのそばを通るとき、横断するこどもがいなかったので速度を落として通行した。
これは、「漢字・漢字・ひらかな・ひらかな・ひらかな・漢字・漢字・ひらかな・ひらかな・ひらかな・ひらかな・漢字・漢字・カタカナ・カタカナ・ひらかな・ひらかな・ひらかな・ひらかな・……」とつづいているから、×。
( )「踏切内でエンストしたときは、通行人に協力してもらって動かすか、セルモーターを使って動かすなど、なるべく早く踏切外に出す。(ただし、オートマチック車を除く)」
これは「漢字・漢字・漢字・ひらかな・カタカナ・カタカナ・カタカナ・カタカナ・ひらかな・ひらかな・ひらかな・ひらかな・ひらかな・漢字・漢字・漢字・ひらかな・……」と並んでいるから、○。
( )「自転車横断帯に近づいたとき、進路の前方を自転車が横断しようとしていたので、いつでもその手前で止まることができる速度に落としその通行を妨げないように自転車横断帯を通行した。」
これは、「漢字・漢字・漢字・漢字・漢字・漢字・ひらかな・漢字・ひらかな・ひらかな・ひらかな・ひらかな・ひらかな・……」だから、×。
( )「自転車横断帯の手前にきたとき、進路の前方を自転車が立ち止まり、自動車の方を見て、分かっている状態だったので、徐行して通過した。」
これは「漢字・漢字・漢字・漢字・漢字・漢字・ひらかな・漢字・漢字・ひらかな・ひらかな・ひらかな・ひらかな・ひらかな・……」だから、×。
( )「横断歩道や自転車横断帯では、必ず警音器を鳴らして徐行しなければならない。」
これは「漢字・漢字・漢字・漢字・ひらかな・漢字・漢字・漢字・漢字・漢字・漢字・ひらかな・ひらかな・……」だから、×。
そうやって勉強したという。そうやって覚えたのだという。
《もしも自分がそうやって覚えなければならないとなったら、どうだろう》
そう思って、飯田先生は、そのつもりになって、さて覚えてみようと試みたのだけれど、1集ぶんの一〇〇問どころか、頭のほうから五、六問ばかりで、わけがわからなくなってしまった。
「ひらかな・ひらかな・漢字・漢字・……」だから、これは○と覚えておこう。つぎは「漢字・漢字・ひらかな・ひらかな・……」だから、×と覚えなくちゃ。……。
覚えるつもりで、本気になって始めてはみた。が、やってはみたものの、ほどなく何もかもがこんがらかってきてしまった。
とてもじゃないが、覚えられものではない。
それら文字列を、目をむいてあらためて見た。見つめながら、倉石くんの覚えたという方法に恐怖さえ感じて、飯田先生はただただ驚嘆するばかりだった。
――なんというものすごい覚えかただろう。
『学科試験問題集』を開いてみつめたまま、感動のあまりに飯田先生はしばらく動くことができなかった。
* * *
その晩は、飯田先生は、学校から家へ帰ろうというあいだじゅう、ずうっと倉石くんの話を反芻していた。電車に揺られるその揺れのように、なんども繰り返し感動し、また反動のようにやるせない思いにかられるのだった。
初めて話を聞いたときには、倉石くんが文字が全く読めないのに、学科試験をくぐり抜けて免許を取得したことに対して、驚いたのだった。
が、驚きは、今やそのようなところにいつまでも留まっていなかった。もっともっと、人間の頭脳のすごさ、能力のすばらしさに驚いてしまっていたのだった。
個条書きされた文章の八〇〇問だって、「漢字・ひらかな・カタカナ・数字」の組み合わせのありようで、区別して覚えられる。自分には到底無理だとしか思われないのだけれど、いざそのつもりになりさえすれば、ちゃんと覚えられて、ものともしないで判別できるらしい。
倉石くんの頭脳が、とてつもなく高性能なコンピュータのように、飯田先生には思われるのだった。そして、ひきかえて自分の頭では、とてもそうはできないと思われることに情けない思いも感じる。
しかしながら、また同時に思う。そのときの倉石くんの勉強とその頭脳の用いように対しては、すさまじく、それだけにいかにも虚しく感じるのだった。
コンピュータばりの能力を発揮して、交通法規の勉強をしようというのなら、したというのなら、なぜにその時にこそ、文字を覚えようと思わなかったのだろうか……。ひらがなだってカタカナだって、数字や漢字もアルファベットだっても、それらの読みかたを覚えたほうがよほど有用でよかったのだろうに……。
