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金木犀

 明けない夜はない。
 そんなことを昨夜友人に言われたが、その通り夜が明けた。カーテンから差す朝陽が眩しい。体を起こすと、まだ残っているだろうアルコールにくらりとした。部屋を見渡すとすでに友人はいない。歩いて帰れる距離だ。彼女が待つアパートに帰ったのだろうと納得するが、何も言わずに帰るその薄情さに少しだけ拗ねさせてもらいたい。何を隠そう、俺は昨日フラれた。
 何がいけなかったのか、未だにわからないでいる。
 デートもしていた。連絡だって、マメまではいかずともちゃんととっていたし、身だしなみにも気を遣っていた。それは突然だったのだ。少なくとも俺の中では。
「別れて欲しいの」
 話があると呼び出され、大学の学食で落ち合ったときに唐突に告げられた言葉。てっきり次の俺の誕生日の話だと思っていたから、ものすごく動揺した。そんな俺を置いてきぼりに、彼女は言葉を連ねて行った。
「あなたが悪いとかじゃないの」
「私の気持ちの問題で」
「嫌いになったわけでもなくて」
 つらつらと煮え切らない言葉を述べる彼女に「じゃあなんで」と尋ねると、少し考えてから言われたのは。
「私今、好きな人がいて」
 これが全てだった。
 俺以外に好きなやつが出来たから、別れて欲しい。
 シンプルでわかりやすいが、一番きいた。ショックすぎて、それ以降も話し続けていた彼女の言葉はほとんど覚えていない。気付けばいつの間にか彼女はいなくなっていて、俺がただ一人、6人掛けの学食のテーブルでうなだれていた。向かいのテーブルでおそらく俺たちの会話を聞いていたであろう女子3人組の「可哀想」という声が漏れ聞こえた。さすがにそれ以上その場にいられなくなり、足早に学食を出た。そのまま友人に連絡を取り、酒を買い込んで自分のアパートで飲んだ。泣いて、飲んで、泣いた。夕方も早い時間から付き合ってくれた友人に感謝しかないが、せめて一言言ってから帰ってくれたらとも思う。でも酔いつぶれた自分を起こさないようにしてくれたのかもしれないと思うと、彼を責めることはできなかった。
 起き抜けのままそんなことをぼんやりと思い返していると、気の抜ける音が自分の身体から響く。
 ―――腹減った。
 思えば昨日は酒とツマミの乾きものばかりでろくに食事をしなかった。まだフラれたショックは残っているが、腹は減る。そんな自分に情けない気持ちにさえなった。失恋して食欲が無いという話はよく聞く。フラれて5キロ減ったなんてやつもいた。だけど俺はフラれた次の日にはお腹が鳴った。その程度だったのかと自問自答する。答えは出なかった。
 放り出されていた財布を手に、適当な服に着替えて部屋を出る。寝ぐせはそのままだが気にならない。季節はもうすぐ秋だが、まだ残暑が厳しい。半袖に短パンでじゅうぶんの気候が、少しだけありがたかった。
 一番近いコンビニまでは数百メートルだ。だけど今日は少し歩きたかった。3つ目に近いコンビニまではもう少し距離があり、そこならCMでやっていた気になる弁当もあるかもしれない。どこかの有名なシェフが監修したデミグラスハンバーグ弁当。それを目指して、少し歩くことにした。
通学路でもあるその道は公道に面していて、等間隔に樹木が植えられている。桜の木だ。ついこないだまで青々と茂っていた葉桜は、すでに来る紅葉に向けて準備を進めているかのような風貌になっていた。前に彼女とここを歩いたときは桜の散りどきで、歩道が散った花びらに埋め尽くされていた。思えばそれ以来、彼女がこちらのアパートに泊まったことはなかった。いつも自分ばかりが彼女の元に通っていた。その頃から気持ちは離れていたのだろうか。そんなことを考えてはまた沈みそうになるのを、頭をふって誤魔化す。だが忘れようとすればするほど、余計に考えてしまった。
