『サイバーパンク:エッジランナーズ』を見ました

エッジランナーズでありたい

アニメならでは雑さと派手さがパンクしてるスタイリッシュさが魅力

デイビッドがアウトロー、作中ではサイバーパンクとして成長する過程とルーシーとの仲がどうなるかに注目。
脇を固めるキャラも王道に彩られている。
ゲーム側をあっさり遊んだために雰囲気しかエッセンスを感じ取れないが、作中と同じようなムーブメントをゲームでも再現できそうと思うと胸が躍る。
インプラントを装着するシーンで血みどろになる様子が、ナイトシティのクレイジーさを再表現するのに一役買っている。
皆が狂ったらそれが日常になる。
その日常をぶち壊すのはさらに壊れたやつになるだろう。

エッジランナーズ。
先端を走る者。この言葉は単なる比喩ではなかった。
主人公デイビッドが駆け抜けた人生を通してて考えさせられる哲学そのものである。
メインがクロームに呑まれてサイバーサイコシスを発症して死んだためにその地位を引き継ぐデイビッド。
その稼業を通じて彼はさまざまな際のキワを走る。
依頼に基づく一般人の殺害。
ー善人と悪人のキワ

クロームに苛まれる生身の肉体
ー機械と動物のキワ

ルーシーへの愛
ー生と死のキワ

ゲームでは描ききれなかったインプラントの有効性と脅威がドラマを産んでいる。
ゲームでは単なる攻略と育成のシステムにすぎないインプラントが、実際に生きる人々にとってどのような影響をーサイバーサイコシスー及ぼすかを克明にかつやや加虐的に表現している。
ゲームでは一般人の殺害も可能でありむしろそれを愉しむ側面すらあるが、アニメではその行いこそまさにサイバーサイコの所業であることが描かれる。
デイビッドの葛藤はプレイヤーに対するアンチテーゼの展開ー善人と悪人、引いてはゲームと現実の境界の曖昧さとそこから得られる快楽という矛盾ーだと感じた。
こうした強烈なメッセージをゲームプレイヤーに新たに投げかけた点が優秀。

また、デイビッドは徹頭徹尾舞台であるナイトシティの住人でありヒーローではないことが印象的だった。
サイバーパンク、フィクサー、コーポ、それぞれがどのような思惑でナイトシティを構成しているかをわかりやすく描き、かつデイビッドが死んで幕を引くことでプレイヤーにとってはナイトシティの日常と、外伝的ドラマとしての印象を強めることに最高した。

デイビッドは、サイバーパンクはヒーローではない。
彼らはただ己の欲望、もしくは願いに従って生きる。
デイビッドが唯一特別だったのは、誰かの願いに沿って生きることが自分自身の願望だったことだろう。だから死んだ。
それでも、最後に笑って逝けた彼は特別だ。
望み続けて死ぬのではなく、叶えた夢をールーシへの愛を貫いてーいられたから。

これは単なる外伝ではない。
エッジランナーズとは生き様そのものである。

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