だが、なにはともあれ、倉石くんは、今になって夜間中学に通いきて、こんどは一所懸命に文字を覚えようとしている。ひらかなやカタカナを覚えてきている。少しずつだけれど、漢字も覚え始めている。卒業までには、アルファベットだって、きっと覚えていってくれるだろう。なんとしても、そうなって卒業していってほしい。
中央線から地下鉄に乗り換えようと駅を出ると、お茶の水の駅前は、まだまだ宵の口だといわんばかりに、たくさんの車が行き交っている。
自家用車もあればタクシーもあり、運送車やバスも走っている。それらの車は、交差点に来ては信号で流れを断ち切られてはいるのだけれど、それでも信号の変わるまでもなく右折し、また左折して行く車もある。飯田先生の視野のなかを、いっこうに途切れることなく、車がつぎつぎと流れるように走り来ては去ってゆく。
交差点で信号の変わるのを待つあいだ、飯田先生はそんな車の流れを見やりながら、ふと思った。
《こうして走っている車の運転手のなかには、運転免許をもってはいるけれど、倉石くんと同じように、文字の読み書きがまったくできないままに、ハンドルを操っている人がいるのだろうか》
そう自問した。
《倉石くんのような人が、他にもいたところで、少しもおかしくはない。夜間中学に来ている人たちのなかにだって、何人かはいるかもしれない》
こう自答して、《うーむ》と胸の裡に唸った。
そのとき、急に冷たい風を首筋に感じて、飯田先生は、ぶるッと小さく身震いした。
【第七章】
(一)
学校というところは、おそらくどこでもそうだろう。夜間中学でも、三学期になると、みな浮き足だってくる。それは、生徒たちばかりではない。先生たちだってもそう。三年生を卒業させなければならないからだ。
昼間の中学校とは違って、夜間部の場合には、三年生に在籍しているからといって、皆がみなそのまますんなり卒業とばかりはゆかない。それどころか、そもそも進級させるのにだって、苦労をかけさせないではおかないような生徒さえも、毎年三人や四人はきっといる。
ことに日本語学級のなかには、進級させるのにも、卒業させるのにも、飯田先生たちを悩ませるような生徒があとを絶たない。
今年の卒業予定者の宋恵成くんなども、そうした一人だった。いや、まだ卒業式が終わっていない以上は、過去形にして語られるべきではないだろう。しかしながら、飯田先生の気持ちのなかでは、もうすでに卒業させてしまっているかのような、そんな存在の生徒だ。
恵成くんは、中国の首府の北京から、一年半ほどまえに引き揚げてきた。母親と弟の恵功くんと、三人で引き揚げて来た。引き揚げてきてから半月あまりして、弟の恵功くんとともにこの夜間中学に入ってきた。去年の二学期のことだった。
入学してきた当初から、恵成くんは悠揚迫らぬ大陸的な振る舞いを見せて、しばしば感嘆させられた。飯田先生より三歳も若いというのに、ずうっと年長者のような貫禄をもっている。
――ワタシ、ヴァイオリン、上手よ。
そう言って、自己紹介してくれた。
小さなころから、弾いてきたということだった。
――日本、来た。ワタシ、ヴァイオリン、たくさん弾く思う。
熱いまなざしで、そう訴えていた。
弟の恵功くんともども、それがお定まりのコースゆえに、日本語学級B組でスタートした。そして、あっという間に二人ともA組へ移って行った。
弟の恵功くんは、真面目で熱心な勉強家で、日本語の上達もすこぶるめざましかった。兄の恵成くんのほうは、些事にこだわらないで、腹で押して行くようなタイプだから、日本語が少々おかしくたって本人は意に介さないし、態度で周りを圧倒してしまうから、そうなればA組生としてももちろん充分だったからだ。
そんな恵成くんだが、初めのうちはちゃんと学校に出てきていた。それがもう半年ほどまえから、A組に編入していくらも経つか経たないかのころから、学校を休みがちになってきた。
学校をしばしば休むようになってきたものだから、飯田先生や増澤先生としては心配もし気にもかけた。
――このごろ学校をよく休むようになったけれど、どうしてなの? 日本語がわかるようになって、もうじゅうぶんに通じるようになったから、来なくてもよくなったということなの?