 昨日、ほとんど覚えていない彼女との最後の会話。何故か唐突に、彼女が言っていたことを思い出した。
「私ね、あなたのこと好きだった。一緒にいて楽しいし、楽だし、この人でいいかって思ってた。だけどね、今好きな人のこと、この人じゃなきゃ嫌だって思ったの。この人でいいかじゃなくて、この人じゃなきゃって人のこと、追いかけたいの」
 蘇った彼女の言葉に、足が止まる。顔を上げた。以前彼女と手をつないで歩いた道だ。もう散った桜の花びらはどこにもない。綺麗に舗装された歩道の奥に、今度行こうねと話していた公園が見えた。そこの広場に彼女が持っているというポップアップテントを広げ、お弁当を持って行ってバドミントンでもしようか。そんな話をした。結局やらずじまいだった。どこからか金木犀の香りがした。季節が変わる。彼女との思い出は、もう過去になる。
 じわりと、昨日散々出尽くしたはずの涙が再び溢れそうになり、唇を舐める。食欲がどこかに行ってしまった気がしたが、目当てのコンビニまではあと少しだ。大好きなハンバーグ。シェフ監修だからさぞお高くさぞ美味しいんだろう。それを楽しみに、それだけを楽しみに歩く。もう自分は、ひとりでここを歩くしかないのだ。
 やがてそのコンビニが見えて、少しだけ歩調を速める。もうすぐ昼時だ。人気のものはすぐに売り切れてしまう。目当てのものが買えなかったら、必要以上に落ち込んでしまいそうな今の自分が嫌だった。
 すると数十メートル先のコンビニの扉が開き、中から出てきた男に見覚えがあった。
「……え」
 小さく声を出す。それが聞こえたわけではないだろうが、男がこちらに気付き手を降った。
「よお! 起きたか!」
 帰ったと思っていた友人だった。手にはコンビニの袋を携えて、小走りでこちらに寄ってくる。
「……帰ったと思ってたわ」
「なんでだよ。ラインしただろ。コンビニ行くって」
 そう言われて、そういえばスマホを確認していなかったことに気が付いた。そもそも酔っぱらって部屋に置いたままで出てきてしまった。
「見てねえ」
「いや見ろよ。つーか昼飯買った。……ほら、これ」
友人が得意げに袋の中身を見せてくる。そこに覗くのは。
「……ハンバーグ弁当」
 俺の大好物のハンバーグ弁当だった。ただし、そこにシェフ監修の文字はない。
「なあ、これ、ナントカのシェフ監修みたいなやつなかった?」
「あー、あったな。でもすげー高ぇの。980円。これは780円」
「俺はその高いのが食べたかった」
「んだよ。文句言うなよせっかく買ったのに。俺のおごりだぞ」
「え、まじで」
 900円だろうと700円だろうと、学食だと二食分換算の値段だ。それをおごりと言う友人に目を見開く。友人は得意げに笑った。
「おまえの良さをわからなかった女と別れられたお祝いだよ。とっとけって」
 ツン、と鼻がしらが熱くなる。何気ない友人の言葉に泣いてたまるかと、俺はコンビニの袋を奪い取った。
「……はぁ? おまえ自分の分はシェフ監修のオムライスじゃねえか!」
「うまそうだったから」
「じゃあ俺のもシェフ監修にしろよ」
「いやおまえのはそっちもうまそうだったから」
 くだらない会話の応酬をしながら、季節の変わり目の歩道を戻る。
 アパートに帰り、温めてから食べたハンバーグ弁当はうまかった。だが無理やりひと口奪った友人のシェフ監修オムライスはもっとうまかった。満足げに食べる友人に、恨めしい気持ちとともに抱いたものを小さく伝える。
「……ありがとな」
 友人はただにやりと笑った。
 結局目当てのハンバーグ弁当は食べられなかったから、今度こそシェフ監修を求めて再びあの歩道を歩くことになる。そのとき思い出すのはきっと、散った桜の絨毯ではなく、金木犀が香る今日の日だ。

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