時間差読書会。新約聖書、第2コリントス 2章

本の感想を投稿して、興味のある方からコメントをいただいて、というのをnote上でやりたいです。
この本について、また私の投稿についてnoteに(他のブログ等でも、もちろん可)書かれたらお知らせください。読ませていただきます。
そして、構わなければコメントさせていただくかも知れませんし、それを含めてまた投稿するかも知れません。
そうやって、やりとりが続くと楽しいなぁと思います。
すぐでなくていいんです。気が向いたときにコメント、1年後でも、2年後でも、それ以上でも。

「訳」の要約 by 私

読んだ本はこれ↓
田川建三 訳著 『新約聖書 訳と註 3 パウロ書簡 その一』 作品社。

「訳」を私なりに要約‥。

私は、コリントの教会への訪問が苦痛なものにならないようにしようと決めた。もし私が苦痛を与えるとしたら、その相手は私を喜ばせる筈の人だ。このことを書いたのは、私がそちらに行ったときに私を喜ばせてくれる筈の人々から苦痛を与えられることがないようにだ。

コリントの信者のなかに1人、他の信者たちにひどい損害を与えた者がいた。私も多少は迷惑を被ったが、それはあなた方全員に負担をかけないためだった。その人については大多数の人から与えられた罰で充分だから、もう許してあげなさい。私はそう呼びかける、それはあなた方があらゆる事に従順であるという証拠を得るためだ。あなた方が許せば私も許すし、私が許せば私が許したのだから、あなた方のために神の前で許したことになる。
宣教のためにトロアスまで来たが、兄弟ティトスに会えなかったので、マケドニアに出ていった。

神に感謝。神は、我々を通してキリストを知る匂いを、至るところで明らかにする(まともな日本語にできない‥😭)。
我々は神の言葉を売り物にしている他の者たちとは違うのだ、純粋さから語っているのだ。

「註」の解説。私見多し。

田川建三本の「註」を私なりに解説というか、抜き出し。

パウロがエフェソを出て、トロアスからマケドニアに行った話が13章までで突然、中断される。全く違う話が続いた後、7章5節でマケドニアに行った話の続きに戻る。そこで別の書簡である2章14節から7章4節までが、たまたま挿入されてしまったという学説があるとのこと。
この学説を採用すると、2章は14節から別の話になる。

ただ、そこまでも意味不明‥今回の投稿を書こうとして行き詰まり、放り出して、寝た。一晩たって、田川建三の言ってる事が分かった気がする。

田川建三によると、パウロはコリントの信者たちから、パウロの伝えるキリストは本物か証拠を見せてみろと詰め寄られた(1コリント13・3)ので、問題をはぐらかして、ではお前たちが本物であるか証拠を見せてみろよと切り返したのだと。

冒頭の、パウロがコリントの教会を訪問するときの苦痛を与える云々は、パウロとコリントの信者たちの間の揉め事だ。
パウロにしてみれば、コリントの信者が自分に従うのが当たり前で、そうすればパウロは喜ぶ。そうでないとパウロは(前回の訪問のように)苦痛を感じるし、パウロの方も信者に苦痛を与える(田川建三によると、罰を与える)ことになるよと。

そして、次にいきなりコリントの信者間の揉め事を持ち出して、パウロとの揉め事の話をはぐらかす。
一方の当事者の信者を許せ、そうすれば自分パウロ様も許す、そうすればパウロ様が神の前で許したことになるよ、そうやってオマエ達コリントの信者はパウロに従順だ、正しい者だって証拠を見せなさい、と。

パウロは他の信者を許せと、正しいに決まってることをわざわざコリントの信者たちに指示し、それをするならオマエ達が正しいと私パウロが保証してやるぞよ、と。
別にパウロに指示されなくたって、コリントの信者たちは許したかも知れないのに、そうするのが正しい事をあえて指示することによって、コリントの信者は私パウロに指示されて正しい事をする立場だよ、それを指示するパウロは正しい者だよと、パウロは理屈を捏ねてコリントの信者たちに自らの正当性を質されたのの返答とした。

感想

やっぱり人間関係の話だよねーこの章も。
パウロ、コリントの信者、信者のなかで非難されてる人の三つ巴。

こういうのって、どうするのが良いんだろう。

初めの頃のキリスト教信者たちは、お弔い互助会みたいなことをやってて、それに惹かれて仲間に加わった人もいたと読んだことがある。

お弔い互助会をやるにも旗振り役がいた方が円滑に進むかも知れないから、パウロみたいなマウント癖のある人でも上手に担げば、皆の利益になるのかなぁ?
しかしただマウントするだけでなく、本部に上納するからもっとカネ寄越せって、そんな事ばかり言う奴じゃ、やっぱり困るか。

パウロを抜きにしても、コリントの教会内も揉めていたみたいだ。
そこでの人間関係ていうか、意思決定の過程はどうだったのかなぁ?
統治がゆるゆるで、集めた献金の着服とかも簡単にできる状態だったのか?
パウロみたいにマウントする人も、内部にやっぱりいたんだろうか? 神様を持ち出して、マウントの材料にするとは、タチが悪いよね。

どういう人間関係が、お互いに幸福に過ごせるのかなぁ‥。


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