恵成くんに、そう尋いてみた。
そうしたら、彼は、呵呵大笑して答えた。
――ワタシ、演奏会さがすのこと、してるよ。演奏会あったら聞くに行くよ。演奏会行くあるとき、学校来ないよ。ワタシ、日本語まだまだよ。でもだいじょうぶ。音楽、ことばいらない。日本語わからない、ヴァイオリンわかる。ははは。
恵成くんは、学校よりも、都内のあちこちで行なわれている演奏会のほうを優先させて、聴きに行っていることを白状した。そうして、白状したそれ以来、ますます学校へ出て来なくなった。
日本語がわからないから、日本語を学ぶために、この夜間中学へ来て生徒になった。そうではあるのだけれど、本人の意識はずうっとほとんどヴァイオリン奏者としてあったようだ。
恵成くんは、近ごろは、もうめったに学校に来なくなっている。近況は弟の恵功くんに聞いてみるよりない。
恵功くんのほうは、それほど休むこともなくて、学校へ来てまじめに勉強している。恵功くんは恵功くんで、日本の大学に進んで夢を広げたいのだという。
――恵成くんは、去年の秋ごろは「都内の音楽会を、あちこち聴いて歩いている」と言っていたよねえ。
――はい。恵成は、今でもときどき「音楽会に行って聴くことしている」と言ってます。
――そう、「ときどき」ねえ……。でもさあ、音楽会の無い日には、学校に来てくれていたみたいだったのに、このごろはめったに来ないよねえ。
そう飯田先生が言うと、恵功くんは、我がことのように済まなさそうな表情をして言った。
――兄は、音楽会の無いとき、「ヨーロッパに留学したい」言って、「旅費とか、学費とか、お金が要る」言って、アルバイトしています。
飯田先生としては、苦笑するよりない。
恵成くんは、留学の費用を稼ぐのに、一所懸命になっているらしい。そうしてアルバイトの無いような晩だけ、たまに学校へ姿を見せるらしい。
そんな生徒というのは、いかに夜間中学でも、学校にとっては困りものの生徒だ。
もしも彼のそんな現況を職員会などであからさまにしてしまったら、岩田先生が「直ちに除籍せよ」と声をあげるのはまちがいない。岩田先生は、日本語学級の存在をにがにがしく思い、彼ら生徒たちを嫌っている。が、またそうだからこそ、かえって彼らひとりひとりの動静なぞは知ろうとも思わないし無関心でもあって、一面で助かってもいるのだ。
恵成くんのそうした実状を承知しているのは、日本語学級を担当している飯田先生と増澤先生だけだ。だが、飯田先生も増澤先生も、困惑しながらも、そ知らぬ顔をして黙っている。黙ってやっているのだった。
この夜間中学から足が遠のき始めた、日本語学級の授業にも出てこなくなったというそのことは、それは彼が日本の社会に慣れてきて、あれやこれやが、しだいにわかってきたということを意味している。
日本の社会に適応してゆくという観点からすれば、彼はもうこの夜間中学校の日本語学級にいる必要はないだろう。
「音楽は国境を越える」と本人が言っているとおり、日本語なんぞ以上に恵成くんにとってはヴァイオリンが“ものを言う”ことだろう。
だが、恵成くんたちは、生活保護を受けている。もしも恵成くんがこの夜間中学校を除籍でもされたら、ひょっとして生活保護が受けられなくなるかもしれない。飯田先生や増澤先生が、恵成くんの出欠状況について見て見ぬふりをしているのには、そうした背景もあるのだ。
* * *
生活保護の受給資格と夜間中学とは、もちろんのことに直接には相互に関係しない。そしてまた、宋くん兄弟が受けている生活保護は、個人にではなく世帯に給付されることから始まっていたはずだった。しかし、働き手が一人でも出てきたとなったら、ましてや留学云々の話が聞こえていったとしたら、家族がともどもに生活保護を受けつづけてゆくわけにはゆくまい。
