拝啓、いつかの私へ #7
ひなたさんと知り合ってから半年が経った。
季節は春を迎えた。
陽向は大学3年生になり、21歳の誕生日も迎えた。
陽向は他の男性とマッチングすることは結局無かったため、アプリではひなたさんとほとんど毎日連絡をとっていた。
ひなたさんの方はどうやら他にも数人の女性とマッチングしているらしく、(よくそんなにたくさんの人と同時に連絡できるなぁ)と陽向は感心していた。
向こうは恋愛の勉強などではなく出会いを求めてアプリをやっている以上仕方が無いとは思うが、何となく、自分が“ひなたさんの周りに何人もいる女性の中の一人”であるという事実に軽く嫉妬していた。
(モテモテだった店長の周りにいた女性たちもこんな気分だったのかな。)
嫉妬
そう、陽向は恋愛とは何かを学ぶ中で異性(ひなたさん)に好意を持てるようになっていた。
ひなたさんが2時間後に返信してくれば、陽向も2時間後に返信をする。
本を読んでいても、スマホに返信の通知が来たような気がして何度もスマホを開いてしまう。
そんな調子で気づけば半年が経過していた。
「それもう好きになってんじゃないの?」
いつものカフェテリアで歩実が言う。
「いいじゃん いいじゃん。この人とはもう会えたの?」
「まだ一度も… ていうか電話もしたこと無い。」
陽向がそう言うと琥乃美も歩実も口を揃えて「嘘でしょ!?半年だよ!?」と叫んだ。
「半年間メッセージしかしないマッチングアプリなんて聞いたことないよ。」
「まぁ〜 陽向のペースで頑張ればいいと思うけどさぁ」
「ところで、小説は書き始めたの?」と、突然琥乃美が話題を変えたので陽向は思わず「なんのこと?」と答えた。
「…あなたがアプリ始めたきっかけ、忘れたの?」と琥乃美が言ったことで、陽向はすぐに思い出した。
「…あぁ!あー!いや、覚えてるよ!小説を書くための恋愛の勉強だよね!」と陽向は無駄に大きな声で言う。
「まさかその男の人が好きすぎて本来の目的も忘れてのめり込んじゃったとか?」と、歩実はニヤニヤしている。
「それならもう会うしかないでしょ!」
その夜、陽向はひなたさんへメッセージを送った。
「こんばんは。突然なんですけど、今晩か明日の夜電話しませんか?」
すぐに返事が返ってきた。
「こんばんは。陽向さんと電話をするのは初めてですよね。僕は今からでも大丈夫ですよ。」
(今から…? あぁ、私が提案したのか。)
男性に自分から電話の誘いをするのは初めてだったので、頭が回っていなかった。
半年間メッセージをやり取りした男性の声を聞く。そのことが、陽向にとってはとても大きなイベントのように思えた。
「では、今から通話しましょう。なんだか緊張するので、ひなたさんの方からかけてもらえますか?」
そう送ると、1分も経たないうちに着信が来た。
陽向は【通話に出る】という表示をタップした。
「…もしもし」
「もしもし。こんばんは、陽向さん。」
耳元で聞こえたその声は、とても優しい声だった。
「こんばんは。ひなたさん…」
「あはは!お互い同じ名前で呼ぶのなんか面白いですね!」
「そうですね… ごめんなさい私なんか緊張しちゃって、テンション低い感じになっちゃって」
「いえいえ!勇気を出して電話してくれて嬉しいです。そういえばちょっとした疑問なんですけど、なんで突然電話してくれたんですか?」
「実は、ひなたさんと近いうちにお会いできたらなって思ってて、その予定を話しながら立てれたらなと思って…」
「あー!そういうことですか!嬉しいです!いつにしましょうか!」
「あ… えっと… じゃあ来月の20日の夜とかどうでしょうか。」
「20日… 金曜日の夜ですね!僕の都合は大丈夫です!」
「じゃあその日でお願いします。」
「了解です!ただ、初めて会うのに夜で良いんですか?」
「大丈夫です。むしろ毎日大学の講義があるので夜しか行けなくて… 土日もバイトで…」
「そうでしたか!分かりました!じゃあ行く場所とかも今決めますか。」
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最前に感じていた緊張も忘れ、陽向は日付を超えるまでテンポの良い通話を楽しんだ。
次の日、陽向はまず行きつけの美容院に、ひなたさんと会う日の数日前に予約を入れた。
バイトが無い日は大学の帰りに様々なアパレルショップを覗いて、当日に着る服も色々と考えた。
(ちょっと最近出費が痛いな… バイト頑張ろう)
そんなことを考えながら、日に日に気温を増していく毎日を春風と駆け抜けた。
「ひなちゃん、最近オシャレな服を着てくるようになったね。彼氏さんでもできたのかい?」
コノエで休憩時間にコーヒーを啜る店長が突然聞いてきた。
(鋭いな、この店長)と思った陽向は正直に、「彼氏とかではないんですけど、良いなと思える人ができて!」と答えた。
「ほー。そうかそうか。僕はひなちゃんが楽しそうで何よりだよ。」
「若い子の恋って初々しくて良いわよね〜」
「この歳になるとときめきってもんが無いもんね〜」
「うちの旦那なんて昔はあんなにハンサムだったのに、今では家でゴロゴロしながら屁をこくマシンになっちゃったわよ」
コノエは従業員同士の距離が近く、業務に関係の有る無しに関わらず密接な連絡共有がなされている。当然、陽向の恋模様もバレバレだ。
パートのおばちゃんたちは陽向の恋の噂を聞きつけ、なんだかわくわくしていたし、留学生のウィからも「ヒナさんGood luck! 月がきれいですね。」と応援だかなんだかよく分からないことを言われる始末だ。変な日本語を順調に覚えているらしい。
今までは賄いもオムライスをもりもり食べていたのに、最近はサンドイッチとサラダを食べることが増えた。
そんな感じで日々を過ごし、ついに当日を迎えた。
時刻は18時13分
場所は自宅から何駅も離れた都心の駅
駅の近くに有名なフレンチのレストランがあるらしく、待ち合わせは駅の改札近くになっていた。
集合は18時30分の予定だったが、陽向は念の為早めに着いていた。近くのトイレの鏡で身だしなみを確認する。
フレンチに行くのも初めてなので、服装は少しフォーマルなものにした。
陽向は待っている間、完全に手持ち無沙汰になっていた。
(あれ…?こういう時、私ってどうやって時間を潰してたっけ?)
