「空」とは何だろう?
仏教の日本の主な宗派は浄土真宗本願寺派、浄土真宗大谷派、浄土宗、天台宗、真言宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗ですがこの八宗の祖と言われているのが紀元2世紀のインド僧、龍樹(ナーガルジュナ)で、その龍樹が確立したのが「空」の基になる中観思想です。
中観の「中」は龍樹の主著『中論』の「中」ですね。 龍樹は、この中論等の論書において、皆さんよくご存じの般若心経に代表される般若経経典群の空観を大乗仏教の基本的立場と考え、これがブッダの説いた縁起説の真意であるとして、空理論を哲学的に理論展開し体系化しました。 この論は「諸存在が縁起しているが故に空である」ということを中心テーマとして論証されたものです。
たとえば、私たちは「甲乙」という文字を無意識のうちに頻繁に使っています。よく考えてみると「甲」という文字は「乙」という文字があるから存在するのであって「乙」という文字が存在しなければ「甲」という文字が存在する意味がありません。「乙」も同様ですね。
また例えば、私たち人間は日常会話で当たり前のように「私は」と発言しています。よく考えてみると「私」という言葉は私以外の人たちが存在しているからこそあるのであって、この地球上に私以外の人間がいなければ「私」という言葉が存在する意味がありません。
つまり、一切の存在は縁起(関係性)の道理によって成立しているのであるから、 どんな存在であったとしても他とは無関係に、それ自体として存在することは不可能であり、いかなる存在であっても自性(それ自身の永遠不滅の本質)はない(無自性)。 自性がないのであるから一切の存在は空である、と龍樹は、ブッダの縁起の法を空理論から解釈しました。
また、空の立場は、あらゆる対立を越え、言語による表現や概念規定を越える究極的・絶対的立場である。 しかし、「空」「縁起」という言語による真理の表現や手段によらなければ悟りに至ることが出来ないのであるから、それは何かしら真理に基づく「仮の表現」であり、世間的・相対的真理である。 そして、諸存在は縁起の故に「空」であり、しかも「仮」として表明されるものであるから、有でもなく無でもない、これを「中道」と表現しました。 いわゆる空・仮・中の三諦といわれるものです。 中論・中観の「中」は、このことを言っているわけですね。
さて、龍樹の空理論の最大の特徴は、なんといっても「縁起不生」にあります。 般若経でも繰り返し「諸法不生」つまり「一切の存在は空であり恒常的に実在するものはない」を説いていますが、縁起の「縁」までは不生であるとは説いていません。しかし、龍樹がはじめてこの縁起さえも不生であると主張したのです。
龍樹の言うところの「縁起不生」とは、縁起の法則それ自体も縁起の法則の枠内にあるのだから、やはり実体としての力は実在せず、まさに縁によって生滅を繰り返すのだ、と指摘しているのです。縁起の法則自体も「無自性」、つまりそれ自身の永遠不滅の本質(自性)は無いという意味ですね。あまりにも難解過ぎて、実際、この縁起不生論はその他の仏教学派からつよく論難されたようです。
本当にややこしいですが、これが「空」思想の基礎かな?と私は思っています。間違っていれば遠慮なくご指摘下さい。