生活保護を受けている家庭には、小・中学校へ通っている学生がいれば、就学補助費という名目の金銭も、当然のこととして支給されている。さらにはまた学校に在籍さえしていれば、そうしてその時間内に行きさえすれば、給食にだってありつける。
これらだって、与えられるのと与えられないのとでは、そう、有ると無いのとでは、ずいぶん違う。それもまた現実だ。
ともあれ、夜間中学に在籍しているあいだは、在籍しているという事実が、「未だ日本語が充分でない」という客観的な判断として尊重されるようで、多くの場合生活保護を受けつづけることができる。
「生活保護を受けながら、音楽会を聴き歩いている」というのには、いささかならず怪しからぬ思いがしないではない。しかし、弟の恵功くんのほうはまじめに学校に来ているのだし、いや、ほかならぬ恵成くんの身を思いやってみてさえも、中国にいたのでは果たし得ない夢を、日本を足がかりにしてなんとか実現しようとしている熱い思いに触れると、少しでも応援してやりたくなる。
本人の言うには、また弟の恵功くんの評するところでも、彼のヴァイオリンの腕前は相当なものらしい。
――ワタシ、北京の中央楽団でアルバイトして、ヴァイオリン弾いたことある。北京の中央楽団、中国いちばんの交響楽団よ。
恵成くんは、そう言って自慢もした。
――へえ。じゃあ、そのまま中国に残っていたら、中国いちばんの楽団で、立派なヴァイオリニストになれたんだろうに。日本に来てしまって、ちょっと残念だったかもねえ。
飯田先生は、彼のことを慮って、そう言った。
しかし、恵成くんはきっぱり、それもいたって恬淡と答えた。
――中国にいても、北京の中央交響楽団のヴァイオリン奏者、なれないよ。ワタシのお母さん、日本人。お母さん日本人の人、だれも入れない。絶対だめよ。
中国では、どんなにヴァイオリンを弾く腕前に秀でていても、日本人の母親をもつ者は、それだけで、またそれゆえに中央の交響楽団のメンバーになることも叶わないのだという。
――ワタシ、交響楽団、入りたい。でも、そのまえに、もっともっとヴァイオリン上手なりたいね。オーストリア行って、音楽の勉強したい思うてるよ。
恵成くんは飯田先生を見据えて、自信たっぷりの笑顔でそう言っていた。
恵成くんといい、水泳が達者だという張くんといい、中国にいたのでは、母親が日本人だというだけで、どんなに能力があってもそれを存分には活かすことができないのだと言う。すっかり将来を閉ざされてしまっているような思いさえ持って、中国では暮らしていたらしい。
(二)
――今の授業の時にね……。
宮入先生が、小さな笑みを浮かべながら、飯田先生に話しかけてきた。
――玲子ちゃんが、私のところへ来てね。「先生、恵成くんが屁をぷんぷんひってくさいから、屁をひるのをやめるように言ってください」って訴えたのよ。「恵成くんにいくら言っても、やめてくれない」んですって。先生、どう思います?
そう言って、宮入先生は飯田先生の目を覗きこんだ。
――そんなことを……。
飯田先生は苦笑して、ことばを呑み込んだ。
めったに学校に来ることのない恵成くんが、今夜、たまに出て来たら、授業ちゅうの教室で周りに構わず放屁をしているらしい。いかにも恵成くんらしい振る舞いだとはいえ、怪しからぬことだ。玲子さんが腹立たしく思うのも、至極当然だ。
宮入先生は、この三月でもって定年退職することになっている。単に年配なだけでなく、夜間部でのキャリアもずいぶんと長い、温顔の女性教師だ。家庭科が本来の専門教科で、もちろん夜間部でも、家庭科を教えてきている。
夜間部では、女子のする家庭科は、男子のする技術科とともに、それぞれに、全学年が一緒になってするようになっている。が、それをしも、毎週火曜日に二時間だけしか、家庭科の授業がない。
