淀みを排した存在の明晰
澄んだ水面のように、
世界はその輪郭を失わずに揺らめく。
だが、その揺らぎの中に、
私たちは幾度となく迷い込む。
存在の核心には、
果てなき流れがある。
目に見えるもの、
耳に届く音、
手に触れる感触、
そのすべては常に流動的で、
固定点を持たない。
淀みは思考の怠惰によって
生じるものであり、
それを見つめることは、
心を囚われの檻に
閉じ込める行為にほかならない。
明晰さを得るとは濁りを
取り払うことではなく、
むしろ濁りそのものを透視する技術。
答えそのものもまた
一つの揺らぎであり、
この淀みの中で泳ぐ術を学ぶこと。
真理を掴むことではなく、
真理の可能性を追い求める旅の中に
存在を見出すこと。
世界の輪郭を描き直すたびに、
その輪郭が消えゆくのを見る。
明晰とは、曖昧さを
否定することではない。
むしろ曖昧さとともに在ることを許し、
その中にある秩序を垣間見ること。
心の湖が風に揺れるとき、
波紋の一つひとつが光を反射し、
新たな形を描き出す。
その美しさに気づくとき、
存在の淀みはもはや障害ではなく、
創造の源泉となる。
真実を得ることは目標ではない。
それを問う行為そのものが、
存在の明晰へと至る道。
鏡面の湖が、
風の囁きに揺らめくことなく広がるとき、
水面の下には無数の記憶が眠っている。
時の砂時計が落とし続けた粒子が、
静かに堆積する。
見えぬ波動、
耳を澄ませば微かな音の痕跡。
ここには音さえも溶け込む。
吐息が問いを纏い、
答えを拒み続ける。
その問いは、夜を彩る
星座のごとく編み上げられ、
一つの真理を切り裂く刃となる。
語り得ぬものの境界に立ち、
沈黙の奥行きを深く測る。
存在することの意味は、
自己を解き放つ行為の連なりであり、
境界の揺らぎを受け容れる勇気の名。
明晰の光は、
ただ純粋であることを求めない。
それは螺旋の軌跡、
迷宮の中心で燃える一つの炎。
理性の冷光が燃え尽きるとき、
その灰の中に芽吹く
未知の象徴、曖昧さの中の確かなもの。
いのちの脈動は止まらぬ川。
清流もまた泥を抱き、
海を目指す。
淀みを排するとは、
決して清冽な一つの形に固執しないこと。
この明晰は形なきもの。
境界を超え、溶け合う瞬間に
問いが問いとして止まる。
永遠の探究、それが澱みなき存在の証。
存在とは、ただそこにあるだけでは
流れぬ水のごとし。
時間の川床に沈殿する感情と記憶、
その粒子たちは揺らぎの中に眠り、
形なき形として
人の心の奥底に積もる。
何者かであり続ける意志は、
澱みを許さぬ流れとなるか、
それとも静かなる停滞となるか
問いは既に世界に響いている。
私たちの視界を覆う霧は、
思索の旅路で出会う迷いの象徴。
霧は柔らかに視界を奪い、
輪郭の不確かさを教える。
しかし、それが遮るものは
光だけではない。
思考の隅にこびりついた概念の泥、
感覚の鈍麻、それこそが
霧の源泉、澱みの姿。
鏡が曇るとき、私たちは他者の姿も
自分自身も正確には捉えられない。
思考の川を澱みなく流れるためには、
単なる迅速さではなく、
清澄な深みが求められる。
澄んだ流れとは、
妥協なき自己認識の闘争であり、
自己欺瞞を水底の石として沈めること。
すべての問いが鮮やかに
浮かび上がるその瞬間、
存在は形を変え、
言葉が世界を透徹する。
疑念を恐れぬ精神は、
光を閉ざす壁を破る弾丸のようなもの。
澱みを排した存在に、
影は残らない。
影は他者の幻想、
未だ名付けられぬものの
残滓に過ぎない。
明晰なるものは、
輪郭を持ちながらも
自由な流れを保ち、静けさの中に
終わりなきダイナミズムを内側に抱える。
曇りなき湖面が天空を映し出すように、
明晰な存在は他者をも鮮明に映す。
存在は自己を解体しながらも、
同時に全体を織り成す。
淀みを否定することは、
存在の流動性を否定することに等しい。
言葉が剣のように鋭く、
思考が鏡のように
透明であることを渇望する声。
単なる無垢や単純さではなく、
あらゆる曖昧さを抱え込み、
それでもなお輝く意志の煌めき。
この世のどこかに、
完全に淀みを排した
存在があると信じることは、
もしかすると人間の
最も美しい幻想かもしれない。