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自らの誤りの中の安住
誤りとは、踏み外した一歩ではなく、
意図して選び取った螺旋階段に似ている。
私たちはしばしばその影の中に彷徨い、
しかしながら、その影こそが
安らぎをもたらす場であることを見逃す。
誤りの中に生まれる孤独は、
言葉に形作られない平和。
理性の刃が正確に断ち切ることのできない
微細な糸がそこには絡まっている。
人間であるとは、完全でないことを知り、
それを受け入れることではない。
無数の誤りは単なる失敗の記録ではなく、
生命の履歴書そのもの。
生命の混沌と深みに触れることなく、
光の輝きに目を焼かれる危険がある。
誤りの中で、創造の種を撒く。
虚空に投げられた言葉や行動が、
予想もできない果実を実らせる。
誤りとは、予測不可能性という名の贈り物。
安住とは、誤りを正そうとする意志を
捨てることではない。
誤りと和解し、共存すること。
そのリズムに身を委ね、
正しさと間違いの境界を曖昧にする。
そしてその曖昧さの中で、
ついに静謐な真実を見いだす。
それはまるで過去の囁きのように静かに、
人は己の誤りを忌避し、
忘却という名の霧で覆い隠そうとするが、
誤りはどこまでも付き従う
忠実な道連れ。
では、果たして誤りとは敵か、
あるいは我が身に寄り添う
最後の理解者。
誤りを恐れる者は、
常に正しさを追い求める。
大地に根ざした正しさは
風に吹き荒らされ、
空に描かれた正しさは雨に滲む。
もし正しさが砂時計の砂粒ならば、
誤りはその粒が零れ落ちる瞬間を記す刹那の重さ。
逃げることも許されぬと悟ったその時、
私たちは誤りと共に座し、
対話するしかない。
すべての誤りは、
自らが蒔いた種であり、
心の土壌に深く根付くもの。
その根は時に痛みを伴うが、
同時に花を咲かせる力を秘めている。
誤りを己の一部と認めたその瞬間、
人は生の完全な姿を目撃する。
正しさの檻を捨て、
誤りという無限の海へ。
その波間には、たゆたう安らぎが待つ。
正しさの対極にある静けさ、
あるいは、誰もが見過ごす欠片の中に
隠された真実の微笑み。
誤ることは、人が触れることのできる
最も柔らかな地平。
その土壌は傷つけられるほどに肥沃になり、
新たな芽を宿すために自己を受容する。
人は誤りを恐れる。
それは、秩序を乱す不協和音であり、
完成を妨げる曖昧な欠落のように見える。
だが実のところ、
誤りは完成ではなく始まり。
自らの誤りを抱え込むとき、
私たちは時間という砂時計の中に、
静止する粒のような存在となる。
正しさの追求に疲れた私たちは、
そこで初めて自己決定の極致を味わう。
誤りとは、地図にない道であり、
星座に記されていない光。
その中で迷うことは、
方向性の無さではなく、
可能性の豊かさ。
そうして私たちは誤りの中に安住する。
正しさという鋭利な刃を手放し、
不完全であり続ける勇気を抱いて。
その安住は、赦しでもあり、
そして再生。
私は、私の誤りたちを愛し、
それらが織りなす不完全な調和を受け入れる。
誤りという名の大地を踏みしめ、
私は歩き続ける。
その足跡は、未来という虚空に、
開拓者の足跡を刻むために。