家庭科の先生としての仕事はというなら、たったそれだけ。そこで残る週五日は、日本語学級のA組の授業と促進学級の授業を、それぞれ何時間か受け持っている。だから、むしろそれらこそが、実質的には宮入先生の出番のほとんどになっている、と言ってよい。
日本語学級には、A組とB組とを設けてある。日本語学級の専任教師として着任した飯田先生と増澤先生とは、まだ何も日本語がわからない人たち――そうした人たちは日本語学級B組にいるのだが、彼ら彼女らへの対応だけでも、日々追われ追われしている。
そこで、日本語学級のA組のほうには、自分の本来の科目では出番の少ない専科の先生たちにも、応援の授業をしてもらっている。
普通学級の日本人の生徒たちのようには、日本語はわからない。しかし、いつまでも“ちいちいぱっぱ”でもないという人たちには、日本語学級のA組に入ってもらって、“日本語学級の専任でない”ふつうの日本人の先生たちから、“ふつうに日本語で教えてもらう”ということにしてある。
日本語学級のA組の生徒たちは、その多くが、とりあえずひらかなやカタカナくらいは読めるようになっている。授業でも、先生の言うことが、どうにかなんとかわかるようになった人たちが集まりいるクラスだ。
A組には、飯田先生や増澤先生の、日本語学級の専任の先生の授業ももちろんある。けれども、そうした日本語学級の専任でない、宮入先生や綿藤先生たちの授業もまた、何時間かずつ組まれてある。
宮入先生は、今夜も二時間目にあったそうした日本語学級A組の授業を終えて、職員室に帰ってきて、手を洗い、タオルでぬぐいながら、飯田先生に話しかけてきたのだった。
* * *
宋恵成くんや恵功くん兄弟などももちろんそうだが、庄司玲子さんもこのA組のメンバーの一人だ。彼女もまた、この三月に卒業してゆく。
玲子さんは、韓国からの引き揚げ者の娘さんだ。
日本語学級のなかでは、韓国から引き揚げてきて、この夜間中学に通いきている人は、最近では少数派となっている。けれども、彼女にはそんなことには屈託がない。それゆえに日本語学級の生徒たちばかりでなく、普通学級の生徒たちを含めた、夜間部の全員に人気がある。
二十二歳で美人。器量がよくて、スタイルもいい。
《あたし、女にしては、大きいでしょ》
そう本人が気にしているくらいだから、見映えがいい。
そこにとどまらない。明朗で心根のいい女の子だ。宮入先生が「玲子ちゃん、玲子ちゃん」と呼んでかわいがっている気持ちも、飯田先生にはよくわかる。
日本語学級に入って来る人たちには、中国から引き揚げてきた人たちであっても、あるいはまた韓国から引き揚げてきた人たちであっても、ブラジルから来た小宮さんのような人だっても、ほとんどの人たちが、なにかしらどこかしら、胸のなかに重いものを沈ませている。そうしてそれらは、ふとした折々におのずと態度に露出してくる。
けれども玲子さんは、そうした屈託をほとんど感じさせない。まるきり何も屈託が無いはずはないと思われるのだけれど、それらが全くといってよいほどにおもてに滲み出てこない。
いかにも年ごろの若い女性といった風情で、生き生きとして伸びやかに感じられる。
《おそらくは、韓国にいたあいだの暮らし向きが悪くはなかった、いやずいぶん良かったということなのだろう》
飯田先生は、そう推量している。
その玲子さんが、「屁をぷんぷんして……」と、宮入先生に訴えてきたという。言い手が玲子さんならずとも、若い女の子が「屁を……」などと口にしていたら、聞くほうだって、
《おやまあ、なんていうことを言うの》
と思うにちがいない。
宮入先生は柔和な顔で、飯田先生に言った。
――玲子ちゃんにね、女の子はそんなふうに言うものじゃあありません。「屁」なんて言わないで、そういうときは「おなら、って言いなさい」って教えておきましたけれどね。でもね、玲子ちゃん、なんて言ったと思う?
