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自己破産が債務者救済の制度になるまで

櫻井光政
弁護士
士業適正広告推進協議会 理事

皆さん、こんにちは。
士業適正広告推進協議会 理事長の櫻井です。

本日はちょっと毛色を変えまして
「自己破産」が債務者救済の制度になるまでの経緯を語ってみたいと思います。

旧破産法上での「自己破産」

今の破産法は平成16年に制定されたもので、その第1条には、この法律の目的として、債務者について経済生活の再生の機会の確保を図ることも目的に掲げられていますが、旧破産法にはそのような定めはありませんでした。

第一条  破産ハ其ノ宣告ノ時ヨリ効力ヲ生ス

とてもシンプルです。

要するに、借金を返せなくなった奴からは全て取り上げて、いわば被害者である債権者が平等に分配するようにしよう、という法律でした。ですから、破産の申し立ては債権者が行うもので、自己破産申立なんて不名誉なことはするものではありませんでしたし、まして取る物もろくにないような貧乏な個人の破産事件なんてありませんでした。

もちろん、旧法時代も免責の制度はありました。

第三百六十六条ノ二  破産者ハ破産手続ノ解止ニ至ル迄ノ間何時ニテモ破産裁判所ニ免責ノ申立ヲ為スコトヲ得

昭和27年頃の法改正で取り入れられたもののようです。

しかしこの条文はそれから四半世紀の間日の目を見ることはありませんでした。

サラ金地獄のはじまり

昭和50年代になるとサラ金が隆盛を極め、年36%から100%の高利で金を貸すようになり、「サラ金地獄」で苦しむ人が激増しました。そうした状況の中で、後に日弁連会長になった宇都宮健児弁護士らを中心とする、櫻井よりも5~10歳年上の弁護士がその救済に取り組み始めたのでした。

当時、貧乏人の借金の面倒を見ることなど弁護士の仕事ではないという考え方が根強かった時代、それらの弁護士はこうした仕事も弁護士の人権救済の活動であると言って頑張りました。

宇都宮弁護士はそれで事務所を首になられたりもしました。他にも、闇金に逆恨みされて、猛獣の豹の檻の中に一晩中閉じ込められて死ぬ思いをした弁護士などもいました。

免責条項の活用という戦術

彼らが目を付けた条文が、それまで死文化していた免責条項の活用でした。困窮者自身が破産を申し立てて、免責条項を利用して再生を図るという戦術は、今では当たり前のことですが、当時としては画期的な戦術でした。全国で年間数件あるかないかだった免責は、昭和50年代には数十件利用されるようになりました。

櫻井はそうした空気を吸って新人弁護士時代を過ごしました。某T社やP社も当時は今の闇金のような対応でした。「てめえぶっ殺すぞ」みたいな電話が毎日でした。破産にしても、同時廃止なんてしてくれません。厳しい審尋を経てようやく破産できたとしても、免責申立てから許可までさらに1年くらいかかりました。なにしろ旧破産法のもとでは破産者は犯罪者みたいなものです。

第三百六十六条ノ七  検察官、破産管財人又ハ免責ノ効力ヲ受クベキ破産債権者ハ第三百六十条ノ四ノ審訊期日又ハ其ノ期日ニ於テ裁判所ガ定ムル一月以上ノ期間内ニ免責ノ申立ニ付裁判所ニ異議ヲ申立ツルコトヲ得

ね。検察官が「待った」をかけられるのです。

園尾隆司判事の英断

この破産の運用を裁判所の側から、裁判所の事務の簡素化の意図も併せ持って、現在に近い形に思い切って改善したのが、平成7年、1995年に東京地裁破産部の部長になった園尾隆司判事でした。この大胆な改革によって、破産は迅速かつ強力な債務者救済手段になって行ったのでした。

運用が大きく変わると制度が追い付かなくなります。そうして改正されたのが今日の破産法なのです。


世の中はそう簡単には変わらないけれど、全く変わらないわけではない、というところが面白いところだと、長く生きていると分かるようになる気がします。



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