
そんな伺いのなかの洞徹
声なき声が耳の奥に沈み込むたび、
世界の襞がわずかに歪む。
問いかけは問いかけのまま、
解かれることなく、
ただガラスの軌跡となって広がっていく。
問うことの手ざわりが、
すでにひとつの答えを孕んでいる。
伺いのなかに沈潜し、
ゆらめく境界を指でなぞる。
その指先は、かの答えの胎動を
確かに感じているのに、
形として結ぶことを許されない。
問いかけの奥に穿たれた微細な裂け目、
その奥に満ちる光の粒子が、
すでに答えの片鱗を語っている。
しかし、それを語りきることは
許されない。
語る瞬間に、答えは問いの外へと
逃げ去る。
世界は常に「ほぼ言葉」でできている。
決して言葉にならない部分を
余白に抱えながら、
それでも言葉の端々に己を映し出す。
そして、その映し出し方は
歪み、ゆがみ、ゆらぎ
のうちに揺れ続ける。
だからこそ、伺う者の目は
研ぎ澄まされねばならない。
問いと答えの狭間で、
意味の断片を拾い集めるために。
問いのなかに沈み込み、
そこで漂いながら、
なおも見抜く。
ひとはいつも、伺う。
誰かの言葉の隙間に、
未来の輪郭の曖昧に、
あるいは、自身が放つ問いの果てに。
観ることなき視線、
測ることなき尺度、
静かに呼吸する意識の淵に、
洞徹の刃は眠っている。
伺うことは、裂くこと。
沈黙を裂き、
確信の裏を裂き、
予感の皮膜を裂くことで、
ついに世界は、
その露わな裸身を見せる。
見えぬものを見るために、
言葉を削り、思考を研ぎ、
伺い続けたその先で、
私たちは初めて、
伺うことの終わりに立つ。
洞徹の光は、なお深い影が、
私たちをまた、新たな伺いへと誘う。
ひとは時折、問いのような貌をして佇む。
問いではなく、問いを孕んだ貌。
それは、答えを求めるためではなく、
問い続けることそのものを
生きている証左として。
伺いとは隙間を測る行為であり、
影の輪郭をなぞる手つき。
応答など端から期待されていない。
むしろ、問いが問いのままでいられること、
その恒久性が奇妙な安心を与える。
見るよりもなお深く、
目の奥をすり抜け、
言葉が追いつけない場所にまで沈み込む。
水鏡に映る己の顔を覗き込み、
波紋が静まるよりも早く、
その奥底へと降り立つ勇気を持つ。
伺いは洞徹を欲し、
洞徹は伺いの余白に宿る。
答えを握りしめた手は、
すでに何かを失っている。
ならば、問いの中に漂うまま、
迷うことを愛してみては。
だが、その声音はひどく柔らかく、
まるで答えを望んでいないようだ。
むしろ、問いの響きが生む波紋のなかに
沈みゆくことを、
静かに愉しんでいるかのように。
ひとつの明瞭な像を求めることは、
像が結ばれる寸前の、
揺らぎのなかに漂うことにある。
剥がれ落ちる言葉、
無に帰す論理、
光へ向かう影の輪郭。
伺いの果てにあるものは、
洞徹ではなく、
さらに深まる盲目かもしれない。
己をひそめる身振りは
確証なき渇望を投じる試み。
誰かの目の奥に、誰かの舌の端に、
確かに佇むはずの真理が、
まるで水面を滑る光のように、
すくい取るそばから指の間を逃れていく。
眼差しの奥底で、
言葉の輪郭をほどき、
その静謐なる崩壊を見届けること。
透徹なる眼差しが、
伺いの薄膜を静かに穿つ。
疑問符が風の如く散りゆく中で
ゆらぎながら深遠へと沈むとき、
世界はその輪郭を幾重にも折り畳む。
見えるものは見られたものであり、
見られるものは、すでに
“見られた”という過去の影に落ちる。
まなざしが届く先に、
真実などという静的なものはない。
あるのはただ、
揺らぎ、遷ろい、転ずる世界。
伺うことによって見えたと思ったならば、
その瞬間に見えたものは偽となり、
見えないものだけが秘色の
庭に咲き誇る脈打つ鼓動。
だからこそ私たちは伺い続ける。
洞徹の刃を研ぎ澄まし、
なおも、なおも、
見えぬものの輪郭を探るために。