バッグの中に手を伸ばすと、奥の方に『世界から猫が消えたなら』が入っていた。
可愛い猫の装丁には、シワが入っていた。栞が挟まっていたページは、陽向が去年の秋にマッチングアプリを始めた頃に読んでいたページだった。
刹那、名前の無い感情が陽向の中に芽生えた。
(私ってあの人に出会ってからずっとスマホを見る生活になっていたの?)
「陽向さんですか?」
考え事をしていた陽向は、聞き覚えのあるその声に反応が遅れた。
顔を上げると、ブラウンのカーディガンを羽織った背の高い男性が目の前に立っていた。
「はい… ひなたさんですか?」
「はい!初めて電話した時と同じようなやり取りになりましたね!」と笑った彼がひなたさんだった。
「はじめまして。ひなたです。じゃあ、早速レストラン行きましょうか。」
ビルの7階、足元だけがオレンジのライトで照らされた薄暗い廊下の先にそのレストランはあった。
ギャルソンが2人を窓際の席へ案内する。
窓からは都心の夜景が綺麗に見えた。
ギャルソンがドリンクはどうするかと聞くので私はドキッとしたが、彼が「赤ワインで」と頼んでくれた。20歳の誕生日に巨峰サワーは飲んだが、ワインは初めてだったのでこれまた緊張した。
「私こんな所初めて来ました!」
(しまった、幼稚なコメントだったか)と陽向は思ったが、卓上の蝋燭が照らす彼の顔は笑顔だったので安心した。
メニューを見ると、訳の分からない単語がたくさん並んでいた。どうやら料理名のようだ。
恐ろしいことに、メニュー表には料理の写真や値段が一切書いていない。
文庫本とは比べ物にならないくらい、余白が多く残されたメニュー表だった。
「陽向さんは何か食べたいもの決まりましたか?」と彼が聞く。
「え、あ、えーと」と私はメニュー表にものすごい勢いで目を通し、その中に“La Ratatouille ~ラタトゥイユ~”という表記を見つけた。
(『レミーのおいしいレストラン』だ…!これは知ってるぞ。)と思った私は「こちらのラタトゥイユにします。」と答えた。
彼は「分かりました。」と言うと、静かに指を立ててギャルソンを呼んだ。
(なんだそのオシャレな呼び方は)と陽向は思った。
窓から見える街は、次第に夜の黒い色を強めていた。
景色と料理、そして会話を楽しみ、そろそろ帰る頃かと陽向は思い始めた。
ちょうど彼が「そろそろ出ますか?」と言うので、私は「そうですね。お会計はどれくらいですか?」と答えた。
「いや、ここの会計は全部僕が出しますよ。そんなことより」
彼が私の目を真っ直ぐに見た。
「この後ホテルを予約しているので、早くそちらに行きましょうか。」
「ホテル?何の話ですか?」
「いや、君もお酒が飲める歳なら分かるでしょう。まさかここまで来て何も無いとは言いませんよね?」
蝋燭が照らす彼の顔はさっきとはまるで違っていた。私はワインの酔いが一気に冷めるほどゾッとした。
「…最初から、私に初めてメッセージをくれた時からそのつもりだったんですか。」
陽向は声を絞り出した。声が震えていたのは恐怖心からか、それとも怒りからか、分からなかった。
「…何? もしかしておれが本気で君に好意を抱いてるとでも思ってたの?」
陽向はその質問に答えられず、下を向いていた。目の前にいるその男がどんな表情をしているのか見えないように。
男は深くため息をついた。
「もういいよ。何ヶ月もかけさせやがって。時間と金の無駄だったな。
お前みたいななんも考えてないクセにガード固い女が一番めんどくせぇんだよ。一人で小説でも書いてろ。」
そう言うと男は会計を済まして店から出ていった。
「お客様、お連れ様が退店されましたが…」
陽向の所へやってきたギャルソンは、綺麗なスカートにシワができるほど固く手を結び俯いている陽向を見て、「少々お待ちください」と声をかけた。
すぐに戻ってきたギャルソンは「このようなものしかございませんが、宜しければお使い下さい。」と、おしぼりと紙ナプキンを数枚机に置いて下がっていった。
15歳だった私が豹変した父から得た学びは、「人は変わる」ということだった
あの頃の私は、人は良い方向にも悪い方向にも変わるものだと思っていたが、それは違った
人は良い方向へ変わることなんてできない
人はある瞬間に悪い方向へと変わってしまうだけなのだ
良い方向へと変わることができないなら、いっそのこと思いっきり悪い方向へ変われたらきっと楽なのに
私は変わることができなかった
変われるかもしれないという希望を与えてくれた男と歩いた廊下を、男が残した絶望と共に陽向は歩いていった。