――さあ、……。
――「だって、日本語の授業で、飯田先生にそう教わったんです」って。先生、ちゃんと教えてあげてくださいな。
けっして責めるではなく、それでも注文をつけるかのようにそう言ってから、宮入先生はおかしそうに笑った。
――うーん、いやあ、……
飯田先生はといえば、ただ苦笑いして応えるよりなかった。
たしかに日本語学級A組の授業のなかで、「屁をひる」という表現を彼女たちに教えたことがあった。それは飯田先生もはっきり記憶している。
そう、去年の暮れのことだ。
飯田先生は、十二月に入ってからの日本語学級のA組では、授業に『いろはカルタ』を採り上げた。
「いろはカルタ」は、ことわざの粋を集めてつくられてあるところの、日本の伝統的なカードゲームだ。
「犬も歩けば棒にあたる」「論より証拠」「花より団子」「憎まれつ子世にはばかる」……
これらのことわざは、それぞれ短いからこそ、日本語の表現として覚えるのに好適だ。短い表現のなかにも、深い意味がこめられている。さらにまたそれらを通して、日本人のものの見かたや考えかたを知り、日本を理解する一助にもなる。しかもお正月がまぢかいから、カルタとしての遊びかたを覚えたなら、冬休みにも家で家族や友だちと一緒になって、ゲームとして楽しむこともできるだろう。
日本語学級の生徒たちにとって、彼らがちゃんとわかって覚えてくれたならば、きっと「一石二鳥どころか、三鳥にだって四鳥にだってなるはず」――そう飯田先生は考えたのだった。
そうした目論見で、「いろはカルタ」の授業を始めたのだった。
生徒たちは目を輝かせた。いつもと違った授業だったからだろう。あるいはまた授業の終わりの一〇分間ほどを、「カルタ取り」の実際のゲームに充ててやったことが、効いたのかもしれない。
授業では、生徒たちはてんでに絵札と字札を手にして、それぞれを見較べては読む。飯田先生が「ことわざ」の意味を説明する。
“い”から始めて、「いろは」の順にひとつずつ学習して、一〇分ほどを余してのその時間内に、行きつけるところまで行き、あとは約束通り「カルタ拾い」のゲームをする。
カードの読み手は順番に交替して行ない、みんなで參加して、年内いっぱいを「いろはカルタ」で楽しみながら、学習したのだった。
その「いろはカルタ」のなかで、「へ」を冠したことわざこそは、ほかでもない「屁をひって尻すぼめ」というそれだった。
「いろはカルタ」のことわざのなかには、教室で正面きって教えるのには、説明しにくくて、躊躇するようなものもある。たとえば、「かったいの瘡恨み」なんていう類もそう。
「屁をひって尻すぼめ」だって、品がいいとはいえない。が、だからといって「いろはカルタ」に厳然として加わってあるものを、飯田先生が勝手に捨て去ってしまうわけにもゆかない。
それゆえに飯田先生は、そのことわざの意味と使いかたとを、生徒たちに教えたのだし、生徒たちも大いに笑いながらも深くうなずいては、いかにも得心していたのだった。玲子さんにしても、その時のことが、たしかに記憶に残っていたのだろう。
それにしてもその時、
――「屁」ということばは上品でないから、ことに女の子の場合は「おなら」と言いなさい。
とまで、はたして教えただろうか。そこまでは、飯田先生には記憶がない。
《「いろはカルタ」の最後の「京の夢大阪の夢」まで、年内になんとか行き着かなくては……》と、ひたすら先を急いでいたのだったし。
しかし、これからこの日本の国で、日本人として生きてゆこうとする若い女性の表現としては、「屁をひって……」では、たしかに適切ではなかろう。そうしたところまで教えておくことが日本語学級の教師に求められなければ、他に求めるところも無いかもしれない。
飯田先生としては、自分の責任と認めざるを得ない。
――至りませんで、どうもすみません。
飯田先生がそう言うと、宮入先生はまた笑い出した。飯田先生も笑った。
(三)
――早いもんですねえ。じきにもう一年になるんですからねえ。
――そうですね。
金田さんと飯田先生は、そう言い合って、互いに相鎚を打った。
金田さんたちは、去年の春四月に、新一年生としてこの夜間中学に入学して来た。飯田先生はまた、そんな金田さんたちの担任として、ともに年度末を迎えている。
――どうですか、一年間の収穫のほどは?
飯田先生は、金田さんからいちばん聞いてみたいことを、しかし軽い調子で尋いた。
――はい、いろいろ勉強になっています。
金田さんは、まじめな表情で答えた。
――いや、社交辞令なぞでなくて……。
飯田先生が笑ってそう言うと、金田さんも笑みを浮かべながら、ことばを継いだ。
――いえ、ほんとうに、いろいろ勉強になっています。
金田さんは、かつて少年時代に、戦争絡みで、満足に勉強することができなかった。五十を超える歳になって、あらためてしっかり勉強したいと強く願って、この夜間中学に入学してきた。入学時にそう話してくれた。
だが、現実には、飯田先生の授業を初めとして、必ずしも金田さんの望んでいたような授業が、行われてきたとは思われない。この先もそうなりゆくとも思われない。
しかしながら、金田さんにも、飯田先生が尋きたくている意味も気持ちも、わかっているらしかった。
――先生、わたしの場合、いちばん勉強になっているのは、若い人たちと話ができるということなんですよ。ふだん、わたしが話をする相手となったら、たいていが店に来てくれたり、配達先のお客さんでしょ。あとは仕入れ先や同業者なんかの、商売の関係の人たちがほとんどですから。若い人たちと話をするなんていう機会は、めったにないんです。
――…………。
――それが、ここへ来ると、小澤くんや保岡くんや篠山さんたちと、同じ生徒の立場で、対等に話ができるんですよ。若い人たちがどんなことを考えているか、どんなふうに思っているかが、わかるようになったんですよ。
――なるほどね、……。
――うちじゃあ、もう娘たちなんかわたしにはろくに話もしてくれませんが、ここへ来ると、若い人たちと仲間になった気分になれるんですよ。いいですねえ、こういうのは。
そう言って、金田さんは、いっそう顔をほころばせた。
飯田先生もつられて、笑顔でうなずき返した。そう言ってもらえると、いくらかでもほっとした気分になれる。
――件の「ニジョウ」は解決しましたか?
