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「自然」という言葉の意味1
私たちは日頃「自然」という日本語を英語の「nature」と同じ意味に理解することが多いように思います。身近なところでは、山や川や海や野原、そこに生えている草木、そこに住んでいる動物、鳥、魚、虫、さらにそういった動植物の生態やそれに絶えず影響を及ぼしている気象の変化‥等。私たちの目を大きい方に向けてやれば太陽、月、星の宇宙があり、私たちの目を小さい方に向ければ私たち自分自身を構成するものも含めた分子、原子、素粒子、中性子‥等の極微の生き物自然がある。つまりそれは私たち人間の知覚感覚能力を外部から取り囲んでいる環境の全部から一切の人為的なものを差し引いた残りのことになりそうです。
今日私たちは「自然」という日本語を西洋文化の「nature」をはじめとする名詞として用いることに抵抗を感じなくなっていますが、元々の「自然」という日本語は名詞としては使われていなかったそうです。
源氏物語はじめ東洋文化の英訳者として有名なアーサーウェイリーはこの「自然」を
「the self-so」とか「the what-is-so-itself」と苦心して訳したそうですし、世界的仏教学者の故鈴木大拙は「as-it-is-ness」と訳しました。つまりこれらは「おのずからそうであること」という「もの(名詞)」ではなく「こと」「ありよう」を表すものだったようです。
親鸞は「歎異抄」の中の「自然法爾(じねんほうに)」の説明で「自然(じねん)といふは、自はおのづからといふ、行者のはからいにあらず」つまり、人為を捨てありのままに任せることと説いています。
私たちは自分では気が付かないうちに日頃日常的に諸々の成り行きのことを
「自然にそうなったね」
なんていう言葉を使い会話をしているようです。