時間差読書会。ハンナ・アーレント、だいぶ脱線
本の感想を投稿して、興味のある方からコメントをいただいて、というのをnote上でやりたいです。
この本について、また私の投稿についてnoteに(他のブログ等でも、もちろん可)書かれたらお知らせください。読ませていただきます。
そして、構わなければコメントさせていただくかも知れませんし、それを含めてまた投稿するかも知れません。
そうやって、やりとりが続くと楽しいなぁと思います。
すぐでなくていいんです。気が向いたときにコメント、1年後でも、2年後でも、それ以上でも。
はじめに
今回は、本を読んでどうこうでなく、また読書会に出て思ったことを、最初から書く。テーマとしては、やっぱり「コスパ」だ‥だって、読書会の指導者がその言葉をすごい嫌いみたいなのだけど、どうも腑に落ちないのだ。だって、「コスパ」を考えずに生きられる人間っているのか? 考えないと、どんな良い事があるのか?
身の回りの「コスパ」
私は楽器を習っている。その先生について書きたい。
先生は十代で留学して、その楽器を教える資格をとって帰国した。以来、それを教えること専業で食べている(んだと思う)。
下品かも知れないが、私はすぐ考える‥収入はいくらぐらいか、食べるのに困らないのか、と。
実際、先生にとって教えるのは食べていくための労働だ。1日は24時間、1週間は7日、気力も体力も有限だ。そしたら、持ってる資源をいくら投入して、いくら月謝という金銭的パフォーマンスを得るのかは、切実な問題だと思う。コスパを考えてないとは、ちょっと思えない。
だったら、先生にとってその楽器を教えることは、食べていく以上の意味を持たないのか?
社会にとって、その先生が労働で収入を得て、消費し、税金を払う以外の意味はないのか?
どっちも、違うでしょ❗️って私は思ってる。
アーレントにとっての「私的領域」と「公的領域」
前節の、先生が楽器を指導するのは、食べていくための「私的領域」だから価値がないのか?
‥初めて読書会でアーレントの本を持って、そこに違和感を持った。現代の社会で普通に生きてる人間が常識で考えて、同様な人も多いんでないかなぁ。
検索してみたら、アーレントが「私的領域」と「公的領域」を「リジッドに」分け過ぎていることに、他の研究者から批判が集まっていたと、ある論文に書いてあった。
途中で面倒になって、読み通せなかったので、「リジッドに」分け過ぎているって何の意味かは不明だけど、ともかくその二つを分けて一体どうするよ⁈って思う。
しかしその論文はいってる(らしい)、アーレントがそうやって分けたのには意味があるのよって。
あーさっきも書いた通り、全部は読めなかったので、どんな意味(意義)があるのかは分からない。
指導者の「公的領域」「私的領域」
これは楽器の先生ではなく、読書会の先生の方だ。こっちは報酬なしでやってるので、アーレントのいう「公的領域」の方かも知れない。
‥でも悪態をつきたくなる。今がリタイア生活ということは、幼少期は戦後で辛かったかもだけど、それから高度成長期から現役時代を送ってめちゃラッキーだったでしょ、社会から恩恵を受けてるでしょ、恩返ししたって損はないでしょって。
どちらかというと私もその世代に近いので、自分も現役を退いたら恩を返すつもりかね⁈って、天に吐いた唾が落ちてくるのだけど。
今のところ、金銭的パフォーマンスに関係のない、私からすればお花畑のようなお話が続いている。家庭菜園でとれた野菜がどうの、釣りがどうのとか‥、そして食べていくためでもなく、おすそ分けしたりらしい。ま、「公的領域」に近いのか。
いや私もその手のことは、どっちかいうと好きだ。ただ私は怠け者なので手間コストを惜しむ。私の「庭」には何か柑橘系の苗と、冬を越せないかも知れないパパイヤ、葡萄、キウイの苗がある。どれも実生というか、果物を食べて皮や種を植木鉢に埋めておいたら出てきて、今年の猛暑で爆成長といいたいぐらいに大きくなった。しかし、「コスト」はゼロに近いが、「パ」も今のところ殆どない。これも実生の紫蘇が、今年はやけによく育ったぐらいか。
いや問題はお話ではない。「公的領域」をやってるのは‥こういうと非常におこがましいが‥結構な事だけど、「公的領域」で過ごしてる人だけが「政治」をやるのは良い事か?
そして、指導者によると、芸術も「政治」(とも言える?、なりうる?)だってことだけど、芸術を「公的領域」でやってる人だけに価値があるのか?
‥「私的領域」でやってる人のことは置いといて、「公的領域」でやってる「政治」だけに注目しましょうってことなのか⁇ それは何故?
ついでに、やっぱり「コスパ」
何で指導者がそんなに「コスパ」という言葉を嫌がるのか知らないけど、「公的領域」だってコスパ意識は大事だし、ふつう考えてるのじゃないのかなぁ。
それにコスパを考えてるから拝金主義者ということでもないし、コスパってただ物を考えるやり方だから良い悪いってないんじゃないかなぁ‥好き嫌いはあってもいいので、ただ嫌いなんだよ❗️ってことかも知れないが。
コスパを考えない例として出された話も、私には納得できなかった。
宮本常一の著書に出てくるエピソードだ。
(私の記憶では、)宮本常一がある村に調査に行って、村の資料を貸して欲しいと頼んだ。
村人たちは皆で集まって三日三晩かけて、どうするかを話し合った。
資料を貸したって村人の生活費が入るわけじゃなかろうから、「公的領域」の話なんだろう。
で‥村人にとって、三日三晩かけて話し合うのは、コスパを考えない行為なのか?
農業で暮らしてるか、漁業だか知らんけど、食べていくための労働に時間をとられるので、他に無駄な時間コストをかける余裕はないのではないか?
例えばだけど、皆で時間かけて話し合うのでなく、誰かに決めるのを任せたら、決定権てものをその人に渡してしまって後々困る、取り戻すには余計に時間がかかるとか。
誰かに決めさせることにしても、責任をとるのが嫌で、誰も引き受けないとか。
皆でささっと決めて後で困った結果になったときに揉めないように、あの時あれだけ時間かけて話し合ったんだからという実績を作っておきたいとか。
要するにリスクまで考えると、皆で時間かけて話し合うのが一番コスパがいいってことじゃないんだろうか?
聞いてみたいけど、指導者はちょっぴり怖いので、なかなか聞けない。