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総量的に独占される奇跡
奇跡とは、いつも予期せぬ風のように、
あらゆる隙間から静かに忍び込むもの。
その総量を数えようと試みることは、
深い霧を掴むような行為だけど、
人はそれを追い求めずにはいられない。
奇跡は、目に見えぬ形で存在する。
それは見えない触覚で世界を撫で、
空気の隙間を泳ぎ、
思念の片隅に舞い落ちる。
すべてがつかの間の煌めきのように
感じられるその瞬間、
奇跡は生まれながらにして独占され、
だれのものであろうと
独り占めのように、
しばし心を満たす。
だが、それに気づかぬまま
通り過ぎることもある。
目を凝らせばあったであろう光、
その存在がささやかであるほどに
容易く見逃され、そして奇跡は次の
居場所を探して流れてゆく。
奇跡の総量とは、計り知れないものだが、
もしそのすべてが独占されるならば、
奇跡はなおさら奇跡であり続けるのだろうか?
ありふれたものに成り果てる瞬間、
奇跡の輝きはただの光へと変わり、
奇跡であることを
やめてしまうのかもしれない。
だが、たったひとつの、他のすべてが
かすむほどの奇跡が存在する。
それは、人が奇跡の正体に気づかないまま、
いまだに奇跡として
生き続けていることである。
その奇跡は、私たちの無知の隙間に
密やかに息を潜め、確かなものへの
独占的な光芒の衣を纏う。
生の本質は分割できない
秩序の中で蠢いている。
奇跡はいつも、無数の分割を超えた一点に、
すべてを支配する
静けさとともに立ち現れる。
個としての意識が
無数に増殖するように
宇宙は自己の内に広がりつづけるが、
どこかで一つに還るべき
計り知れない法則があるかのように、
全ての出来事が密かに"総量的"な
意図のもとに独占されている。
奇跡は、無音の支配者の如く、
この深遠なる意図の中で形を変え、
光の粒子が揺れるように、
現れては消える。
あるいは、生と死の境を超えて
一瞬の輝きを宿すもの、
または、感情の川を満たし尽くすもの。
個々の命がその瞬間に与える献身、
その総和が無限の可能性を凝縮する。
自己のすべてを超えた
“独占された奇跡”として。
奇跡とは、一瞬にして揺らぐ
無限の触媒であり、その数には
限りがないと謳われる。
総量という言葉の響きは、あたかも、
真実が数えられるかのように響く。
奇跡が総量で示されるなら、
その背後には何らかの
法則が蠢いているか
それとも、私たちは奇跡を数えることで、
それらの唯一性を分割し、
所有しようとしていることであるのかもしれない。
人々は一人ひとり、無数の奇跡に囲まれ、
かつての計測装置を手にして、
奇跡を捕らえようと試みる。
だが奇跡は言葉の上で確定し、
数えられることを嫌う。
奇跡の「総量」を定めることで、
それは記憶と現実から抽出され、
静寂の中で美しさを
失うのかもしれない。
ゆえに奇跡を独占するとは、
奇跡の絶対的な全体性を失い、
部分の破片を手にすることに他ならない。
それは、限界のない美に境界を設け、
私たち自身の理解の範囲に封じ込める試み。
しかしその試みは、奇跡の本質である
「偶然の軌跡」を平坦なものにし、
私たちの魂の糧とすべき驚きを失わせる。
奇跡の総量を独占するというパラドックス、
それは私たちが未知と共に在ることを拒み、
既知であるかのように世界を
掌中に収めたいという
欲望の表れかもしれない。
が、その欲望は奇跡の隙間を細かく仕切り、
私たちから未知への感嘆を取り去る。
確率の波に身を委ねながら、
存在という奇跡の総和を
独り占めしようとする。
総量保存の法則の中で
奇跡は誰のものでもなく、
同時に万物のもの。
それが独占される日は来ないだろう。