通り過ごすことのできる事象で
日常の地平を巡る日々の事象
すれ違う数多の瞬間、
それは通り過ごせるもの、
もしくは残すべきものか。
知覚の手前に漂う小さな風音、
微細な陰影が地平線に重なり合い、
やがて夜明けへと沈む。
目に映ることもなく消えゆく数多の「点」
無名の瞬間が交差し、
自己の境界を揺るがす。
あるものは記憶の細片となり、
静かな囁きとして心に根を張る。
通り過ごすことのできる事象で、
それは漂う存在の余白であり、
目に映らぬ隙間でさえ、何かを宿し、
私たちに僅かな問いかけを投げかける。
問いかけに応じることなく、
ただ、静かに、通り過ごせばよいのか。
それとも、それが映し出す影の色を知覚し、
今という不可視の地図に
印を刻むべきなのか。
すべては選択の果て、
通り過ごせる事象でありながら、
そして、そのまま一つの問とともに
ただ歩み続ける。
日常の地平を巡る日々の事象、
すれ違う数多の瞬間。
それは通り過ごせるもの、
もしくは残すべきものか。
知覚の手前に漂う小さな風音、
微細な陰影が地平線を彩る。
通り過ぎることのできる事象、
それは一瞬の閃光のように、
私たちの意識の縁をかすめる。
見過ごされることの多いその瞬間
日常の中に埋もれた小さな奇跡、
しかし、その一瞬一瞬が積み重なり、
私たちの存在を形作っている。
通り過ぎることのできる事象、
それは私たちの人生の断片であり、
無数の点が線となり、
やがて大きな絵を描く。
見過ごされることの多いその瞬間、
その事象をどう捉えるか。
見過ごすか、立ち止まるか、
日常の中に埋もれた小さな奇跡、
それは私たちが気づかぬうちに
過ぎ去っていく。
けれども人は急ぎ足で通り過ぎる。
木漏れ日が描く地面の模様、
誰かの仕草に垣間見える優しさ、
街角で交わされる他愛もない会話。
これらは確かにそこにある。
しかし、見逃してしまっても
世界は回り続ける。
通り過ぎることのできる、
それゆえに尊い存在の軽やかさと重さを
同時に抱えながら私たちは歩み続ける。
昼と夜の狭間で流れる影、
その一瞬の静寂に包まれる空気は、
見る者の眼差しに
意味を映し出すことなく、
ただそこに在る。
遠く離れた思考の小舟に揺られ、
人はただ揺蕩う、
なぜか時の川底を眺めるようにして。
通り過ぎた事象は確かに存在し、
その痕跡は私たちの内側に深く刻まれる、
だが、それらは重ねるには重すぎる砂、
手から零れ落ちる細かな粒子に過ぎない。
触れることも、掴むこともできないが、
感じることのできる微妙な存在。
空虚と実在の裂け目に浮かぶ、
見過ごされることのない儚い瞬間が、
一瞬の解放をもたらし、
それでも、人はただ通り過ぎてゆく。
通り過ごすことができるのは
既に十分に生きているからこそだと。
目の前の景色は絶え間なく流れゆく。
それでも私たちの内側に
確かな何かが積み重なっていく。
通り過ごすことは存在の豊かさの証
そして新たな始まりの予感。
光が揺れる波の戯れ
移ろいながら無数の形をまとう、
影と色が交差し合い、
消えゆく瞬間に
その姿を掴もうとする。
しかし、目を凝らすたびに薄れてゆく
その像は、記憶の中でのみ固定される。
確かに、今この瞬間にも
生まれては消える、
決して再び出会うことのないものたちが
時の流れの背中で息づいている。
触れることも叶わず、
ただ眺めるだけの私たちにとって
それは不確かな存在だ。
とはいえ、彼方に過ぎ去る事象もまた
私たちの一部であるのだろうか。
目の前に現れるものが消え去ることで、
かつての我もまた変容していく。
やがて来る一瞬に再び出会うことを夢見る。
通り過ぎゆくはずのものを胸に抱えながら、
私たちは今もなお、見つめ続けている。