時間差読書会。新約聖書、第2コリントス 4章

本の感想を投稿して、興味のある方からコメントをいただいて、というのをnote上でやりたいです。
この本について、また私の投稿についてnoteに(他のブログ等でも、もちろん可)書かれたらお知らせください。読ませていただきます。
そして、構わなければコメントさせていただくかも知れませんし、それを含めてまた投稿するかも知れません。
そうやって、やりとりが続くと楽しいなぁと思います。
すぐでなくていいんです。気が向いたときにコメント、1年後でも、2年後でも、それ以上でも。

読んだ本はこれ↓
田川建三 訳著 『新約聖書 訳と註 3 パウロ書簡 その一』 作品社。

「訳と註」の要約

1-3節
我々はキリスト教徒であることを恥ずかしがって隠すのでなく、神の言葉を伝えて歩いている。
我々が神の福音を語っているということが通じず、自己宣伝をしているなどと言っているのは、滅びる者たちである。

4-5節
この世の神は、我々を信じない者たちが、我々の伝える福音に耳を貸さないようにしてしまったのだ。
我々は自分たちについてでなく、キリストのことを伝えて歩いているのに。
☆「この世の神」と書かれているので、パウロは神の二元論を説いたのかという議論があるとのこと。
(自分の意見では、今でも(ちと古いか?)拝金教と言ったりするようなもので、この世のことにかまけ過ぎてるってのを、ただ「この世の神」って言っただけじゃないかと思うのだけど?)

6節
何故なら神は、我々(私)の心の中を照らして、神の栄光を理解させてくださったのだから。
☆パウロの、ダマスコでの神の幻視体験のことらしい。

7-9節
我々は陶器のように壊れやすい、脆い人間であるが、神という宝を内に抱いている。だから様々な困難に遭ってはいるが、くじけない。迫害する者もいるが、見捨てられる筈がない。

10-14節
イエスが十字架にかかって死んだことを、いつも担いで、伝えて回っている。だから我々(私)も死の危険に晒されているけれども、それは永遠の生命に繋がることでもある。
こうして我々(私)が死の危険を冒してキリストの福音を伝えて、あなた方も永遠の生を受けるのだ。
我々(私)は自分の信じたことを、語っているのだ。イエスを復活させた方は、我々をも復活させて、あなた方とともに側に招いてくださるのだ。

15節
☆意味不明と、田川建三が書いている。

16-18節
我々の外側の肉体は死ねば朽ちてしまうが、内にいる神は永遠のものだ。見える我々の体も、この世も一時的なものだが、我々は見えないもの、つまり神を目指しているのだ。
☆新共同訳には、「肉体が朽ちる」でなく、年とって衰えていくとアホなことを書いてるとあった。見てみたら、「外なる人」は衰えていく、とほんとに書いてあった。イヒヒ😁

感想

1-3章に続けて、パウロは、自分は自己宣伝してるのじゃない、キリストに照らされて、死を賭して伝えて回ってるのだと、弁解の言葉を連ねている。
イタイとは、このことだ。
どっちかというと可哀想というより、嘘がバレそうになった詐欺師の臭いがプンプンするがなぁ。
パウロって嫌いだしなぁ‥というより、教会で聖パウロ様がこう教えておられるってのを散々聞かされて、パウロって偉そうなフザケた奴だと思いながら読むからかも知れんけど。
田川建三の言うようにパウロってホントに偉そうなフザケた奴だったのか、実は偉そうな物言いはするけど信者にはあんまし相手にはされてなくて、だけど後世にはこうして大量に文書が残っちゃってそのせいで偉そうに君臨してたと誤解されてるって可能性もあるなと思ったりもした。

いいと思ったのは最後の18節とか、それに続く16-17節辺りで、たとえ苦しい事があったって、そんなの過ぎてしまえば一時的なもんで、人生そのものも宇宙の持続時間に比べたら一瞬だし、自分自身を情けないと思うときがあっても、何億年?も代わる代わる生きてる人類の一人に過ぎない自分が良くも悪くもそんなに並外れてる訳ないしなぁと思うと、まぁそう気にしなくてもと思えるのだけど、これって残念ながら別に新約聖書の専売特許じゃないのよね。

あと、聖書にこう書いてあって、田川建三はこう言ってて、それについて私はこう思うってのがこの読書会投稿の主旨なのだけど、あんまり引用したりとかすると怒られそうだし、単語をちょっと変えれば良いってもんでもないだろうし、どの程度書いて大丈夫なのか、ちょっと悩んだ。終わり。



いいなと思ったら応援しよう!