夕方

昼間鈍行(3)旅は多比だとナットクするの回

2015年8月18日
15:55 フェリー 徳島県沿岸

あなたは、フェリーが通った後の空がどうなるか知っているだろうか。

黄色く濁るのである。

したがって、黄色く着色された一筋の空気を辿れば、船がどう進んできたかがわかる。事実、船後方から見た空には、この船が陸に沿って進んできていることがはっきりとわかる証拠が残されていた。遠くの方は海風に煽られたのか、たなびいてその輪郭が曖昧になっている。

ぼくは「歩きタバコ」をモーレツに憎んでいる。
目の前でどこぞの中年オヤジがスパァとやり出すものならフヌヌと般若面さながらの面構えとなる。事情を知らない通りすがりの方からしたら、駅前の商店街にて目の前をまっすぐ見据え憤怒の形相で道ゆく185センチの大男を目にすることになるだろう。恐れながら野村萬斎氏に再現いただきたい。

前の人間が体に出し入れした煙を強制的に嗅がざるを得ないという理不尽さに耐えられない。ああいう連中には、こちらがいっぺんうがいをした水を「飲め」と提供差し上げたい。目には目を、臭みには臭みをだ。

近所の商店街でよく見かける歩きタバコの常習犯を、スーパーで見かけたことがある。彼はどういう魂胆かパイナップルを吟味していた。否、パイナップルを選ぶのに魂胆も何も無いのはわかってはいるのだが、怒りのあまりすっかり了見が狭くなったぼくは、他人の不快さや健康も考慮できぬアナタにビタミンを摂取する権利など無い!等と理不尽にもフンガイしてしまった。理不尽が理不尽を呼ぶ悲しみの連鎖を今後生まないためにも、ぜひこのパイナップル氏には路上喫煙をやめていただきたい。

そういえば、中学生の時にパイナップルというニックネームを携えた友人が居た。確か顔の形が似ている由。個人的には、小・中学生の名付けセンスには目を見張るものがあると思っている。常識という衣を纏ってないが故に、残酷かつ的確な名前を生み出し、与えるのがこの時期だ。

例えば、小学生の頃に「バナナジュースおとこ」という常軌を逸したニックネームを付けられていた友人が居た。最近の出来事をみんなに共有するというクラスの企画で、彼は「自宅でバナナジュースを作って飲んだ」という微笑ましいエピソードを紹介しただけなのだが、どういう訳かそのまま微笑ましくない名前になってしまった。完全に妖怪、もしくは初代仮面ライダーの敵・怪人の類である。しばらくみんなで面白がって呼んでいたものの、名前にしてはそこそこ長いためやはり定着はしなかった。その代わりに誕生したニックネームは「原人」であった。描写がその鋭さを増し、より輝くというまさかの展開だった。

一方のぼくも生涯でいろんなニックネームを付けられたが、小学6年生の頃に一部の女子たちに「粗大ゴミ」と呼ばれた時はなかなかのパンチであった。アッパーカットであった。12歳の時点で173センチあるぼくもどうかしているが、粗大ゴミというワードを選定した連中もどうかしている。名付け親は当時最強と謳われた学年一の猛女で、その程度としては学祭の演劇で織田信長役に任命されるレベルである。秀吉が「ハゲネズミ」と呼ばれるくらいなのだから、あだちも「粗大ゴミ」を甘んじて受け入れねばならない。

あとは「あだち○こ」であろうか。祖父に「おう、学校であだち○こって呼ばれてるか」とニッコニコで尋ねられた時は、あぁこの呪いは祖父の時からずっと続いているんだ…、と半ば諦めの気持ちになった。この呪いは末代まで続くのだろう。「あだち○こ」から「ち○こ」になり、「ち○こ」から「小太郎」に突然変異した時はもはや誰を呼んでいるのかわからなかったが、少なくとも公衆の面前で人名できちんと呼ばれたことに安堵したものである。

とりとめもなく、思いついたことを書いている。
船上ではやることもなく、とにかく、暇だった。

19:00 フェリー 高知県沿岸

列島方面は分厚い雲で覆われていた。雨でも降ってそうな黒々しさである。真上を見上げると、多重に重なった雲の向こうに痩せた月が見えて、とても綺麗だったから写真を撮った。

船内に売っていたカップヌードルを、夕食として食す。普段だったら捨ててしまいそうなスープや余った具を、一つ残らず丁寧に食べた。

いつだったか「旅は"多比"だ」と読んだことがある。どなたの本だったかは忘れてしまった。確か「慣れた環境から脱し旅先で色々な経験をし日常と多くのことを比べることで、それらを相対的に捉え直すことができる」という趣旨だったと記憶している。ぼくは2日目の航海を終えようとしている最中、そんな本のことを思い出していた。

ぼくは東京でいちいち空なんて見上げないし、カップ麺もそこそこに食べたら残りは捨てている。当然、日常を過ごしている中で特にそれについて疑問に感じたことはないし、そもそも改めて考えたこともない。
しかし、こうやって船上で過ごすうちに、ふと事実としてそういう自分がいることに気づけたことは意味があるのだろう、と考えた。

何が正しく、何が正しくないか、ではなく、客観的な事実として、である。

船上の景色が綺麗だったから写真を撮ろうと思い立ち、まともな食事が無いから少しでもきちんと食べておこうと思ったように、旅先の状況が東京と真逆の行動をぼくに取らせた。
昨日までぼくの机上の選択肢は「空は見ない」「カップ麺の具は残す」の2つだけだったのに、船に乗って過ごしたことで「空を見る」「カップ麺の具は最後まで食べる」と言う2つが追加され、計4つの選択肢が揃った。

ぼくらは日常に慣れすぎて、本当はあるはずの選択肢が見えていないかもしれない。

旅先で多くを比べ、日常の生活を見つめ直すことで人生における選択肢の広がりや可能性を知ることができるかもしれないこの遊びのおもしろさにぼくは気づいた。そのまま満足げに慣れた手つきでその日1缶目のアサヒスーパードライをプシュリとやる。自分の部屋や駅前の鳥貴族で飲むビールも美味いが、やはり洋上で飲むビールは、格別にウマイのだった。

***

(うっすらと月が見えた。)

_人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_ > 読んでいただきありがとうございます <  ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