時間差読書会。新約聖書、第2コリントス 1章
要約 by 私
読んだ本はこれ↓
田川建三 訳著 『新約聖書 訳と註 3 パウロ書簡 その一』 作品社。
その「訳」を私なりに要約。
私(パウロ)たちは、コリントの教会への期待を捨ててない。
誤解されてるかも知れないが、私たちは自分の考えでなく神のみ旨によって行動してきたのだ。
私があなたがたに書いたことは、あなたがたが読んで理解したそのままだ。
最後の審判の日には、あなた方が我々の誇りでもあるし、あなた方にとっても我々が誇りとなるんだよ。
エルサレムに行く前にコリントの教会に寄るのが、コリントの教会への恵になると思ったのだが、違うのか?
私たちは神に油注がれているのだ。
その後、私たちがコリントに行かなかったのは、あなたたちに遠慮してやったのであるぞ。
「註」の解説 by 私
田川建三本の「註」を私なりに解説というか、抜き出し。
12節 自分は「神の聖さ」をもって振る舞っているのだ。
‥ずいぶと思い上がった書きぶりで、田川建三によると、パウロはこの手紙の冒頭からカッカと怒っているからと。
13節 コリントの信者たちは、パウロが以前書いた通りの事を本当に思っているのかと疑っているかも知れないが、書いたことそのままだよ。
‥コリントの信者たちが疑問をもったらしいが、何についてかは研究者たちが主張したりしているものの、分かってないとのこと。
14節 最後の審判では、パウロたちはコリントの信者達をはじめ、大勢に宣教したことが裁きに有利に働くし、コリントの信者たちだってパウロに(ちゃんと)洗礼を授けられて(従ってきた)のが有利に働くんだよ、と。
15-16節 パウロがコリントの教会に行くのは、パウロとしては神の恵みなのだと。
‥パウロがエルサレムに持っていく献金がコリントの教会でうまく集まってないので、行って尻を叩こうとしたらしい。
そしてコリントに寄って、見送って貰うのは、旅行の準備を整えて、旅費を工面して貰うことでもあるとのこと。
21節 神はパウロたちと、あなた方を「キリストへと堅く立て給うた」けど、油を注がれたのはパウロ(たちというより、実際には)だけだよと。
‥田川建三によると、新約聖書ではイエス・キリスト以外に「油を注がれた」なんて書いてないのに、唯一の例外としてパウロは自分についてこんな事を言っている!と。
23節 パウロとしてはコリントの信者たちに何らかの罰を与えることを考えていたけど、今回は遠慮してやめておいてやる、と書いたのだと。
これについては、後の章で出てくるらしい。
感想
私は生まれてすぐ洗礼を授けられて、日曜学校に通って、、、今はもう教会に通っていないのだけど、聖書には興味があり、信仰の糧として読んでいる。
ただ、いろんな人がいうように聖書は自分で読むだけでは理解が難しい。
教会に通っていたときに教えられたのも、イマイチ頷けない‥ミサ説教とか、「聖書と典礼」の解説とか、日曜学校での指導とか、あるいは教会での聖書勉強会とか。
今は、この田川建三の本が自分には一番信頼が置ける。
で、田川建三の本を読むと、聖書って、そしてキリスト教の教えって徹頭徹尾、人間関係について言ってるんだなぁと思う。
パウロのこの人間くささというか、人間の愚かさが何ともいえず、印象深い。
そして明示暗示される、その頃の教会の人間関係も同様だ。
こういう卑近な人間関係の話だったのに、何故か二千年にもわたって大勢の人を洗脳し、束縛し、苦しめてきたっていうのも、何だかすごく感慨深い。
そこから神のみ旨をどういう風に読みとるか‥ただパウロってこんなゲスな奴なんだってだけじゃ読む価値がない‥これをいつも考えているのだけど、なかなか答えが出ない。