――えっ? ああ、エックスのニジョウですね。いいえ、まだわからないままですよ。数学の授業では、これまでのところ、そんなことは教えてくれませんでしたし……。
――…………。
――“わからないもの”と“わからないもの”とを掛け合わせれば、ますます“わからないもの”になるのが当たりまえだと思っていたんです。今でもそうは思うんです。でも、かれこれ一年、ここで勉強してきているうちに、思うようにもなってきてるんですよ。“わからないもの”があればあるほど、“わかってくる”こともあるんじゃないか。人生と一緒かな、なんてね。
――…………。
――なんにしても、あと二年、ここにいるうちにもっともっと勉強したいですね。
――…………。
飯田先生は、黙って繰り返し小さくうなずいてみせた。
* * *
飯田先生は、大学を卒業するかしないかから、この夜間中学に着任した。
飯田先生としては、別段「学校の先生になりたい」と思っていたわけではなかった。ただ、大学院に進むことになっていたし、そうなってからは奨学金もなくなるし、親の脛も齧るわけにはゆかない。学費を稼ぐことが必要だった。
大学院の先輩が、この夜間中学校で、何年かのあいだ非常勤の講師をしていた。その先輩から、「ぼくの後を引き経いで、講師の仕事をしないか」と紹介された。そんなことで、先輩から講師の口を譲り受けたのが、そもそもの発端だった。
つまるところ、飯田先生としては、軽い気持ちで夜間中学に足を踏み入れたのだった。
ところが、ちょうどその年の六月に、日本語学級が特設されることになっていた。それゆえ、ただの非常勤の講師なんぞではいられなくなってしまった。勧められて専任教諭となった。そんな成り行きだった。
そんなだったから、飯田先生のほうには「夜間中学で、教育に携わろう」というような、確たる心構えはなかった。そればかりじゃぁない。日本語学級が設置されて、その専任としてのスタートをきってはみたものの、いささかの予備知識も準備も無かったのだった。
《だからといって、その点で私は、責められる筋合いでもなければ、自分自身を責めるつもりもない》
飯田先生は胸の裡で、そう思ってはいる。
飯田先生が大学を卒業したその年の六月に、都内にある夜間中学のうちの三校に、日本語学級が特設された。その翌年の秋には、中国とのあいだに、国交が回復した。
それ以降、中国に残留していた人たちが、どんどんと引き揚げて来た。そうした人たちの子どもたちが、つぎつぎと生徒として入学してきた。日本語学級という存在は、つまりは、先んじて設けられた、それなりの備えでもあったのだろう。
それにつけても、日本語学級として設置はしたものの、そうして三校に二人ずつ飯田先生のような専任の教師は置いたものの、ではそこで何をどのように教えるかということになると、教材も無ければ方法論も無かった。まったく何も無かった。
何もかもが、飯田先生たちにすべてお任せだった。
文部省にも、東京都の教育委員会にも、当該区の指導室にも、日本語学級での日本語指導の指針などというものは、いささかも無い。そんなんでは、むろん校長たちだっても、示しようがない。
――なにもかも、飯田先生や増澤先生にお任せしますから。
と言われている。
それどころか、文部省や教育委員会からも、
――いろいろやってみて、私たちにも教えてください。お金の方はいくらでも用意しますから。
などと、言われたりもしている。
《なんともはや、たいへんな処に、はまり込んでしまったなあ》
飯田先生としては、心底そう思わざるを得ない。しかしまた、そんなところにはまり込んでしまったら《ただひたすら、やるよりほかないのかなあ》と、そうも思ってしている。
ともあれ、飯田先生は、日本語学級の専任教諭として、「日本語を教える」ということを無我夢中でつづけてきている。そして、その相手というべき日本語学級の生徒も、また増えつづけている。
夜間中学の日本語学級の教師として、一年が経ち、二年が経ち、三年が経った。
