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shigekumasaku
●書評「普通がいい」という病 (講談社現代新書)
●書評「普通がいい」という病 (講談社現代新書)
死を意識してはじめて生を感じる。
死に間際の人に接する人も、患者は死を意識すると
いままで感じない喜びにふれる人もいるということ。
批判や失笑さえも感謝にかわる。
もう少しで死んでしまう。
ならば何か。
日々朝起きれば今日も生きているということを実感する。
この食事が最後。この景色が最後。今日で最後かもしれないならば
そこにあることは奇跡の連続ともいえるだろう。
人は誰でも死を経験する。
それでもその経験を語れる人は一人もいない。
語っている人がいれば死を経験していないからだろう。
人間が最後に体験することは最初に体験する死でもあるということ。
皮肉にもその死を意識してから本当の人生がはじまっていく。
ならばできる範囲でわれわれも死を意識することが重要といえる。
今日という日は明日はないかもしれない。
卒業式、車を手放す日、離婚をする日。良い別れと悲しい別れがある。
悲しいわかれは常に感謝があるはず。悲しくなければその存在はいらなかったものとも言える場合もある。
常に今日が最後の日ならばなにをやるか当たり前ではない1日をどう生きるかで人生を完全燃焼できる感覚があるはず。