何が何やらわからないままに始まったのだが、そうした状況は、今なお現在進行形でつづいている。
それだというのに……。
去年の三月、昨年度の終りの職員会でのことだった。新年度の教務に関して相談していたときだ。
――飯田先生や増澤先生たちも、担任をやるべきじゃないかな。やったほうがいいよ。日本語学級の先生だからといって、担任をしないのはもったいないよ。
横井先生がそう言い出した。
すると、
――ああ、それがいい。
――そうだ、担任をするといいよ。
と、すかさず岩田先生や楢橋先生らが、賛同した。
そうした声に、飯田先生は少しく不愉快な気分だった。
たとえばのことに、受け持っている授業の時間数だって、飯田先生や増澤先生はヴェテランの先生たちに較べれば、ずうっと多い。
それらの授業に対応してゆくのにだって、普通学級の生徒たちにするのと、日本語学級の生徒たちにするのとでは、費やすエネルギーにも大きなちがいがある。日本語学級の場合には、教材だってそのつど手ずから作って、授業に臨まなければならないのだ。
そうした現状を承知のうえでなお、「日本語学級の専任でも、担任をするべきだ」などと言う。「もったいない」だなんて、なにが「もったいない」のだろう……。
日本語学級と称するクラスが設置されてはいても、公式には一学年一学級のままだ。一学年に一学級だけしか無い。
これまでは、担任は、主事の綿藤先生を除いて、他の先生たちのあいだで、一応順繰りに受け持つことになっていた。そうしたなかで、飯田先生や増澤先生が普通学級の担任を持てば、それだけでも二年分は、自分たちに担任が回ってくるのが遅れる。逃れられる。
担任を持てば、厄介なことが多い。
今でさえずいぶんと楽をしているというのに、自分たちがより楽をするために、飯田先生や増澤先生たちに普通学級の担任さえも押し付けようというのだ。そんな心情が明らかだったからだ。
しかし、飯田先生としては、だからといって、べつだん担任になることが嫌だったわけではなかったし、今だってもそう。若いうちにこそ、何事においても、してみるべきは経験ではないか。
そこで、担任を引き受けるにあたっての条件を、一つ出したのだった。
――新一年生のクラスの国語の授業を、受け持たせてください。受け持つ授業もなにも無いままに、担任だけを引き受けることは、なにかと不都合だと思うものですから……。
他の先生たちにとっては、そんなことは、もとよりどうでもいいことだ。それで、新年度の一年生の担任は、飯田先生と決まったのだった。
そうした経緯があって、日本語学級の専任としてのみならず、一学年一クラスの担任として、一年生の国語をも教えてきた。
飯田先生自身は、気持ちの落ち着かないままに、一年が経ってしまったように思うばかりだ。
それでも、一年生のクラスの生徒たちは、それぞれに、過去に置いてきたものや、失ってきたもの、失わされてきたものを、少しずつであろうともたしかに取り戻してきている。飯田先生にはそう感じられて、担任としてちょっぴりうれしくもある。
まだあと二年あるけれど、彼ら彼女らは、きっと無事に卒業していってくれるだろう。いや、そうなって卒業して行ってほしい。
日本語学級の生徒たちは、どうだろうか。
同じように、日本語学級の生徒たちもまた、それぞれが、過去において異鄕に置いてきたものや、異鄕で失ってきたもの、失わされてきたものを、少しずつ取り戻してきているはず……。
そうは思いたいのだが、彼らに対しては、日本語学級の専任教諭の任にありながら、飯田先生はいくばくも確信が持てないでいる。
たとえばのことに、たまさか学校に出てきては「屁をぷんぷんひっている」ような恵成くんも、あるいはまたそう訴えたという玲子さんも、もう卒業してゆくのだ。
彼ら彼女らの顔を思い浮かべながら、
――またもう一年が経ってしまったか。
と、飯田先生は、そうつぶやくばかりだ。
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